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第21章 何かの在り処

Chapter XXI Whereabouts of the something



 亭の出口である簾をくぐり出てから、アリスはしばらくぼんやりとしていた。


 キャタピラーの話ははっきりしないことだらけだった。

 自分が自分であること。帰るために必要な何か。少女と芋虫。生と死。

 彼女の言葉と、彼女の嗜んでいた水煙管によって文字通り煙に巻かれた気分だった。


しかし、次に行くべき場所だけはわかった。いまだ夢見心地の感覚だったが、前に進むために足を動かし――ふと何かを感じて後ろを振り返る。

 すると、今までそこにあったはずのキャタピラーの住処は跡形も失くなっていた。

 アリスはまたもや呆然とする羽目になったが、改めて気を取り直して森を出るために歩き出した。


 来た道を戻るのは簡単だった。自分の足跡をたどればいいのだ。

 道らしい道のない森の中で、ぬかるんだ地面は靴の形をくっきりと留めている。その横に新たに足跡を残しながら、アリスは森の出口へと歩を進めた。

 霧を掻きわけて歩き続けていると、森の奥に向かう時にも目にしたキノコが輪になって生えているフェアリー・リング――ただし大きさは切り株ほどもある――が見えてきた。

 霞む視界に目を凝らすと、そのひとつにチェシャ猫が腰掛けてアリスを待っていた。


「おかえり。また会えて嬉しいよ」


 チェシャ猫はアリスの姿を認めると、立ち上がって迎えの言葉を述べた。

 コートのない拘束衣だけ姿は、まさに彼の一応の肩書きである死刑囚か、あるいは精神病棟の患者のようだった。

 アリスはすぐに借り物の衣服を返した。受け取ったチェシャ猫は得心したように口を開く。


「キャタピラーに会えたみたいだね」

「わかるの?」

「水煙草のにおいがする」


 アリスは納得した。髪や服に染み付いてしまった甘ったるい花香は、猫でなくとも嗅ぎ取ることができるだろう。


「ごめんなさい、あなたのコートにもにおいがついちゃったのね」

「かまわないよ」チェシャ猫はコートに袖を通しながら笑った。「おそろいになれたしね」

「おそろい?」


 香りのことだろうか?

 アリスはきょとんとした。薫き込めたような花のにおいは決して悪いものではないが、それが同じになったからと言って何なのだろう。

 相変わらず変なことばかり言う、と呆れていると、「どんな助言をもらったの?」と訊ねてきたので、アリスは頭を切り替えて答えた。


「白兎の家に行けって言われたわ。そこに帰るために必要な何かがあるらしいの」

「何かって?」

「わからない。片方は大きくなって、もう片方は小さくなるって言ってたけど」そこで言葉を切り、アリスはチェシャ猫に視線を向けた。「あなたわかる?」


 チェシャ猫は何も言わずに小首を傾げ、微笑んだままほんの少しだけ眉を寄せた。


「知らないのね。――それじゃあ白兎の家に行って、それを見つけなきゃ」

「それより先に」


 アリスが決意するように呟いたその横で、チェシャ猫は口を開いた。鬱陶しげに頭を振る。


「こんなところ早く出ようよ。体が濡れると調子が狂うんだ」


 猫は水気を嫌う。人の姿の今でも、この湿った場所と彼の相性は悪いのだろう。アリスとチェシャ猫は連れ立って腐朽の森を出た。


「それにしても、白兎の家か」


 あたたかな太陽の下に戻って一息吐いていると、チェシャ猫が面白がるような、苦笑するような口調で呟いた。その様子ににわかに心配になったアリスは「どんな所なの?」と質問した。


「白兎が別宅として使ってる家さ。あいつは城住まいだからたまにしかいないけど。普段は使用人がいて、白兎の留守中を管理してるよ」

「そこに行くのに、何か不都合があるの?」

「ビルがいる」

「――ビル?」


 アリスはその名前に首をかしげた。どこかで聞いた――いや、見たことがある名前だった。


「思い出したわ。グリフォンの裁判のときの陪審員の一人ね」


 アリスは裁判の判例集のページを頭に思い浮かべた。陪審員の欄には確かに“Bill”の名が記されていた。


「でもそれ以外は知らないわ。どんな人なの?」

「さっき言った白兎の使用人さ。家の番が主な仕事だったかな」

「そのビルって、もしかして危ない人なの?」

「女王に比べたら危険じゃないよ」

「……安心できる答えね」


 ちょっと皮肉を言うアリスに、チェシャ猫はにんまりと笑った。


「まあ、真面目に言えば安心できる奴なんかじゃないよ。ビルが陪審員だったって知ってるってことは、その裁判がどうなったかも知ってるだろ。法廷をめちゃくちゃにしたのはそのビルだよ」


 その情報にはアリスは驚いた。脳裡には荒らされ果てた法廷の風景が即座に思い出された。


「本当にひどかったわよ。どれだけ暴れたの?」

「俺は法廷にいなかったから聞いた話だけど。――公爵夫人のところの料理女が証人の一人だったろ? 彼女が証言のときに胡椒入れを持って行ったもんだから、法廷は胡椒だらけ。それに癇癪を起こした女王が投げつけた洋墨インク壜がビルに当たって、パニックになったビルが暴れたらしいよ」


 アリスはその話に言葉もなかった。

 わかったことは二つ、床に散らばっていた砂のようなものは胡椒だったということと、あれほどのことを仕出かした相手が次の目的地にいるということ。

 少し刺激すれば大暴れするような誰かがいたのでは、探し物も一筋縄ではいかなそうだ。

 アリスは不安にうつむいたが、すぐにぱっと顔を上げた。


「いくらそのビルが危険でも、白兎に頼めば済むことじゃない。彼の家なんだもの。考えるまでもなかったわ」


 しかしその提案を口にした途端、アリスを見つめていたチェシャ猫の目が微笑みの形から少し丸くなった。この子、ちょっとだけ抜けてるな、という目。

 その表情にアリスはむっとしたが、何も言わずにチェシャ猫の意見を待った。


「白兎に馬鹿正直に、あなたの家で帰るための何かを探させてくださいって頼む気? あれは何だかんだ言って女王の家来なんだからね。いくらあんたが王女様でも、申し訳ありません、了承致しかねますって言われるに決まってるよ」

「じゃあ――こっそり行って探すしかないってこと?」

「その通り。正解だよ、おりこうさん」


 アリスはチェシャ猫の腕をはたいた。



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