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第19章 腐朽の森

Chapter XIX Forest of rot



 芋虫キャタピラーがいるのは“腐朽ふきゅうの森”という場所らしい。

 帽子屋の庭園を後にしたアリスとチェシャ猫は、北にあるというの森へ向かう小道を歩いていた。

 五月の太陽の下、草原では金鳳花や薊の花が咲き、暖かな風が吹いていた。


「そういえば、王女様になったんだってね」


 しばらく黙って歩いていたチェシャ猫が口火を切った。気に入らない話題にアリスは思い切り眉を顰めた。


「知ってるのね」

「不思議の国の一大事だからね。もう結構広まってるよ」


 そういえば三月兎がアリスを“王女”と言ったときにも、チェシャ猫が驚いた様子はなかった。


「それで、どうするの?」

「どうするって何? これも知ってるでしょう、私は帰りたいの」

「悪い話じゃないと思うよ。この国、国庫は豊かだし。それに退屈だけはしないよ」

「確かに楽しいところよね」アリスは目を伏せて言った。「でも支配なんてしたくないわ。ここは私がいるべきところじゃないの」


 頑ななアリスにチェシャ猫は大袈裟に肩をすくめた。その右肩に朝まで見られたぎこちなさはない。怪我の酷さを知っていたアリスは改めて感心した。


「あの薬で本当に治っちゃったのね。でも、薄めずに飲んでも平気なの?」

「平気じゃないよ。効果が強くなる分副作用があるのかな、治る時にすごく痛かった」


 アリスが息を飲んで何か言う前に、チェシャ猫は「もう痛くないよ」と安心させた。


「どうしてそうしてまで早く治したかったの? そのままでも明日か明後日には治るって言ってたのに」

「明日や明後日じゃなくて、今日この日に腕が必要な事態になるかもしれないから。後悔するのは嫌いだからね」

「また斬り合いをやらかすつもり?」

「さあね。もっとひどいことをするかも。そのときにならないと、わからない」


 物騒な話だった。アリスは溜め息を吐いて視線を前に向け、歩くことに専念した。

 しばらくすると、小道の先にこんもりと生い茂った暗い木立の群れが見えてきた。


「あれが腐朽の森?」


 アリスが指をさして尋ねると、チェシャ猫は頷いた。

 帰る手がかりを示してくれるかもしれない人物のいる場所。アリスの歩く速度は自然と早いものとなった。

 しかし近づくにつれてはっきりとしてきた森の姿に、アリスはぽかんと口を開けた。


 森を構成していたのは、巨大なわらびぜんまい、草蘇鉄などの羊歯植物、それに色や形がとりどりのキノコたちだった。本来ならアリスよりも背の低いはずのそれらは、アリスどころかチェシャ猫よりも高い、樹木と変わらない大きさで二人を見下ろしていた。


「なんだか自分が小さくなったみたい」アリスは呆然と呟いた後、不安になってチェシャ猫を見た。「本当に私たちが縮んだわけじゃないわよね? この国は何でもありなんだから、自分の大きさがおかしくなっても不思議じゃないわ」


 アリスは自分の頭や肩を触って確かめてみた。それがあまりに不安そうな顔なので、チェシャ猫は笑いながら少女の頭に手を乗せた。


「小さくなって、おしまいには蝋燭みたいに消えちゃうの? 大丈夫だよ。今のところ・・・・・おかしいのは植物の方さ」


 含みのある答えだったが、アリスはひとまず胸を撫で下ろした。そして気を取り直して目の前の森に向き合うと、決心して足を踏み入れた。

 巨大な植物の群落は霧と静謐に満ちていた。白いしゃがかかったような視界に、植物以外の生き物はいないのではとすら思える静けさ。それに薄暗く湿った森の中は五月にもかかわらずひんやりと肌寒く、いかにも不気味だった。

 アリスはチェシャ猫に森の感想を伝えようと横を向いたが、彼はいなかった。振り向いてみると、チェシャ猫はまだ森の入り口に立っていた。


「さて、ここで一旦お別れだ」


 突然の別離の宣言に、アリスはぎょっとした。眉根を下げてチェシャ猫の顔を見つめる。


「一緒に来てくれないの?」

「ついて行きたいのはやまやまだけどね。キャタピラーは大勢で押し掛けられるのが嫌いなんだ。助言が欲しいなら、一人で行かないと」

「道も何もわからないのに、私一人で行けるわけないわ」

「行き着けるよ。ちゃんと歩き続けてさえいれば。ここはそういうところだから」


 そう言われてしまっては、これ以上すがれなかった。肩を落とし、諦めて霧の中に歩き出そうとしたアリスの肩に何かが掛けられる。チェシャ猫のコートだった。


「霧は体温を奪うから、温かくしていかないと」


 身体を包む、よい香りがする布地には当たり前だが人らしいぬくもりがあった。

 しかし猫の姿のときはともかく、人間の姿のときに触れる手の平はいつも冷たいものだったので、アリスは何だか奇妙な気分になった。


「ちゃんとあったかいのね」

「何それ? 俺だって血は通ってるよ」

「知ってるわ、昨日見たもの」アリスは袖を通さないコートを両手でかき合せた。「これ、ありがとう。それじゃあ行ってくるわ」


 右手をひらひらと振って送り出すチェシャ猫を背に、アリスは改めて歩き出した。


 森に道らしき道はなかった。

 地面や植物にまとわりつく胞子や菌糸。芽生えかけた植物に、倒れて腐った植物。水溜り。そしてそこかしこに生える大小さまざまなキノコ。アリスは菌類学に明るくはないので、食べて大丈夫かはちょっとわからなかった。

 爪先の置き所を探しながら当てもなく歩を進めて行くと、どこからか臓腑に染み込むような甘ったるい花のにおいが漂ってきた。何も頼るべき手がかりがないので、アリスは香りが強くなっていく方角へ向かうことにした。

 自分を犬のように思いながら、苔を踏みしめ、草蘇鉄を苦労してかき分けて進んで行く。そうしているうちに、ふいにぽっかりと開けた場所に出ることができた。


 そこには、ぽつんとキノコの傘のような屋根をした東洋風のていが建っていた。

 黒塗りの堅木で組み立てられ、壁にはところどころ透かし彫りが施されている。どうやら花のにおいはここから漂ってくるらしい。亭そのものが一種の巨大な香炉のようだった。


 ここがキャタピラーの居場所だろうか?

 アリスはしばらく少し離れた所で様子を伺っていたが、結局結論が出ないので足音を忍ばせて近づいてみることにした。

 壁の透かし彫りの隙間からそっと中をのぞいて見る。

 まず、亭内にもかかわらず外と同じか、あるいはそれ以上に靄がかかったような視界に驚いた。天井にはランプがぶら下がっているが、たちこめた薄い幕に遮られてぼんやりとした光になってしまっている。内装は外観同様異国的エキゾチックなものだった。絹地に花の絵が描かれた屏風や掛け軸、床に敷かれた華やかな絨毯。その中央にいくつも積まれているクッションは床に直接座るためのものだろう。仄かな灯りの下で、それらは魅惑的な佇まいをしていた。

 そしてさらに目を凝らすと、出入り口の真向いに大きな長椅子が据えられているのが、そこに一人の少女が脚を組んで座っているのがわかった。


 年の頃はアリスよりも少し上に見える。緑玉エメラルドのような瞳を気怠げに細め、長い黒髪を肩や背に垂らした美しい少女だ。傍らの脇机には水煙管の硝子瓶が置いてあり、そこからのびるパイプから煙を嗜んでいる。これが香りと視界の悪さの正体らしい。

 アリスがもっとよく見ようと身体を動かしたその時、少女が物憂げに口を開いた。


「あなた、だあれ?」



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