第1章 足跡をたどって
Chapter I Trace the footprint
アリスはそのとき、とても退屈していた。誰も遊び相手がいないからだ。
することもなく祖母の家の応接間の長椅子に座って、ただぼんやりとしていた。
五月に入ってから、アリスは家族と共に父方の祖母の屋敷に滞在していた。誰かいれば馬車で遠乗りに出かけたり庭を見たりできるが、今はそうではなかった。
祖母と両親は何かの会合に行ってしまったし、兄弟姉妹はそれぞれ本を読んでいたり、昼食後の午睡の最中だったり、小さすぎたりで遊び相手にならない。
アリスは座ったまま膝に頬杖をついて、目だけで応接間を見回した。部屋は亡くなった祖父が道楽で集めた変わったものが所狭しと飾ってある。
それら一つ一つを何気なく眺めていたアリスだったが、やがてそれにも飽きて深くため息を吐いた。
そのときだった。不精にも完全に閉めていなかったドアの向こうに、何か白くて背の低いものがさっと横切ったのが見えた。
その後に「遅刻だ、遅刻」という声が聞こえてくる。
「誰かいるの?」
アリスは思わず長椅子から立ち上がった。今この屋敷にいるのはアリスとアリスのきょうだい達、そして数人の使用人だけだ。白くて小さな、人の言葉をしゃべる「誰か」なんているはずがなかった。
廊下へ出ると、床の絨毯には小さな獣の足跡のようなものが点々と続いていた。土ではない、赤黒い色をしている。不思議と鉄錆のにおいがするような。
気味悪く思いながらもアリスは足跡を頼りに「誰か」の後を追った。擦れることなく続くそれがようやく終わったのは、突き当たりにあるドアの前だった。
(こんな所にドアなんてあったかな)
屋敷の中は何度も見て回ったことがあるのに、このドアは記憶になかった。
アリスはゆっくりとドアに近づき、控えめにノックする。しばらく待ってみるが、何の応答もない。ドアに耳を押し当ててみても、何の物音も聞こえない。
少しためらった後、アリスは決心してドアノブに手をかけてゆっくりと扉を開けてみた。
部屋の中は戸棚や本棚でひしめいていた。本棚には本が雑然と入れられ、戸棚には日用品や雑貨がごちゃごちゃに詰め込まれている。唯一の窓には厚手のカーテンがかかっており、光源は天井のランプだけだった。
物であふれた部屋だ。しかしいくら見回してみても「誰か」の姿はなかった。床の絨毯を見ると、足跡は部屋の中央で一度止まり、またドアまで戻って来ている。一度入ってまた出たような跡だ。
おかしいな、と思いながらアリスは部屋の中に足を踏み入れ、そして無意識にドアを閉めた。
その途端、部屋ががくんと大きく揺れて音もなく動き出した。
アリスは小さく悲鳴を上げてそばにあった戸棚にすがりつく。その衝撃で棚から空っぽのオレンジ・マーマレードの壜が落ち、部屋の隅に転がっていった。
部屋は初動時以外は揺れもせず、滑らかに動いている。体が浮くような感覚からどうやら下に降りているようだ。
何が何だかわからないアリスは息を詰めてただじっとしているしかなかった。
(下に動いてるってことは、この部屋はリフト? それならあの足跡も説明もつくけど)
異常な状況の中で、アリスは少しでも理知的に考えようとした。
けれどもどうして祖母の家にそんなものがあるのか、いきなり動き出したのは何故か、あの白い「誰か」は誰なのか――。それらの疑問には自分だけでは答えようがなかった。
部屋の下降は始まった時と同じく唐突に終わった。部屋はそれっきり動かず、不気味なほど静まり返っている。
アリスはしばらく戸棚にすがりついていたが、やがておそるおそる立ち上がった。
とりあえず部屋から出ようと絨毯の足跡に沿って歩き、自分が入ってきたドアの前に立つ。ゆっくりと開けて、そっと顔だけを出してみる。
まず感じたのは、濃く湿った緑のにおい。そして目の中に飛び込んで来たのは、黒い樹木が生い茂る深い森だった。
アリスは声も出せず、ほとんど魅入られたように部屋から一歩踏み出した。
視界の限りに聳え立つ木々やねじれた枝、灌木の茂みが広がり、青葉のにおいに混じって微かに花の香りが漂う。見上げてみれば枝葉が天蓋のように繁茂し、そのわずかな間を縫って日の光が地面に透かし模様を作っている。
昼なお暗い森の中。それは昔乳母に読んでもらったおとぎ話の世界ように幻想的だった。
「ここは何?」
思わず声に出してはみたが、やはり答えは出ない。アリスはもっと見て回ろうと、さらに一歩踏み出した。すると――
――ばたん。
ドアが閉まる音がして、アリスの肩が跳ねた。
風で閉まったのか、それとも誰かが閉めたのか。
後者の可能性に不安になり、アリスは急いで振り向いた。
しかし、その先にすでにドアはなかった。アリスが出て来たはずのその空間には、ドアも、部屋も、何も無くなってしまっていた。
アリスはただ一人、暗い森の中に取り残されてしまった。