第27章 涙の池では笑いが絶えない
Chapter XXVII The Pool of Tears is full of laughter
コーカス・レースに沸く動物たちの拍手と喝采は、開催宣言からしばらく経っても鳴り止まなかった。それどころかどんどん大きくなっていく。耳を塞ぎたくなるほどの騒音になったところでようやく、ドードーが咳払いをして場を静めた。
騒ぎの余韻がすっかりひいた後、涙の池は再びすすり泣きに包まれた。
「まずは眠り鼠から開会の言葉をお願いします」
ドードーに視線を向けられたアリスは、はっとしてティーポットの蓋を開けた。中をのぞくと、先程までの大騒ぎにもかかわらず、眠り鼠はひげをひくひくさせて気持ち良さそうに眠っていた。
「起きて」アリスはティーポットに顔を近づけて囁いた。「開会の言葉ですって。何か言って」
その声に眠り鼠は目を覚まし、ゆっくりと瞼を上げた。のそのそとティーポットから顔を出して周囲の動物たちを見回し、小さな欠伸を一つ。そして億劫そうに口を開いた。
「亀が言いました」
寝言のような声でそれだけ呟いた眠り鼠は、早くもうつらうつらし始めた。アリスが指先で頭をちょんとつつくと、ぱっと目を開けて話を続ける。
「亀が言いました。犬は死にます。そしてはフュリーは犬です。これらが真実でありながら、私はフュリーが死ぬとは納得出来ない者です。何故なら犬は死ぬこと、フュリーが犬であることが正しいときに、フュリーは死ぬということが真になるという根拠が必要であり、さらにその根拠は正しいという根拠が必要であり、それからまたその根拠は正しいという根拠が必要であり、その上で加えてーー」
眠り鼠の話は続く。何も変わらない、終わりのないどうどうめぐりの話を聞きながら、アリスは少しだけ心配になってきた。これが開会の言葉になるのか、ちゃんと収拾がつくのかと焦りを感じていると、とうとう眠気が頂点に達したのか、眠り鼠は欠伸を一つすると話を終わらせずにティーポットの中に戻ってしまった。指でつついて見ても、今度は瞼すら動かさない。
アリスは仕方なくティーポットの蓋を閉め、「話はおしまいです」と言ってその場から一歩下がった。文句を言われるかもと首をすくめていたが、返ってきたのは割れんばかりの拍手だった。
「いやいや、すばらしい話でした」
ほっとしていると、皆と同様に手を叩いているドードーがすぐ横にやって来た。
「そうね。眠り鼠にそう言ってあげて」
「起きているときに伝えましょう。しかし助かりました。当初話をするはずだった鼠が、今日になって突然来れなくなりましたのでね」
「ふうん、どうして?」
何気なく質問したアリスの耳にドードーはくちばしを近づけ、はばかるように声を落として答えた。
「自分の尻尾がからまってしまったのです。それも五回も」
「何があってそんなことになっちゃったの?」
「それが長くて悲しい話でして……」
ドードーが嘆くように目元に手を当てて話し始めようとした途端、子鷲が喚いた。
「そんな話はいいよ、さっさと始めて!」
その声を皮切りに他の鳥獣たちからもレースの開始を求める声が上がる。ドードーはぱっと動物たちに向き直った。
「そうですね、では早速始めましょうか。皆さん、位置についてください」
指示された動物たちは騒がしく今いる場所から移動し始めた。アリスも一緒に池に沿って歩いて行くと、リボンを小さな杭で地面に留めて大きな円の形にしたコースが見えてきた。動物たちはコースにしたがって各自がばらばらの位置についていく。
突っ立ってその様子を見ていたアリスだったが、ドードーに「こちらです」と手を引かれて鳥や獣の輪に連れて行かれた。いつの間にか参加することになっている。
(まあ、いいか。どんなレースなのか気になるものね)
眠り鼠入りのティーポットは競技の邪魔にならないコースの中央に置いておくことにした。身軽になったアリスは位置につき、ちょうどコースの向かいにいるドードーからレースの説明があるのを大人しく待っていた。
しかし説明はなかった。何の合図もなく、動物たちが皆好き勝手に走り出したのだ。
アリスは一瞬訳がわからなかったが、後ろから他の競技者が走ってくるのでほとんど追いかけられるようにして走った。走りながら振り返ると自分の背丈ほどもある蟹や鳥が背後に迫ってくる。ルールを知らない以上何をされるかもわからないので、必死に足を動かした。
止まったり、また走ったりがしばらく続き、半時間ほど経ったところでドードーが「レース終了!」の掛け声を上げた。
「冬にやるべきよ。暑くて仕方ないわ」
アリスは息を切らせながら額をぬぐった。他の競技者である動物たちも、皆はあはあ言いながら体を休めている。しばらくすると、コースの中央に移動したドードーのところに集合がかかった。
「それで、誰が勝ったの?」
結局どういう競技なのかはわからなかったが、こうしてレースが終わった以上勝者はいるはずだ。アリスがいまだ火照る頬に手で風を送りながらが訊ねると、周囲からは私が勝った、いいや僕だ、と次々と自分の優勝を主張する声が次々と上がる。
主催者であるドードーは額に人差し指を当てて考え込んでいたが、やがて顔を上げて宣言した。
「競技者全員です。皆が優勝者です」
ドードーの判定に、動物たちが一斉に歓声を上げた。ぽかんとするアリスにドードーはうやうやしくお辞儀をした。
「それでは王女様、賞品の授与をお願い致します」
アリスは慌ててポケットに入れていたブリキの箱を取り出した。蓋を開けて中身を見せると、動物たちが喜びの声を大きくする。アリスは一匹一匹に賞品のコンフィを一粒ずつ配って回った。最後にドードーに授与したところで賞品は無くなり、帽子屋からもらった箱は結局手元に残ってしまった。
「王女様への賞品は?」
早速コンフィを食べている蟹の子供がはさみでアリスを指しながら言った。確かに判定からすればアリスも優勝者だが、もらうべき賞品はもう無かった。
「そうですねえ――」
ドードーはコンフィを大きなくちばしの中に放り込んだ後、またもや額に人差し指を一本立てて考え始めた。
少しの間黙ってそうしていた後、ぱっといい案を思いついたというように顔を上げ――突然、おかしそうにくすくすと笑い出した。どうしたのかとアリスは口を開きかけたが、周りでは他の動物たちも笑い声を上げ始めていた。
甲高く笑い続ける金糸雀。泡を吹いている蟹。おなかを抱えて転げ回る子鷲――。皆が皆おかしさが体の中からあふれてくると言わんばかりに笑っている。涙の池のすすり泣きはかき消え、たちまち狂ったような哄笑に支配された。
アリスは恐ろしくなって後ずさったが、数歩後退したところで何かに背中にぶつかってしまった。飛びのいて振り向くと、いつの間にかやって来たのか、チェシャ猫が立っていた。
「あいつら、どうしちゃったの?」
「わからない。こっちが聞きたいわ」
アリスは首を振ったが、ふと顔を上げた。動物たちが笑い出す直前にしたことと言えばただ一つ、賞品の授与だ。
「あのコンフィのせいかもしれない。でも、私も一緒に作ったのよ。変なものなんて入ってないはずなのに」
「その箱に入ってたんだよね?」
チェシャ猫はアリスが持っていたブリキの箱を取り上げると、蓋を開けて顔を近づけた。匂いを確かめた後、片方の眉を上げる。
「何か白い粉みたいなものを入れてた?」
「ええ、シロップに。調味料みたいだったけど」
「それ、調味料じゃなくて幻覚剤だよ。飲んだり食べたりした生き物におかしな行動を取らせる」
「嘘でしょう?」アリスは眩暈を覚えたよう目元に手を当てた。「酸味を加えるだけって言ってたのに!」
「三月兎が間違えたんだね」
「どうすれば元に戻るの?」
チェシャ猫は何も言わずにアリスに箱を返すと、動物たちの方へ歩いて行った。そして笑い続けるドードーの前に来ると、彼を片手で涙の池に突き落としてしまった。
重い水音を立てて池の中に消えてしまったドードーにアリスは短い悲鳴を上げたが、チェシャ猫は振り返って肩をすくめただけだった。
「浮かれてるのと同じさ。頭を冷やしてやればすぐ治るよ」
チェシャ猫は次々と鳥や獣たちを池に突き落としていった。動物たちの数だけ水の音と飛沫が上がり、池に響いていた笑い声は次第に小さいものになっていく。そしてついに辺りはすすり泣きと、動物たちが水をかいて泳ぐ音ばかりとなった。
幸い全員無事で、皆全身から塩辛い水を滴らせながらふらふらと岸に上がってきた。
「あのう、大丈夫?」
正気には戻ったがすっかりずぶ濡れになってしまったドードーにアリスは怖々声を掛けた。地面に落としてしまっていたステッキを拾い上げると、巨鳥はアリスに顔を向けて「ええ、大丈夫です」と丁寧に答えた。
「心配には及びません。きっと甘いものを食べたから、気分が高揚したのでしょう」
ドードーの言葉にアリスは目を丸くした。思わず聞き返そうになったが、周りの動物たちは賛同するようにがやがやと騒ぎ始めた。
「そうそう、甘いものは人を笑顔にさせるから」
「苦いのは嫌だな、あれは辛辣になる」
「胡椒も勘弁だ。前のグリフォンの裁判ではひどい目にあった」
ぺちゃくちゃとしゃべり出す動物たちに、アリスは驚きと戸惑い、そして罪悪感が入り混じった気持ちになった。誰もが甘さゆえに陽気になっただけで、コンフィがおかしかったとは思っていないようだ。
「しかし、すっかり濡れてしまいましたね」
アリスが本当のことを告げるべきか逡巡していると、ドードーが自分の濡れぼそった羽を人の手の平で撫でて呟いた。周りの動物たちも同じようにずぶ濡れで、ぽたぽたと雫を滴らせている。
「このままでは皆仲良く風邪をひいてしまいます。ここは早急に体を乾かす手段を講じる必要があります。体を乾かすには、コーカス・レースが一番です。つきましては――」
ドードーはそこでステッキを持ち直し、動物たちに向き直ると、胸を張って声を上げた。
「本日二回目のコーカス・レース開催をここに宣言します」
動物たちから、一回目に勝るとも劣らない盛大な拍手と歓声が上がった。しかしアリスの方はあっ気にとられてその場に立ち尽くした。
コーカス・レースをもう一度?
あまりに予想の外の展開だった。喜び騒ぐ動物たちの中でしばし呆然としていたが、チェシャ猫に軽く肩を叩かれてようやく我に返った。
「もう行こうよ。あんたはどこも濡れてないから乾かす必要はないだろ。――それに、どうせ同じことの繰り返しさ」
耳元でそう話す彼の手にはすでに眠り鼠入りのティーポットがあった。知らない内に持って来てくれたらしい。
アリスは頷き、そして二回目のコーカス・レースに喜ぶ動物たちを見た。賞品はもう無いし、何よりまた走らされてはかなわない。一つ息を吸ったアリスは、辺りを支配する騒々しさに負けないように声を張り上げた。
「とっても楽しかったわ。皆さん、さよなら」
返事はなかった。いや、した者もあるかもしれなかったが、さらに大きくなった騒ぎの中ではアリスの耳に届くことはなかった。
眠り鼠の話は、「ルイス・キャロルのパラドックス」ともよばれる『亀がアキレスに言ったこと』を元にしました。難しい……。




