第20章 生ける少女たち
Chapter XX Living girls
突然の誰何にアリスは身を強ばらせた。
もしかしたら自分以外の他の人に言ったのかも、とおそるおそる辺りを見回してみたが、誰もいない。他でもないアリスに掛けられた言葉だったようだ。
少女はこちらを見もせずに水煙管の煙を燻らせている。アリスは肩に羽織っているチェシャ猫のコートを握り締めると、壁の透かし彫り越しの少女に向かって答えた。
「私はアリス。あなたがキャタピラー?」
彼女は質問に答えなかった。曲がりくねり、ト音記号のような形で固定された長いパイプを玩びながらぼんやりとしている。
数秒が数十秒になり、やがて数分になった。
(違うのかしら?)
辛抱強く待っていたアリスだったが、ついに諦めて背を向けて歩き出そうとした。
「戻っておいで!」少女が鋭い口調で命令した。「お話があるのよ。さあ、靴を脱いでお入り」
アリスは振り返ると、言われた通り入り口の前で靴を脱ぎ、葦の簾をくぐって亭の中へと入った。
少女は彼女とちょうど向き合える、クッションがいくつも積み重なった場所を左手で示した。そこに座れ、と言うことらしい。
アリスはコートを着たまま、すすめられたその場所で何とか足を組んで腰を落ち着けた。
「あなたがキャタピラーなのよね? 私、聞きたいことがあって来たの」
もう一度同じ質問をしてみても、少女はやはり黙ったままだ。呼び止めて招き入れておきながら、アリスなどいないかのような態度だった。アリスはその間に改めて目の前の少女を観察した。
濃い緑に見えるほど艶のある黒髪に、青味を帯びるほど白い肌。唇には赤い口紅が引かれ、水煙管の象牙の吸い口をくわえている。着ている衣装は鮮やかな緑色で、蝶の刺繍で豪奢に飾られていた。幅広の袖や裾、詰めた襟は金糸で縁取られている。元の世界では写真などでしか見たことはないが、東洋の大陸の装束のようだった。
異国の情緒漂う少女は、吸い口から唇をはなして優雅に煙を吐いた。香り付けされた煙草の葉は炭によって熱され、煙は水を通して冷やされる。ぬるい白煙は甘い花の香りを放ち、アリスの視界や頭の中を霞ませた。
「キャタピラーは私よ」
少女――キャタピラーはようやく質問の答えをくれた。相変わらずあらぬ空間を見つめたままだが、目の前の彼女が目当ての人物だとはっきりしたアリスはほっとした。
「よかった。あなたは不思議の国で一番の物知りだって聞いたわ。聞きたいことがあるんだけど、いいかしら?」
これまでのことを鑑みて返事はないだろうと思っていたが、予想通り何の反応もなかった。待っているばかりでは駄目だ、とアリスは手早く聞きたいことを伝えた。
「私、自分の世界に帰りたいの」
「どういうことかしら?」キャタピラーが、今度は驚くほど早く口を開いた。「説明してごらんなさい。自分でね」
アリスは昨日からの出来事を話した。キャタピラーはアリスに目もくれず水煙管をふかし、聞いているのかいないのかわからない様子だったが、途中で邪魔をすることもなかった。
「私は私の世界に帰りたい。だから、何か少しでも知っていたら教えてほしいの」
必死な思いでそこまで言ったアリスに、キャタピラーは長椅子に寄り掛かっていた体をわずかに動かした。
「アリス、アリス、アリス」確かめるようにアリスの名前を繰り返す。「“高貴”とか“真実”とか、そんな意味のお名前ね」
アリスは少し感心した。確かに“Alice”という名前は語源的にはそのような意味があるらしい。アリスが知っているのは昔父に教えてもらったからだが、キャタピラーにもその知識があるようだ。
「それで、アリス。あなたはこの世界に来て自分が変わったと思っているの?」
キャタピラーの思いも寄らない言葉に、アリスはぽかんとした。彼女は腕を組みながらさらに畳み掛けた。
「他の誰かになったとでも? エイダ? メイベル? ガートルード? それともフローレンスかしら」
少女の口から次々と出される自分とは違う名前に、アリスは慌てて首を振った。
「そんなふうには思ってないわ。私は私よ」
「それなら、いいじゃないの。自分が自分なら、どこにいたって」
「私はこの世界にいるわけにはいかないの。女王になる気はないし、何よりここには家族も友達もいないわ」
「そのうち慣れるわ」
緑の繻子の靴に包まれた小さな足を組み直し、キャタピラーは天井に向かって煙を吐いた。
にべもない少女にアリスは途方に暮れた。この国の誰よりも、キャタピラーは話が通じない。皆が変わっていると言っていたのが深く理解できた。
「白兎の家へお行き」うなだれるアリスを哀れんだわけでもないだろうが、キャタピラーが口を開いた。「そこにあなたの望みを叶えるものがあるわ」
アリスはぱっと顔を上げた。期待できそうな助言に勢い込む。
「それは何なの?」
「片方は大きく、もう片方は小さくなるわ」
片方に、もう片方――大きく、小さく?
ちんぷんかんぷんだった。さらに聞き募ろうとしたアリスを少女は白い手で制した。赤く塗られた爪がきらめく。
「いいことを教えてあげましょう」
キャタピラーは顔を上げ、初めてアリスをまともに見つめて言った。
「女の子はね、この世に生きているうちは芋虫なのよ。そうして、夏が来ると蝶になるのよ。それまでは、それぞれみんなおたがいに性向と必然性と形をもった幼虫なのよ」
美しい緑の瞳を細め、笑う。
「だから私は芋虫なのよ。そして、あなたも」
アリスは、呼吸すら忘れてひたすら呆然としていた。言われた意味を尋ねることも、推し量ることも出来ず、ただキャタピラーを見つめ続けた。
アリスの視線をまったく気にせずキャタピラーは一つ欠伸をした。そして水煙管のパイプを脇机に置き、両手を膝にのせた。
「眠くなったわ。行ってちょうだい」
その言葉を最後に、キャタピラーは瞑目して何も言わなくなってしまった。
アリスはそのまま待ってみた。しばらくしてから立ち上がってもみた。しかしキャタピラーは何の反応も示さない。これ以上は何を聞いても無駄だろう。
「ありがとう、キャタピラー。さよなら」
アリスは感謝と別れの言葉を述べた。
それでも彼女は目も口も閉じたままだった。
キャタピラーの「女の子は~」の台詞はレ・ファニュ『吸血鬼カーミラ』を参考……というよりほぼ抜粋させて頂きました。
これを読んだときから芋虫=女の子でした。




