第15章 温室育ちの青の王女
Chapter XV Overprotected blue princess
しばらく待っていると、女王と白兎が女王の間へ戻って来た。
大理石の階段に座り込んでいたアリスは立ち上がって――すぐに一人足りないことに気づいた。
「グリフォンは?」
まさか本当に処刑されたのではと顔を青くしながら聞くと、白兎が苦笑し、女王が舌打ちをした。
「大丈夫ですよ、懲罰は裁判所の掃除に落ち着きましたから。広いから大変でしょうが、首を刎ねられるよりはましでしょう」
アリスがほっとして息を吐くと、女王が「あんな奴のことより」と口を開いた。「いいものを見せてやろう。ついて来い」
そう言うと、たった今戻ってきたばかりの女王の間から踵を返して出て行ってしまった。アリスと白兎は慌てて後に続いた。
女王から数歩離れて歩いていると、白兎がそっと話し掛けてきた。
「やはり僕には陛下に翻意を促すのは無理でした。申し訳ありません」
肩を落として謝罪する白兎にアリスは首を振った。
「いいのよ。気にしてないわ」
「僕は陛下が何かを望む限り、そのご意思には逆らえないんです」
「あなたは女王様の家来なんだから当然じゃないの?」
「確かに僕はこの国の大臣です。それ以外に――まあ、今は関係ありません、とにかく陛下に仕える身分です。しかし、あなたは僕のせいでこの国へ来たわけですし、ご家族だっていらっしゃるだろうし、何より帰りたがっていて、でも陛下のご命令は絶対ですし、それに、いやでも――」
そこで白兎の言葉が途切れたかと思うと、突然頭をかきむしって叫び出した。
「ああくそ、どうしようもねえよなあ!」
白兎のいきなりの奇行にアリスはびくりと肩を跳ねさせたが、女王はわずかに振り向いて「なんだ、いつもの発作か?」と素っ気ない態度だ。
馬車に乗っているときにも目にしたがどうやらよくあることらしい。激情しやすかったり思い詰めたり、不安定な部分が垣間見える青年だ。
「すみません、取り乱しました――」
項垂れる白兎をアリスは改めて慰めた。
「本当にいいの、気にしないで」そして小声で付け足す。「自分のことだし、自分で面倒見るわ」
その後しばらく無言の時間が過ぎたが、白兎が再びアリスの耳元に囁いた。「陛下が世継ぎにこだわるのには、実は少々理由があるんです」
アリスは白兎の顔をまともに見た。
「どんな?」
「先月のことです。『鏡の国』という国で“白の女王”の御世継ぎがお生まれになりました」
不思議の国とは違う、別の国があるらしい。
アリスは頷いて白兎の話の続きを促した。
「この国と鏡の国は縁戚関係にあるので、陛下もあちらへ出向いて祝いの席に参加されました。そのときに、白の女王にだいぶ御世継ぎについてのお話をされたらしくて――」
「話って?」
「その、子供が生まれてどれだけ幸せかとか、これで白の王室は安泰だとか――」
「――つまり、自慢されてうらやましくなっちゃったの?」
アリスの結論に白兎は眉を下げ「まあ、そういうことになりますね」と力なく答えた。
「あなたのことが気に入られたのは本当でしょうが、そういうこともあって譲らないのだと思います」
そんな話を聞いてもアリスはどういう顔をしていいのかわからなかった。
随分子供っぽいような、ある意味切実なような――。
うーんと首を傾げていると、先を歩く女王が薔薇園の門をくぐった。彼が見せたいものはこの中にあるらしい。
(きっと、何か珍しい薔薇ね)
途中で白薔薇の木が植えてある区画に入った。花びらに黒い線が入っている珍しいものだ。するとその花を目にした女王が眉を寄せて顔を顰めた。
「忌々しい色だな、あの猫を思い出す」苛立たしげに呟くと、辺りを威圧するように声を張り上げた。「庭番はいないのか!」
絶対の主人の声に、すぐ様トランプ兵が三人――スペードの2と5と7がやって来た。
「ここにある白薔薇を全て赤薔薇にしろ、今日中にだ。ぐずぐずするなよ」
めちゃくちゃなことを言う、とアリスは思ったが、跪いて背中の絵柄を見せていたトランプ兵たちはぱっと立ち上がると、命令を遂行するためにどこやらへ駆けて行った。
その後もしばらく歩き続けて、ようやく薔薇園の奥にある目的地へとたどり着いた。
そこにあったのは、貴族のお屋敷ほどもある大きな温室だった。
錬鉄と硝子でつくられた植物のための建物は日の光を浴びて水晶のように輝いている。足を踏み入れると、太陽で温められた空気と薔薇の濃く甘い香りに包まれた。
その中では数々の薔薇たちが厳重に保護され、守られ、管理された状態で育てられていた。
花びらに斑が入った薔薇や極端に大きかったり小さかったりする薔薇。檻に入れられて暴れている恐ろしい薔薇もあれば、原種に近い一重の野薔薇もある。
それら全てを通り過ぎて行き着いたのは温室の最奥の一角。
「さあ、これだ」
棘のついた低い柵に囲われたそこには一株の薔薇が咲き誇っている。
それはアリスのいた世界では決して見られない、海のような空のような青い薔薇だった。
アリスは瞬きすら忘れてその未知の花に見入った。鮮やかな碧瑠璃は滴るような自然のみずみずしさを持っていて、その一方で不可能の象徴である“青薔薇”による不自然さも感じる。
見る者を惹きつける、美しくて不思議な花だった。
「なかなかのものだろう。最近できた新種だ」
女王はアリスの反応に気をよくすると、彼女の着ている青いワンピースを見て声を弾ませた。
「そうだ、お前の名前をつけてやろう」
その提案にアリスは「えーと」と言葉を詰まらせ、目を泳がせた。昨日は死刑囚であるチェシャ猫の名前を薔薇につけようとしていたことが頭に浮かんだからだ。
女王にとって薔薇の名前に選ばれることは意味があるらしい。良くも悪くも。
アリスは目を伏せて「光栄です」とだけ言っておいた。
こうして青薔薇にはめでたく“Princess Alice(王女アリス)”の名がつけられた。
機嫌良く歩く女王を先頭にして来た道を戻る途中、白薔薇の木の区画では三人の庭番たちが何やら作業をしていた。
どうも白薔薇に直接赤いペンキのようなものを塗っている。確かに一時的には赤薔薇になるだろうが――
「あんなことしたら枯れちゃうわ」
アリスが傍らの白兎にこっそり話し掛けると、彼は微笑んで答えた。
「それが目的です、あれは除草剤ですから。枯らした後に土ごと入れ替えて赤薔薇を植えるはずですよ。――ほら、もう効果が出ています」
白兎の言う通り、赤く汚された白薔薇の木はみるみるうちに枯れてしまった。




