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第13章 彼の白い手で行き着く果ては

Chapter XIII The end to arrive at by white hand of his



 玄関ホールに響くノッカーの音に、アリスは飛び上がるほど驚いた。


「――もう来たの?」


 アリスは扉の方を怖々と見遣り、それからチェシャ猫に視線を向けた。不安げな瞳に見つめられたチェシャ猫は肩を竦めて口を開いた。


「もう来たみたいだね」

「早過ぎない?」

「向こうはそう思ってないよ。あんたはもう招待状を受け取ってるんだから」


 そう言ってチェシャ猫はアリスの両手が持つ手紙を指差し、その指をそのまま動かして玄関の扉を示した。


「開けようか?」


 チェシャ猫の申し出に、アリスは少しだけ考えてから首を振った。


「あなたが出てお城の人に捕まったら困るわ。何より、私に用があるんだから。さあ向こうへ行ってて」


 アリスは少々不満げなチェシャの背を押して玄関ホールから下がらせた後、一つ息を吐いた。そうやって心臓を落ち着かせてから、決心して真鍮のドアノブを掴む。

 そして一気に扉を開けて訪問者と対面した。


 そこにいたのは、女性と見紛う容姿をした赤い眼の青年だった。

 雅やかな顔つきに涼しげな瞳。肩より長い雪白の髪は赤いシルクリボンで束ねている。白いドレスシャツに黒いトラウザーズ、そして赤と黒の格子柄のチョッキという男の格好でなかったら女だと思っただろう。


「アリスですね?」


 見た目の通りの中性的な声音で、青年は穏やかな笑みを向けてきた。


「そうだけど」アリスは戸惑い気味に答えた。

「あなたは?」


 アリスの誰何すいかに、青年は居住まいを正した。襟元で結ばれた赤いリボンタイがかすかに揺れる。


「申し遅れました。僕は白兎といいます」


 ――白兎――。

 自分を不思議の国に導いた生き物名前に、アリスは目を見張った。

 目の前の青年はどうやっても小さな兎には見えないが、その声には確かに聞き覚えがあった。どうやらチェシャ猫やグリフォンと同じで人と獣の姿を使い分けられるらしい。


「あなたがそうなのね」


 アリスの囁きに近い言葉に白兎は目を細めて微笑んだ。その瞳の色は女王と同じく赤だが、血というよりは熟れた果実みたいだった。


「陛下から事情を聞きました。僕が原因でこちらに来てしまったそうですね。本当に申し訳ありません」


 白兎に頭を下げられ、アリスは慌てて「いいの」と首と手を振った。


「私が勝手に着いて行ったんだから」


 そう言って目を伏せるアリスに白兎は目を見開いた。


「お優しいですね。この国では珍しい」


 感嘆するように呟くと、白兎は白い子山羊キッドの手袋に包まれた手をアリスの目の前に差し伸べた。


「従者に持たせた招待状を受け取っていますよね? 早速、城へ行らしてください」


 すでに城へ出向くことを決めていたアリスは、それでも躊躇いがちにその手を取った。白兎は礼儀正しく親切そうだが、城ではどんな歓迎を受けるかまだわからないのだ。

 玄関をくぐり地面を踏みしめたところで、アリスはあっと声を上げて振り返った。


「公爵夫人は?」アリスは律儀に玄関先まで見送りに来ている蛙の従者を見た(チェシャ猫の姿は見えないので、律儀に家の中にいるらしい)。

「お礼を言わないと」


 蛙の従者は小さく首を振り、丁重に答えた。


「公爵夫人は、昼までお目覚めになることはありません」

「それじゃあ公爵夫人にありがとうって伝えて。それにあなたも」アリスは両生類の頭を持つ従者の、自分の拳ほどもある丸いぎょろりとした目を見つめた。

「私なんかの世話をしてくれてありがとう」


 アリスの感謝に、蛙の従者は恭しく頭を下げて応えた。


「こちらです」


 白兎に手を引かれて連れてこられた先。公爵夫人の館から少し離れた場所には、二頭立ての赤い豪奢な四輪馬車キャリッジが待っていた。御者としてトランプ兵(クラブの8)が手綱を握っている。草を食んでいる二頭は燃えるような赤毛をしていて、見るからに王侯の馬だった。


「さあ、乗ってください」


 アリスを促し、自身も馬車に乗り込んですぐに白兎は金無垢の懐中時計を取り出した。

 時計はチョッキの釦穴にT字型の金具をくぐらせて留めてあり、持ち主の一挙一動で静かな音を立てる。

 蓋を開けて白い陶器の文字盤を一瞥し、時刻を確認すると、白兎は頭を振って溜め息を吐いた。

 

「急がないと。陛下の機嫌が悪くなる」


 独語のように呟いて白兎は時計をしまった。

 出発の合図を出すと、御者が鞭を振るう音が聞こえた。そしてがくん、と大きく傾ぎ、馬の嘶きと共に馬車は走り出した。

 窓には覆いがかけられているため外は見えない。風を切り駆け抜ける馬車の中、アリスは我知らず縋るように手摺を掴んだ。


「どうして女王様は私を呼んだの?」馬車が出発してしばらくした頃、アリスはおずおずと切り出した。

「私が処刑の邪魔をしたから?」


 不安げなアリスの様子を見て、白兎は苦笑した。否定のために首を振り、目の前の少女を安心させるような優しい声音を掛けてやる。


「いいえ、チェシャ猫を取り逃がしたことは兎も角、あなたに対しては陛下はお怒りになっていません。それどころか――」


 白兎はそこで言葉を切り、何も見えないはずの真っ暗な窓を見つめる。言うべきか否か、迷いがあるような仕草。


「なに? どうしたの?」


 アリスは勢い込んで白兎に先を促した。そんな態度を取られては余計に心配だ。

 眉を下げて自分を見つめるアリスに、白兎はやがて決心したように彼女に視線を戻す。

 そして閉じていた口を開き、厳かに言い放った。


「陛下は、あなたを養子にして“ハートの女王”の跡目を継がせるおつもりです」






「――え――?」


 白兎の言葉に、アリス瞬きもせずに目の前の彼を見つめた。


 養子?

 ハートの女王?

 跡目を継がせる?


 言われた意味が、ちっともわからなかった。


「――何を言ってるの?」


 アリスはようやくそれだけ言うことができた。


「言葉通りです。陛下はあなたを次期女王に指名されたんです」


 白兎はどこか申し訳なさそうな顔をした。アリスが望んでいるのは元の世界への帰還だとわかっているからだ。


「次期?」

「ええ。現在の女王である陛下の次代、ということです」

「でも――でも、王族って、血筋が大事なんじゃないの?」

「この国の女王は指名制なんです」白兎は一国の大臣らしく、穏やかに諭すような口調で説明した。

「確かに大抵は女王のご息女ないしはご子息が世継ぎに選ばれますが、この国の法的には血のつながりは“女王”になる条件には含まれません。一応、縁組は行いますが」


 不思議の国のことわりの一片を説かれ、アリスはそういうものなのか、と思った。

 確かに帽子屋も、その資格がある者が女王と呼ばれると言っていた。


「だからって、私が女王様の跡継ぎにならなくてもいいでしょう」

「陛下は言い出したら滅多に前言を翻すことはありません。ましてや世継ぎのことですから、気まぐれとも思えません」


 白兎が肩を落とした。

 アリスが不思議の国へ来た原因として余程負い目を感じているようだ。今彼が兎の姿なら、長い耳はきっと力なく下がっていただろう。


 その時、木の根か石の上を通ったのか、馬車が大きく揺れた。

 幸い手すりを掴んでいたアリスは馬車のどこやらに頭や身体をぶつけることはなかった。

 そして白兎も身体能力が優れているのか、衝撃にもかかわらず大きく体勢を崩すことはなかった。

 しかし――


「おい! どんな操縦してやがる! もっとマシにできねえのか!」


 先程までの物腰柔らかな態度はどこへやら、白兎はまなじりを吊り上げて御者に怒鳴りつけた。

 あまりに唐突に顔つきと口調が豹変した白兎に、アリスはぎょっとして肩をびくつかせた。

 目と口をぽかんと開けていると、白兎は我に返り、「すみません」と小声で謝罪して目を伏せた。


「僕はもともと下層の出なんです」白兎が額に手を当てて、自嘲するように微笑む。

「そのせいで、言葉遣いが昔に戻ってしまうことがありまして」


 アリスは言うべき言葉が見つからず、ただ一言「そうなの」と相槌を打っただけだった。

 そうしているうちに馬車は徐々に速度を落とし、二頭の馬がそれぞれ嘶いたかと思うと完全に停止した。目的地であるハートの城に到着したのだ。


「とりあえず、陛下とお会いになってください」


 早々に落ち着きを取り戻し、白兎はアリスの肩にそっと手を置いた。安心させるように、元気付けるように。


「あなたと直接話をなされば考え直すかもしれません」


 御者によって扉が開けられると、白兎が先に降りて促すように手を差し出す。

 アリスはその白い手を取った。

 さっきよりも、もっと勇気が必要だった。


 馬車から降りたアリスが顔を上げると、昨夜逃げ出したばかりの城が見下ろすように聳え立っていた。



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