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第17章 美しい害

Chapter XVII Beautiful harm



 首は、思っていたよりもずっと重たかった。


 アリスはすぐにでも腕の中の木箱を投げ出したくなるのを我慢しながら、鳥獣の姿のグリフォンに乗って帽子屋邸に向かっていた。

 降り注ぐ太陽の光や上空の冷たい風は気持ちが良いはずだったが、自分が今持っているものを考えるとすべてが台無しだった。


「ごめんね、そんなもの持たせて。気分のいいものじゃないからね」


 グリフォンが首をアリスの方に向けて話し掛けてきた。その途端にまっすぐだった進路が少し逸れる。アリスが「前を向いてて!」と注意すると、慌てて首の向きを戻した。


「ごめん――だけど、なんだか顔が青いよ。大丈夫?」


 こちらを向いていたのはわずかな間だったが、アリスの顔が目に入ったらしい。心配そうな声で尋ねてくる。


「平気よ。別に噛みついてくるわけじゃないし」


 アリスは強がりを言った。本当は視線も意識も向けたくない。それでも落とさないように、いくばくかの力を込めて抱えていなければならない。

 罪人の首――昨日処刑されたものらしい――は、ある程度の防腐処置と、におい消しの香草のおかげで死臭は無い。中身を知らされなければ何もわからないまま、腕の中におさめていられたのに。


(でも、それはそれで怖いかも)


 そんなことを考えていると、グリフォンが再び――今度はきちんと前を向いたまま――口を開いた。


「あのさ、今君が持ってるのはびっくり箱だと思えばいいよ」

「え?」

「だって、あれも頭が入ってるよね。同じようなものだよ」


 奇妙な提案だった。しかし彼なりに少しでも気分を晴らそうとしてくれているのがわかるので、アリスは罪人の首を腕に抱きながらも、ちょっとだけ笑った。


「ありがとう。本当に大丈夫よ」

「そう? でももし調子が悪いなら、帽子屋のところに着いてから――」グリフォンはそこで言葉を切った後、弾んだ声を出した。「やっと見えてきた! ほら、あれが帽子屋邸だよ」


 促されて地上に目を向けると、眼下に広がる森よりもさらに黒い、荘厳な大邸宅が聳えていた。黒暗々とした住まいは如何にも陰鬱に見えたが、邸の西側に配された庭園は遠目にも草花にあふれ、その場所だけは陽光の下で明るく輝いていた。


 グリフォンは正面玄関の前にゆっくりと着陸した。アリスは木箱を落とさないようにその背から降りると、目の前の帽子屋邸を眺めた。

 黒いスレート瓦の傾斜した屋根に、やはり黒い煉瓦の外壁。壁面には茨の蔦が這い、黒い薔薇が不思議な芳香を放ちながら咲いている。窓枠と飾り柱だけが白い。周囲の鬱蒼とした森は日差しを遮り、邸に一層の陰りを与えていた。


「暗いところだよね、いつ来てもそう思うよ」


 人の姿に戻ったグリフォンは、アリスの腕から木箱をひょいと取り上げて左腕で無造作に抱えた。首が自分の手から離れて一気に身体と精神が軽くなる。ほっと一息吐きながら、アリスはふと思ったことを尋ねた。


「帽子屋はそれをどうするのかしら」

「さあ? 帽子でもかぶせるんじゃないのかな。帽子屋だし」


 興味が無いのかグリフォンの答えはいい加減で悪趣味だったが、帽子屋ならあり得るかも、とアリスは思った。

 首の使い道に感心のないグリフォンは、暗色の木材に彫刻が施された玄関の扉をノックする、かと思いきや、見向きもせずに邸の周りの黒い石畳の小径に沿って歩き出した。


「どこへ行くの?」


 アリスは慌ててその背中を追った。


「庭だよ。どうせそこにいるんだから、直接行った方が早いよ」そう言った後、少し声を顰めた。「正直、あんまり家の中に入りたくないんだ」


 小径の先、蔦がからみついた黒い鉄のアーチをくぐると、そこには空から目にしたよりも遥かに壮麗な植物の園が広がっていた。

 手入れの行き届いた草花や樹木は、枝葉や蔦をいっぱいに伸ばしながらまぶしい日の光に浸っている。全体的に淡い緑に彩られた植物園のような庭は、陰気な屋敷の一部とは思えないほどあかるく輝いていた。あらゆる場所で植物が植え育てられているかに思えたが、小径の両側の手の届く範囲には見るべき草花は何も無い。丁寧に刈り込まれた芝が青々としているだけだ。耳に聞こえてくる水の飛沫は中央の噴水からだった。大理石造りの噴水からは水路が四方にめぐらされ、庭園中に水が行き渡るようになっていた。

 そして庭の隅――植物たちに与えられるべき陽光が遮られることのない位置――には一本の見事な柳が植わっている。その木下闇に置かれた揃いのテーブルと椅子で、彼の住まいよりも黒い姿の帽子屋が優美にカップを傾けていた。


「帽子屋! 届け物だよ!」


 木箱を抱えていない右手を上げながらグリフォンが声を掛けた。そっと顔を上げた帽子屋がわずかに頷き、アリスをちらと見やると、シルクハットのつばをわずかに持ち上げて言った。


「ご機嫌麗しゅう、未来の女王陛下」


 アリスはその挨拶に目を丸くした。


「どうして知ってるの?」

「今日の朝に伝令がきた」

「朝に――」


 白兎に連れられて、女王と謁見する前だ。会って話をするより先におふれを出しているということは、女王は本当にアリスを返すつもりはないらしい。

 アリスはそれ以上何も言わず、うつむいて自分の靴の先を見つめた。


 そんな彼女の様子にも気づかず、横にいるグリフォンは能天気に抱えていた木箱をテーブルに置いた。


「はいこれ、お望みのものだよ」

「ああ、わざわざすまなかった」


 帽子屋は木箱の蓋を開けて届け物を確認すると、感心した口調で呟いた。


「相変わらず白兎は腕がいいな」

「白兎?」アリスはぱっと顔を上げた。「女王様が処刑したんじゃないの?」

「いや、白兎だよ」


 グリフォンが口をはさみ、説明をはじめた。


「陛下が処刑するのは本当に気に入らない奴だけさ。それ以外の通常の死刑執行は首切り人――“クラブのエース”であるあいつの仕事だよ」

「この国の大臣をしてるんじゃないの?」

「大臣と兼任してるんだよ。だからいつも忙しいんだよ」そして木箱の蓋に手を置き、言った。「この首の処刑を終えた後じゃないかなあ? 白兎が君の世界に行ったのは」


 その言葉に、アリスの脳裏に祖母の屋敷の廊下に点々と続く血の足跡が浮かんだ。つまりあの血はこの罪人のものということだ。

 目の前の木箱の中にある首が自分を不思議の国へ導く一端を担ったのだと思うと、アリスは複雑な思いに駆られた。




 そのとき、アリスたちが通ったものとは別の小径を誰かが歩いてくるのが見えてきた。青い正装と揺れる麦穂色の耳でわかった。三月兎だ。


「おや、お客さんかい?」


 アリスとグリフォンを視界に捕らえ、三月兎が青い瞳をぱちぱちさせた。その手には布が掛けられた籐のバスケットを持っている。どこかで見たことがある籠だった。


「久しぶりだね、三月兎! 裁判以来だよね」グリフォンが陽気な声で挨拶をした。「そのバスケットは何? 食べ物?」


 瞳を輝かせるグリフォンに、三月兎は呆れたように肩をすくめた。


「君は本当に食い意地が張っているね。裁判の被告人になった原因はそれだって言うのに。当たりだよ。食べ物だ」


 三月兎はバスケットをテーブルに置き、掛けられた白布を取り払った。中にはパンにバター、冷製チキンにサラダ、ドライフルーツ入りのケーキ、それにポットに入った紅茶が入っている。

 ――チェシャ猫が持ってきた朝食のメニューにぴったり一致していた。


「今朝、昼食用に用意していたものがいつの間にか失くなっていてね。新たに作り直したんだ。そのせいでここに来るのが遅れてしまったよ」


 アリスはチェシャ猫が何処で食べ物を調達したのかわかった。正直に言うべきか迷っていると、三月兎がアリスに目を向けた。


「お嬢さん、また会ったね」

「ええ、そうね」


 アリスは何とか笑顔を作ったが、内心どぎまぎしていた。彼のものであったはずの食べ物を食べてしまった罪悪感もあった。何となく顔を合わせるのが気まずくて、視線を庭に向けた。


「素敵な庭よね」

「そうだね。見た目はね」


 三月兎が帽子屋の隣の椅子にひょいと座りながら言った。


「どういうこと?」

「この庭にあるのは、ほぼ全てと言っていいぐらい毒か薬の草花なんだよ」

「その説明は正しくない」帽子屋が異議を唱えた。「確かに純粋な鑑賞用の花卉かきは殆どないが、帽子のための生地の原料や染料も育てている。実用の庭というだけだ」

「でも、どの植物も触ったり傍に寄ったりするだけで害があるじゃないか」

「そうだよ! 俺だって大変な目に遭ったんだから」


 グリフォンが三月兎に賛同し、通って来た小径を指差す。


「あの辺りで姿を変えたら、翼が何かの草に当たってひどいことになったよ。三日は飛べなかった」

「自分の体の大きさを考えないからだ。人の姿のままなら何の問題もない。それにあの後、薬を処方しただろう」


 帽子屋は素気無くいなし、グリフォンは「そうだけどさあ」と不服そうに、子供のように唇をとがらせた。


「だから道の周りには何の花も無いのね」


 アリスは誰とも無く呟いた。庭を歩く生き物に害を与えないためだったのだ。

 美しい庭は、本当はとんでもなく危険な場所だった。


「そういうことさ。君もこの庭にある植物は、無闇に香りを吸い込んだり直接触れたりしてはだめだよ」


 アリスに親切な警告をくれた三月兎は、唐突に首をきょろきょろさせた。


「眠り鼠はどこだい?」

「そういえば、いないわね」


 アリスも辺りを見回した。いつも三人でお茶会をしていると聞いていたのに、あの茶色の毛皮を持つ小さな生き物は見当たらない。


「まだ来ていない」

「でも、カップがある」


 帽子屋の答えに三月兎は帽子屋の向かいのカップを指差した。中の紅茶は半分程しかなく、明らかに飲みかけだった。


「ああ、それは――」


 言いかけて、帽子屋はおのが庭園の毒の茂みに視線を向けた。アリスと三月兎もつられて同じ方向を見ると、猫の姿をしたチェシャ猫が樹木の陰から姿を現した。




 動かない眠り鼠を口にくわえて。



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