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第18章 やさしい償い

Chapter XVIII Tender atonement



 鼠をくわえた猫は、自分を見つめる人々を見て小首を傾げた。その動作に眠り鼠の尻尾と足が力なく揺れる。


「何してるの!」


 アリスは叫ぶと同時に駆け出すと、チェシャ猫を勢いよく掴み上げて上下に揺さぶった。今は少女よりもずっと小さな獣であるチェシャ猫はたまらず眠り鼠を口から離した。空中で支えを失った眠り鼠は、石畳の地面に激突した瞬間ぱっと飛び起きた。


「何? 何があったの?」


 目をぱちくりさせる眠り鼠にアリスは唖然とした。彼はただ眠っていただけだったのだ。

 乱暴な目覚めに溜め息を吐くと、眠り鼠は帽子屋たちが座るテーブルに歩いて行って椅子に飛び乗り、体を丸めて再度眠りに就いてしまった。


「酷いよ。俺が怪我人だってこと忘れてない?」


 突然の暴虐に眩暈を覚えたのか、チェシャ猫は小さな頭をふるふると振った。よく見れば、猫の姿であってもその肩にはきちんと包帯が巻かれている。

 アリスは慌てて掴み上げていたチェシャ猫を自分の飼い猫にするように優しく抱き締めた。


「ごめんなさい」アリスは小さな声で謝罪をしながらその背中を撫でた。「あなたが何かしたのかと思ったの。――私の猫はよく鼠を捕ってたから」

「俺は鼠なんか欲しくないよ。あいつが道で眠りこけてたから、連れて来てあげただけなのに」


 ふて腐れた口調ながら、チェシャ猫は甘えるようにアリスの肩口に額を押しつけた。柔らかな毛並みが首筋に当たってくすぐったい。

 アリスはもう一度ごめんなさいを言うと、チェシャ猫を抱えたままテーブルのところまで戻り、断って三月兎の左隣の席に着いた。


「しょうがないな、眠り鼠は。この季節になると特に眠くなるみたいだ」三月兎は右隣で眠る眠り鼠をつついた後、首を回してチェシャ猫に目を向けた。「このカップは君のだね。君がお茶会に参加するなんて珍しいじゃないか」


 その言葉にアリスはテーブルの上の飲みさしを見た。中に残った飲み物は辰砂しんしゃを溶かしたような濃く濁った赤茶色をしている。種類もわからず、おいしそうにも見えない。

 話を振られたチェシャ猫はアリスの腕の中から億劫そうに三月兎を見て口を開いた。


「俺が帽子屋と差し向かいで紅茶なんか飲むと思う? それは傷の薬だよ」

「ああ、聞いてるよ。女王にやられた傷だね」


 その時、それまで黙っていたグリフォンがぱっと顔を上げた。その手には三月兎が持って来たドライフルーツ入りのケーキ――すでに半分の大きさになっている――がある。今まで静かにしていたのは、それを食べるのに忙しかったからのようだ。


「そうだった、昨日は大変だったんだよ!」


 チェシャ猫を睨むグリフォンに、アリスは彼を抱く腕の力を少し強めた。チェシャ猫は死刑囚でグリフォンは女王の家来だ。顔を会わせるべきではなかった。

 しかしアリスの心配をよそに、グリフォンは大きな溜め息を吐いただけだった。


「本当に、どんなに大変だったと思う? 帰ってきたら子供部屋はずたずたで血だらけ。おまけに陛下まで怪我をしてた」

「俺だって重傷だよ。もう少しで右腕が無くなるところだったんだから」

「死刑囚のお前が城になんか来るからさ。八つ当たりされるのは俺なんだよ?」


 グリフォンは拗ねたように残ったケーキを一気に頬張った。

 目の前のやり取りを見ていると、彼はチェシャ猫をどうこうするつもりはないらしい。アリスは安堵しながら腕の緊張をほどいた。


「そうだ。君、公爵夫人のところに行きたいんだっけ?」グリフォンはケーキを食べ終えた指を舐めながらアリスに訊ねた。「届け物も済んだし、連れて行ってあげるよ」


 グリフォンは微笑むが、アリスが公爵夫人の館に行きたかったのはチェシャ猫に会うためだ。そして目当ての彼は今、膝の上に座っている。アリスは笑顔を返しながら答えた。


「ええと――それはもういいの。そのかわり、もう少しここにいるわ」

「そう? じゃあ俺は城へ帰ろうかな。夕方までには俺か、他の誰かが迎えに来るよ」


 アリスは小さく頷きつつ、そっと目を逸らした。大事にされるということはそれだけこの世界での地位に縛られているということだった。

 早く帰らないといけない。たとえ其処がどれほど居心地が良くても。優しくしてくれても。


 そんなアリスの内心を無論グリフォンは知らない。彼は少し離れた場所で鳥獣の姿に変わると、空へ飛び立って行った。


「やれやれ、城勤めは忙しいね」


 空の向こうで小さくなっていくグリフォンを見つめながら三月兎が呟いた。その手はせわしなくパンにバターのかたまりを塗りたくっているが、粗雑な動きのためにバターナイフからバターが飛び散りってしまっている。

 黄色い欠片がテーブルクロスや眠り鼠に飛散する様子を関心もなく見つめながら、チェシャ猫が相槌を打った。


「仕えているのがあの女王だからね。忙しくならざるをえないのさ」

「そういえば、その女王が原因の傷に薬は効いたのかい?」

「どうかな」チェシャ猫は金色の瞳だけを動かしてアリスを見た。「この子にひどくされたから、また痛くなってきたかも」


 そう言われてアリスは居たたまれなくなった。どうすれば償いになるかもわからず、ひたすらいたわるようにチェシャ猫の背中や脇腹を撫でたりさすったりした。優しくされたチェシャ猫は目を細めて喉を鳴らさんばかりだ。

 そんな少女と猫の様子に、それまで我関せずで紅茶を飲んでいるだけだった帽子屋が口を挟んだ。


「傷が痛むと言うのは嘘だろう。もう治っているはずだ」


 アリスはぱっと顔を上げて帽子屋を見た後、テーブルの上のカップに視線を向けた。


「この薬、そんなに効くの?」

「効くに決まっている。本来希釈して服用する薬を、早く治したいと言って原液で飲んだのだからな」


 アリスはついとそっぽを向いてしまったチェシャ猫の肩の包帯をじっと見つめた。背中を撫でていた手を止めて結び目をほどくと、そこにはもう何の傷も見当たらなかった。


「また、からかったわね」


 アリスは責めるようにチェシャ猫を睨んだ。そして彼をひょいと両手で抱き上げると、自分の膝から隣の椅子に下ろした。心地良い場所を取り上げられたチェシャ猫は不服そうにアリスを見上げた。


「ひどくされたのは本当だろ。もっと撫でてよ」

「だめ。人をからかって楽しんでるようなら、人でも猫でも、もう何もしてあげない」

「女王に次いで王女にも嫌われたね」三月兎が声を上げて笑った。「二回首を刎ねられないと」


 チェシャ猫は何も言わずに溜め息を吐いた。そして椅子から降りる――と同時に猫から人の姿になり、二本足で地面に立っていた。


「確かに少し遊びすぎたかもね」


 そう言いながらアリスに向かって小首を傾げて見せる。この青年が先程まで猫の姿で自分の腕の中におさまっていたかと思うと、随分奇妙な気分だった。


「お詫びに、今度は俺があんたのご機嫌をとってあげる」

「――何をする気?」


 アリスは上目で訝るようにチェシャ猫を見た。全幅の信頼を置いているとは言い難い態度に、猫の青年は苦笑する。


「俺が面倒を起こすような言い方だね。あんたの役に立つことしかしないよ」

「だから、何をするのよ」

芋虫キャタピラーのところに連れて行ってあげる」


 誰?

 そう尋ねる前に、三月兎が欲しい答えをくれた。


「不思議の国一の識者だよ。いろいろなことを知ってる」

「そんな人がいるのね」

「変わり者だけどね。何か知りたいことでもあるのかい?」

「ええ、まあ、少しだけ」


 アリスは言葉を濁しつつ、見直したようにチェシャ猫を見つめた。

 確かに元の世界に帰るためにはこの世界の情報が必要だ。彼がアリスのためになることを考えていてくれたのは本当だったらしい。

 自分の価値を認める視線に、チェシャ猫が念押しのように言った。


「三月兎の言う通りキャタピラーは変人だけど、きっと良い助言をしてくれるはずさ」

「そう願うわ。――ありがとう、チェシャ猫」


 猫の青年は目を細めてにっこりと笑った。



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