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第28章 白兎の家

Chapter XXVIII White Rabbit's house



 馬車の轍が残る森の小道を、アリスはひたすら歩いた。何度か振り返りながらも涙の池の喧騒から逃れるように足を動せば、風から潮の香りが徐々に消えていく。耳に届く騒音がざわめき程度になった頃、それまで黙っていたチェシャ猫がうんざりしたように息を吐いた。


「ああ、うるさいったらないな。あいつらの真ん前にいた時よりはましだけど、まだ頭に響くよ」


 そう言いながら残響を払いのけるように頭を軽く振る。人よりも聴覚がいい分、感じる音もアリスの比ではないだろう。アリスは慰めとおかしさが入り混じった気持ちで笑った。


「本当ににぎやかだったわね」

「にぎやか? そんな楽しい表現ができるようなもの?」

「確かに少し疲れはしたけど。でも、こうして終わったことだし」


 緑深い森の中で、動物たちの騒ぎ声はもはや囁きのようにしか聞こえない。アリスはもう一度だけ涙の池を振り返りるとそこど足を止める。そうして同じように立ち止まったチェシャ猫にぱっと向き直った。


「それで、白兎の家はどこにあるの?」


 それは彼にとって思いがけない質問だったらしい。金色の目をわずかに見開いたかと思うとすぐに伏せ、大袈裟に肩をすくめた。その動作で片手に持ったティーポットが揺れ、中で寝ている眠り鼠が小さな呻き声を上げる。


「これから行こうと思ってるの?」

「当たり前でしょう。いろいろあって後回しになっちゃったけど、ずっとそのつもりだったのよ」


 白兎の家には帰るために必要な何かがある。その“何か”すらまだわかっていないのだから、早く行動を起こしたいと思うのは当然だった。

 しかしチェシャ猫は眉根を下げて困ったように笑い、「明日にしようよ」と小首を傾げた。


「どうして? もしかして疲れたの?」

「疲れてるのは俺じゃなくて時間の方じゃないかな。だってもう三時をだいぶ回って、もうすぐ夕方だよ。そしてすぐ夜になる」そこでチェシャ猫をアリス見て目を細めた。「あんたみたいないい娘が、あんまり遅くまで外をうろついてるもんじゃないよ」


 まるで親か教師のような言い分だったが、アリスに従う気はなかった。チェシャ猫はアリスの親でも教師でもない。彼らにまた会うために、アリスは元の世界に帰りたいのだ。


「心配してくれてありがとう。でも、私は行きたいの。一人でも遠くででも。あなたが行きたくないなら、場所だけ教えて」


 アリスのかたくなな態度にチェシャ猫も無駄だと諦めたようだ。小さく息を吐き、力ない動作で小道の向こうを指差した。


「あそこだよ」


 人差し指が示す先、アリスが視線を向けたその場所には、低い柵に囲まれた一軒の家が建っていた。

 漆喰の白壁に赤い屋根の瀟洒な家で、特に目を引いたのは空に向かって突き出ている大きな煙突だった。今の季節は暖炉を使わないので、鳥が入り込んで巣を作らないように網が張ってあるのがわかる。

 門に近づき、掲げられた真鍮の表札を見ると確かに“W.RABBIT”の文字が刻まれていた。


「何よ、すぐそこじゃない」アリスは眉をしかめ、横目でチェシャ猫を睨んだ。「少し歩けば着いたのに、もったいぶっちゃって」


 厳しい目を向けられたチェシャ猫だったが、微笑むばかりで視線に堪えた様子はなかった。相変わらず何を考えているのかわからない。アリスが目を逸らして溜め息を吐くと、笑い声と共に肩に手を置かれた。


「もったいぶったつもりはないんだよ。――ほら、ふくれっ面してないで。表の庭には誰もいないみたいだから、入るなら良い時じゃないの?」


 日当たりの良い庭は丹念に手入れがされており、植え込みの間から菜園と温室が見えた。チェシャ猫の言う通り人影は見当たらないが念のため庭木や薔薇の茂みに隠れながら移動する。

 玄関前の石畳まで来たアリスはそこで立ち止まり、これから侵入するべき白兎の家を眺めた。


「何だか静かだ。家の中には誰もいないみたいだね」


 同じように家を見上げていたチェシャ猫が目を細めて呟いた。人よりも優秀な耳で屋内の様子を探っていたようだ。


「留守ってこと?」

「らしいね。もともと使用人の数自体少ないから、仕事や用によってはみんな出払ってることもあるよ」

「それなら今のうちね。――でも、ビルはどうなの? 家の番が仕事なんでしょう」

「そうだけど、家の中には何の気配もないよ。外で昼寝でもしてるのかな」


 それで番が勤まるのだろうか。アリスは疑問に思ったが、今はその方が都合がいいので何も言わなかった。


「なんとかして中に入らないと」

「開いてるところがあればそこから入れるよ」

「そんなところ、都合良くあるかしら」


 口ではそう言いながらも、アリスは少し期待して目につく窓を調べ始めた。しかし案の定どれもしっかりと錠が下りており、カーテンも閉じた状態なので中の様子を見ることも出来ない。もしかしたらと試した玄関にも当然のように鍵が掛かっていた。


「だめね。開いてるところはないわ」


 諦めて首をゆるく振るアリスに、チェシャ猫は「だろうね」と無責任な態度だ。言いだしっぺにもかかわらず、最初から期待していなかったらしい。


「入れてもらえることになってないし」

「それもそうね。――今までは楽だったわ。入れてくれる人が中にいたんだから」

「誰もいない家にそんな奴はいないよ。でも、だからって締め切ってるのも良くないよね」


 そう言うと、チェシャ猫は持っていたティーポットをアリスにひょいと渡した。アリスは一瞬ぽかんとして持たされたティーポットに目を落とすが、すぐに顔を上げた。そうしてチェシャ猫を見ると、不思議なことに右手を拘束衣の袖で覆っている最中だった。動きを戒めるために背中まで届く布地は簡単に手の平を包み込む。アリスは行動の意味がわからず首を傾げた。


「何をしてるの?」

「手の保護。動脈なんか切ってまた血を流したくないからね」


 物騒な答えに言葉も無く目をしばたかせていると、チェシャ猫は袖で覆った手にいつの間にか取り出していたナイフを握った。そして一番近い窓の前まで歩いて行き、腕を無造作に振りかぶる。何をするのか理解したアリスは反射的に強く目を閉じた。


 がしゃん、と硝子が割れる音。そっと目を開けると、無残な有様となった窓硝子が視界に入った。全体に蜘蛛の巣のようなひびが入り、ちょうどナイフの柄を叩きつけられた場所には縁がぎざぎざした穴ができている。皮膚や血管をも切り裂く鋭い破片は家の床に散らばっていた。


「壊しちゃうなんて、乱暴すぎない?」


 おそるおそる声を掛けるアリスに、チェシャ猫は悪びれもせずに笑った。ナイフをしまい、袖を元に戻すと硝子の穴に手を入れて掛け金を外した。


「風通しを良くしただけだよ。おまけに俺たちも入れるんだからいいじゃないか」


 窓が開き、まずチェシャ猫が中に入った。軽い動作で窓枠に片足を掛け、音も無く室内の絨毯に着地する。アリスもそれに続こうとしたが、その前に鼻先で窓を閉められてしまった。


「入れてくれる人が中にいたら――って言ってただろ? せっかくそんな奴が中にいるのに、窓から入ることないよ。ドアを開けてあげる」


 抗議の声を上げる前にそう言われ、アリスは開きかけていた口を閉じた。

 ティーポットを両手で持ちながら窓のそばに突っ立っていると、すぐに玄関から鍵が開く音が聞こえてきた。チェシャ猫が中から開錠したのだ。扉が音も無く、すべらかに開かれる。


「ようこそ。白兎の家へ」


 この家の住人ではないチェシャ猫の歓迎を受け、アリスは家の中へと足を踏み入れた。



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