第26章 コーカス・レースのにぎやかなはじまり
Chapter XXVI Lively beginning of Caucus-race
邸をまわって玄関前へ向かうと、そこにはすでに馬車が待っていた。黒毛の馬が牽く黒塗りの馬車にこれまた黒の出で立ちの御者が控えている。
人の姿になったチェシャ猫が先に乗り込み、アリスの乗車に手を貸してくれた。眠り鼠入りのティーポットで手が塞がっていたのでありがたい手助けだった。
御者の手で扉が閉められ、馬車は鞭の音を響かせて走り出した。
「帽子屋のところは馬まで静かなのね。鳴きもしなかったわ」
アリスは膝にティーポットを置きながら言った。平らでない膝の上は安定が悪いが、何かの拍子に転げ落ちてしまってはかわいそうなのでしっかりと手で押さえておく。
向かいに座ってその様を見ていたチェシャ猫は笑いながら窓枠に肘をついた。
「変わってるよね。でも、あんただって何も言わないで帽子屋邸を一人で歩き回ったじゃないか」
「まだ言ってるの? あなたは寝てたから起こすのは悪いと思ったのよ」
「起こしていいよ。全然かまわない。まあ、今日みたいに揺さぶられるのは勘弁だけど」
勘違いで振り回してしまった時のことを出され、アリスは眉をしかめた。飄然としているように見えて意外としつこいのは、猫の執念深い習性からだろうか。アリスは呆れ半分、諦め半分の気持ちで溜め息を吐いた。
「今度からそうするわ。でも、確かに帽子屋邸を一人で歩くのは少し怖かったわね。通された部屋も標本や剥製がたくさんあったわ」
「その部屋はまだましな方だよ」
「そうなの? ――いえ、そうよね」
あの部屋にあったのは出来上がりかその直前のものばかりだった。剥製や標本を作る過程――たとえば皮を剥ぐとか、内臓を取り出すとか、それから首を煮るとか――を見ずに済んだのだから、ずっとましだろう。
「それから、標本にするための虫を見せてもらったり、永遠に枯れない花があればいいって話をしたりしたわ。きっと何でも生きた姿のままにしておきたいのね」
「理想が高いね」
そこで会話が途切れ、しばらく馬の蹄と車輪の音だけが馬車の中に響いた。そろそろ目的地だろうかとアリスが窓の外を見たところで、チェシャ猫が口を開いた。
「でも、俺は帽子屋の気持ち、ちょっとだけわかるよ。理想を欲しがる気持ちが」
「あなたも枯れない花が欲しいの?」
「花はいらない。あっても別に困らないけど、その程度だ」
「じゃあ何が欲しいの?」
チェシャ猫はそれには答えなかった。
疾風のように駆け抜けていた馬車は速度をゆるめ、やがて完全に停止した。
緑のにおいを強く感じながら地面に降りるや否や、アリスの耳に誰かがすすり泣くような声が聞こえてきた。周囲を見回してみたが人っ子一人見当たらない。それでも悲痛な声は辺りをこだまして絶えることはなく、まるで場所そのものが泣いているみたいだった。
「風の音だよ」チェシャ猫が囁くように言った。「この場所で泣く理由なんか何もないんだから。さあ、向こうに見えるのが涙の池だよ」
促されて木々の間を見ると、きらめくさざなみがアリスの視界に入った。しかしこの位置から見えるのは池の一部だけだった。
帽子屋邸へ帰って行く馬車を見送り、アリスとチェシャ猫は木立が途切れる場所まで歩いて行った。何も遮るものがない場所で、ようやく池全体を見渡すことができた。
涙の池は池と言うよりも湖と言うべき大きさだった。広大な窪地が青く澄んだ水を湛え、周りを囲む木立ちを逆さまに映し込んでいる。水際まで近づいて水中をのぞき込んでみたが、濁りが無いにもかかわらず底が見えなかった。光が届かないほど深いということだ。
水の中を見つめていたアリスはふと違和感を感じた。それはにおいだ。森の中にあるはずの池から漂ってくるにおいが、奇妙なことに潮の香りだったのだ。
「どうして海みたいなにおいがするの?」
アリスは少し離れたところにいるチェシャ猫に振り返って訊ねた。チェシャ猫は猫らしく水辺に近づきたくないらしい。その場所から動かないまま答えた。
「半分は海だからさ。この池は地下で海とつながってて、淡水と海水が交じり合ってるんだ」
「じゃあ、水をなめたら塩辛いのね」
「なめるの?」
アリスは首を横に振り、暗い水の中を見つめ続けた。魚か水辺の生き物かでも見えないかと目をこらしていると、急に視界が影になった。チェシャ猫が気まぐれに近くに来たのかと思って振り向いたアリスは、もう少しでティーポットを取り落とすところだった。
そこには、いつの間にかアリスの背丈よりも大きな鳥が立っていた。
曲がった大きなくちばしに、飛ぶことはできそうにない小さな翼。頑丈そうな二本の脚。そして羽の付け根辺りから生えている、服を着た人間の手。その手に黒檀のステッキをしっかり持っている。
鳥は何も言わず、ぎょろりとした目でアリスをじっと見下ろしている。
その視線に体がすくんで何も出来ないでいるアリスに、相変わらずこちらに来ないチェシャ猫が笑って声を掛けた。
「そんなに固くなる必要ないさ。彼はレースの主催者だよ」
チェシャ猫の言葉に鳥は丁寧に頭を下げた。
「お初にお目にかかります、ドードーと申します。チェシャ猫の紹介の通り、コーカス・レースの主催をしております。あなたはアリス様ですね?」
「――ええ、そうよ」
いまだに緊張が解けないアリスが小さな声で肯定すると、ドードーは予想度通り、と言うように大きく頷いた。
「やはりそうでしたか。あなた様のご容姿と、城からのおふれにありました次期女王陛下の記述とが一致しておりましたので。――それで、本日はどういった御用で?」
「三月兎の代わりにレースの賞品を持ってきたの。それから、眠り鼠を」
アリスはティーポットを両手でひょいと持ち上げた。ドードーは右手を胸の辺りに置いてもう一度頭を下げた。
「それはそれはご足労を。では、アリス様――いえ、王女様とお呼びした方がよろしいでしょうか。王女様、どうぞこちらへ」
ドードーが先だって歩き出したので、アリスも王女と呼ばれることに顔をしかめながらも大人しくそれに続いた。チェシャ猫は着いて来なかった。
池に沿って向かった先には、アリスの気がつかないうちに人だかりができていた。わいわい、がやがやと騒がしくしている。近づいてみるにつれ、アリスは彼らがどんなものたちなのかがわかった。
鸚哥、子鷲、蟹の親子、鵲、モルモット、梟、猿、金糸雀――。そこにいたのはドードーのように人と同じか、それ以上の大きさの様々な動物たちだった。誰もが涙の池の泣き声をかき消す騒々しさでぺちゃくちゃとしゃべっている。
ドードーは動物たちの前で立ち止まると、その騒音に負けないくらいの声を上げた。
「皆さん、静粛に!」
動物たちはぴたりとおしゃべりをやめてドードーを見た。注目を集めたドードーは傍らにいるアリスを手で示すと、厳かに口を開いた。
「こちらは次期女王陛下であらせられます、アリス王女です」
ドードーの紹介に、いくつもの目が一斉にアリスに向けられた。誰もがアリスよりもずっと大きな目をしている。アリスがぎこちなく会釈すると、拍手とおしゃべりが沸き起こった。
「まだ小さな女の子だなあ」
「女王陛下も人並みのことをなさるのね、子供の親になるなんて」
「お祝いの式典があるかな? ご馳走がいっぱいだといいな」
「きっと食べきれないくらいあるよ。タルトにビスケット、大麦糖――」
「お菓子ばっかりじゃないの。私は牡蠣が食べたいわ。氷をかいた上にのせたのを、レモンと塩をかけて食べるの」
「ふーん。そんなに好きなら、牡蠣を見習ってもう少し静かにしたら?」
だんだんアリスから話題がはずれていく動物たちをドードーは咳払いで静めた。
「おしゃべりはそこまでです。――そろそろ三時ですね」
ドードーがどこからか懐中時計を取り出したので、横で立っていたアリスも一緒になって文字盤をのぞき込んだ。その瞬間に長針と秒針がぴったりXIIを指し、時刻は三時きっかりとなった。
それを確認したドードーは時計をどこかへしまった。そして動物たちに向き直り、高らかに声を上げた。
「午後三時になりました。それでは、コーカス・レースの開催をここに宣言します」
動物たちから盛大な拍手と歓声が上がった。




