第25章 時間と仲良く
Chapter XXV With Time good terms
「ところで、何か用があるらしいが」
昼食のぞっとする真実を知って色を失っていたアリスだったが、頭蓋骨に針金を巻いている帽子屋の言葉に当初の目的を思い出した。頭を振って思考を切りかえ、三月兎からの頼みごとを伝える。
「コーカス・レースの賞品を入れる箱をもらってきてくれって言われて来たの。見栄えのする箱がいいそうよ」
帽子屋は何も言わずに手を止めて、視線をわずかに上に向けた。要望に見合う品を模索しているらしい。しばしの沈黙の後、唐突に棚の一つに歩いて行って戸を開ける。そしてブリキ製の箱を取り出すと戻って来てアリスに手渡た。リボンを模した緻密な装飾が施されたそれは、確かに賞品にふさわしかった。
「ありがとう」
「急ぐべきだな。この部屋に時計はないが、三時が近いのは確実だ」
「あなたは時計を持ってないの?」
「時刻のわかる時計は持っていない」
アリスは意味がわからなかった。しかし帽子屋は中断していた標本製作の続きをはじめてしまった。邪魔をするのも悪い。詳しく聞いている暇も無い。
ブリキの箱をエプロンのポケットに入れて帽子屋にもう一度ありがとうを言うと、標本の部屋から退室した。
「時間と仲良くするように」
扉が閉まる寸前、帽子屋がそう呟いた。
廊下は相変わらず暗かったが戻るための道順は何とか頭の中に残っていた。いくつもの扉を通り過ぎてたどり着いた第二厨房の扉を開けると、不満顔の三月兎が腕を組んで練り台に座っていた。
「遅いよ」
「ごめんなさい、いろいろあったの。でも箱はちゃんともらってきたわ」
「そうかい、それなら全部揃ったね。さあ仕上げだ」
三月兎は練り台からぴょんと飛び降りた。そして台に置いてあったボウルの中に刷毛を入れると、透明でぬるぬるしたものをコンフィの表面に塗り始めた。
「何なの? それ」
疑問に思ったアリスがよく見ようと足を踏み出す。すると靴の下から軽い感触とかすかな音が響いた。何かを踏み潰してしまったようだ。慌てて足をどけると、粉々になった卵の殻が床に張りついていた。
驚いて辺りよく見てみれば、石でできた床には割れた殻と数個の潰れた卵黄があちこちに散らばっていた。
「何なの、これ」
「卵白を溶いたものだよ」
「そうじゃないわ。――いいえ、それも聞いたけれど」アリスは首を振って床の惨状を手で示した。「この有様は何? こんなに散らかして、殻を踏んじゃったじゃない」
「そうかい、それは良かったね」
いくら文句を言っても、三月兎は刷毛を動かすことに熱中していて会話にならない。
本当に何を言っても無駄だ。
アリスは小言を諦めて練り台の傍らの丸椅子に座った。コンフィが濡れた輝く膜に覆われていくのを大人しく見守っていると、軽い音を立てて練り台に何かが飛び乗った。音がした方に顔を向けると、チェシャ猫がこちらを見返して首を傾げていた。いつの間にか目を覚まして昼寝をしていた調理台から飛び移って来たようだ。
「起きたのね」
「さっきから起きてたよ。目を開けたらあんたがいないから驚いたけど」
そう言ってチェシャ猫は欠伸をすると、冷たい大理石の上を音も無く歩いて来た。そしてアリスの目の前で足を止め、断りもなく膝に乗っかってきた。
「ちょっと、いきなり何なのよ。重たいじゃない」
「だって少し目を離すとすぐどこかに行っちゃうんだから。わかるところでちゃんと見てないと」
「あなた、私の親なの?」
よっぽど払いのけてやろうかと思ったが、チェシャ猫は気分良さそうにエプロンの上で丸くなってしまった。その様子が小鳥を食べたばかりで満足している飼い猫そっくりだったので、どうにかする気がそがれてしまう。アリスは図々しい猫を膝に置いたままで三月兎の作業に視線を戻した。
すでに卵白は塗り終えられ、仕上げの白砂糖をまぶす作業に取り掛かっていた。粉雪のような砂糖がシロップをまとった果物の表面に降り注がれていく。最後の一つまで美しく化粧をされ、コーカス・レースの賞品ははようやく出来上がった。
「味見をするかい?」
仕上がったばかりのコンフィを一粒指差し、三月兎がアリスを見た。形から中身はオレンジだとわかる。
オレンジは好きだが、アリスはすぐには頷けなかった。望まず知ることになったこの邸の調理事情のせいだ。見てもいないのに鍋で首を煮込む場面が何度となく頭に浮かび、たとえ三月兎が作ったお菓子でも口に入れることをためらってしまう。
申し訳なく思いながらもアリスは味見を辞退することにした。
「ごめんなさい。今はいらないわ」
「そうかい? まあ、多分おいしいだろうからいいよ」
「じゃあ出来上がりなのね」
「いいや、まだだよ。帽子屋からもらった箱をくれないか。それに入れて完成さ」
三月兎が手を出してきたので、アリスは慌ててチェシャ猫を膝からどけて椅子から立ち上がった。床に着地したチェシャ猫の不満げな声を無視してポケットからブリキの箱を取り出すと、手の平の上に乗せてやる。
「ふむ、なかなかいい箱だね」
三月兎は箱をためつすがめつしてから蓋を開くと、コンフィを一粒ずつつまみ上げて次から次へと中に放り込んていった。そして全てを入れ終えて蓋をしっかりと閉めると“完成”した賞品をアリスにずい、と差し出した。
それがあまりに自然な動作だったので、アリスの方も反射的に受け取ってしまった。
「私に渡してどうするのよ」
「涙の池まで届けてくれないか。玄関前に馬車を用意してもらってあるから、すぐさ」
「あなたが行くんじゃないの?」
「その時間が失くなっちゃったんだ。君がいない時にハートの城から依頼があったんだよ、今日中に特別なお菓子がいるんだって。今から作らないと間に合わないんだ」
そう言うや否や、三月兎は練り台の上にあるボウルや皿、鍋などを両腕で一気に床に落とした。硬い石に打ち付けられた調理器具たちが耳障りな音を立てる。その騒音も気にせず床とは対照的にきれいになった台に三月兎はせっせと次の調理の準備をし始める。
アリスがあっ気にとられていると、落ちてきた刷毛を避けたチェシャ猫が足元で口を開いた。
「仕方ないよ。その特別なお菓子って、きっとあんたのためのものだよ」
「私の? どうして?」
「だってそうだろう? この国で今一番特別なことなんて、待ちに待った次期女王のことしかないじゃないか」
「そんなの、私は望んでないのに」
それでも自分のために三月兎に時間が無いというのなら仕方がない。アリスはしぶしぶブリキの箱をポケットに戻した。
「ああ、そうだった。眠り鼠を連れて行ってくれ」棚から新しいボウルを出していた三月兎がぱっと顔を上げた。「開会式で話をすることになってるんだ」
「眠り鼠が?」
「急遽代理でね」
三月兎は調理台から引ったくるように眠り鼠入りのティーポットを掴むとアリスに無造作に押しつけた。乱暴に扱われた陶器の茶器の中から眠たげなうめき声が聞こえてくる。
「話し上手には見えないけど」
「そんなことないよ。なかなかの話し手さ。――さあ急いで、三時までに残ってる時間は少ないんだから」
アリスは背中を押されて厨房から外へと出された。追い出すようなやり方に抗議をする前に、扉は勢いよく閉じられた。
「あいつは強引だね。でも悪い奴じゃないんだ。手を貸してあげようよ」
閉まる直前の扉をすり抜けたチェシャ猫が前脚をなめながら言った。アリスは手の中のティーポットを持ち直して溜め息を吐いた。
「そうね。早く届けちゃいましょう。時間を無駄にしちゃいけないわ」
そうでないと、自分のための時間がなくなってしまうから。