第12章 奇妙なお呼ばれ
Chapter XII Strange invite
夜が明け、東の空が白む。
カーテン越しに感じる朝の気配にアリスは夢のない深い眠りから目を覚ました。
目を開けたら祖母の家の応接室で眠っていた――そんなことを期待していたが、なかなか思うようにはいかない。アリスは眠りに落ちる前と変わらず公爵夫人の館の客間のベッドの上にいた。
身体を起こして目をこすっていると、待ちかねたようにドアがノックされた。
チェシャ猫かと思い「どうぞ」と声をかけると、部屋に入って来たのは蛙の従者だった。「失礼します」という声と共に、湯が入った真鍮の洗面器とタオルをベッド脇のサイドテーブルに置く。
アリスはそこに仔豚のホルマリン漬けがないことに気づいた。昨夜お願いした通り、チェシャ猫が部屋の外へ持って行ってくれたらしい。
「おはよう」
アリスが朝の挨拶をすると、従者も「おはようございます」と返してくれた。そして小脇に抱えていた白い何かを渡される。
「こちらもお返ししておきます」
それはアリスのエプロンだった。チェシャ猫の血で真っ赤になっていたそれは綺麗に洗われ、今は一点の染みもない。受け取ると、やわらかな花の匂いが香ってきた。
「朝食を用意しております。食堂へお越しください」
そう言って蛙の従者は出て行った。
アリスは早速顔を洗って服を着替えた。苦労してワンピースの背中の釦を一人で留め、エプロンを着ける。服の皺をできるだけのばした後、ネグリジェを畳んでベッドの上に置いておく。
自分の姿を見たかったが、鏡の類はどこにもなかった。仕方無く硝子を姿見代わりにして手櫛で髪を梳く。
身支度を整えたアリスは扉を開けて部屋を出た。
「おはよう。いい夢は見られたかな?」
階段を下りようとしたアリスの背後から声が掛けられる。
振り向くと、相変わらず白い格好で笑っているチェシャ猫が立っていた。幾分良くなったのか右腕は吊られていない。
アリスはおはようを返した。
「あいにく夢は見なかったわ」
「それは残念」
「そんなことより、怪我はいいの?」
「昨日に比べたらね」
そう言ってチェシャ猫は右手を大袈裟にひらひらさせた。
少しぎこちないながらも動いているので、確かに骨や肉はつながってきているようだ。
「食堂で朝食を用意してるって聞いたけど」
「食べてくればいいよ。俺はいらないから」
チェシャ猫はそう言うや否や、廊下の窓からどこかへ行ってしまった。仕方なくアリスだけが階下へ向かった。
階段の横で控えていた従者に案内されて食堂に行くと、白いレースのクロスが掛けられた大きな長テーブルに一人分の朝食が用意されていた。
トーストされたパン、ベーコンとハム、オムレツ、 雄鮭の燻製、焼いたマッシュルームやトマトなどの野菜、オートミール、コンソメスープ、桃や葡萄の果物、それにミルクティー。食べきれないくらい、量はたっぷりあった。
(おいしそう)
アリスはうきうきと席に着いた。この国に来て以来何も口にしていないアリスにとって、久しぶりのご馳走だった。
早速柄に骸骨が彫られているスプーンを手に取り、スープを口に運んで――思わず吐き出しそうになった。
舌がひりひりと痛みを訴え、鼻がつんとする。
その正体は香りでわかった。無分別な程、胡椒が入っているのだ。
慌てて水を飲んで、今度はベーコンを食べてみる。やはり胡椒がたっぷりと効かせてあった。魚や野菜も同じだ。
ついにまともな料理はなかった。パンやバター、カットされた果物にまで胡椒が振りかけられており、とても食べられたものではない。
結局、失礼とは思いながらもアリスは水を飲んだだけで席を立った。
「美味しかった?」
食堂を出ると、いつの間にかチェシャ猫が戻っていた。おかしそうにニヤニヤ笑っている。
アリスがカモミールを噛んだような苦々しい顔をすると、とうとう喉を反らして笑い声を上げた。
「そんな顔するのも無理ないね。ここの料理女は何にでも胡椒を入れるから。それもたっぷり」
「知っててどこかに行っちゃったのね」アリスがチェシャ猫を睨んだ。
「一言言ってくれてもいいのに」
「まあ、そう怒らないでよ」
そう言って手に持っていた籐のバスケットをひょいと掲げる。掛けられていた白布を取ると、食料がたくさん詰め込まれていた。
「俺だって空腹なんだよ。一緒に食べよう」
先程退出した食堂に戻って、すでに朝食が片付けられた長テーブルに再度着く。
アリスとチェシャ猫は向かい合わせに座った。
籠に入っていた食料はパンにバター、サラダ、冷製チキン、ドライフルーツがたっぷり入ったケーキ、ポットに入った紅茶など、ピクニックにでも持ち寄りそうなメニューだった。
奇抜な味付けでないだけで良い、と高望みしていなかったアリスだったが、食べてみるととてもおいしかった。
「これ、どうしたの?」
アリスがパンを食べながら聞いた。しかしチェシャ猫はチキンを齧りながら「あるところにはあるんだよ」と答えにならない答えを言うだけだった。
すっかり食べ終えて一息吐くと、アリスはふと思ったことを口に出した。
「あの味付け、公爵夫人は何とも思わないのかしら」
「思わないんじゃない? 彼女は味に拘らないし」
舌も鼻もなければそうかもしれない。
アリスは端無くも、公爵夫人はどうやって食事をするのだろうと思った。骨の体では食べ物は口に入れた先から外へこぼれてしまう。
マントルピースの上に飾られた公爵夫人の肖像画を眺めながら、アリスは取り留めの無い物思いにふけった。
おなかがいっぱいになり、さっき起きたばかりにも関わらず瞼が重くなってくる。
行儀悪くもテーブルに肘を突きながらうとうととしていると、唐突にノッカーが叩かれた。
重々しく鳴り響く来訪を告げる音に、アリスははっと目を開けた。
「誰か来たの?」
「そうみたいだね。珍しい」
蛙の従者が玄関へ向かうのを見て、アリスも食堂を出て玄関ホールからそっと様子を伺う。チェシャ猫も音も無く後ろに着いて来た。
従者が扉を開けると、その向こうにいたのは魚の頭をした赤いお仕着せの従者だった。口が大きく、やや突き出た下顎には鋭い歯がびっしりと生えている。どうやらバラクーダのようだ。
「ハートの城の従者だ」
チェシャ猫が呟き、アリスは身を強張らせる。
しかし次に従者が発した言葉は、アリスをさらに驚かせた。
「アリス様へ、女王陛下より招待状です」
魚の従者がそう言って懐から手紙を差し出すのを見て、アリスとチェシャ猫は思わず顔を見合わせた。
赤い封蝋のついた封筒を丁寧に差し出された蛙の従者は、やはりそれを丁寧に受け取った。
「後ほど馬車で迎えに参ります」
魚の従者はそう言ったきり背を向けると森の中へ消えて行った。
アリスが呆然としていると、蛙の従者が目の前までやって来て手紙を丁重に手渡した。
「女王陛下からの招待状です」
アリスはおそるおそるそれを受け取った。
封筒は淡い紅色で、確かに“To Alice”と書かれた自分宛てのものである。
「どうして公爵夫人の館にいるってわかったのかしら」
「そりゃあ、怪我した俺が行くところなんて限られてるしね」
アリスはぎょっとして、勢いよくチェシャ猫を見た。
「女王様に知られてるってわかってて此処に来たの?」
「心配ないよ。あの人は居場所がわかってても兵に攻め込ませるようなことはしないから」
「でも従者が来たわよ!」
「招待状を持ってね」
そう言われて、アリスは改めて手の中にある招待状を見つめた。
自分を招待してどうするつもりなのだろう?
――そんなの、決まっている。
「きっと、私の首を刎ねるつもりなんだ」
「違うと思うな」
アリスが青くなっていると、チェシャ猫が異を唱えた。
「女王は処刑する相手を招待なんかしないよ」
「根拠は?」
「俺は招待されたことなんてないから」
「頼りないわね」
「とりあえず開けてみたら?」
チェシャ猫に促され、アリスは指先で手紙を開けた。薔薇の印璽が押された封蝋が砕け、封筒と同じ色をした便箋が出てくる。
薔薇とハートの紋章が入れられ、純金の枠取りがされた手触りの良いレターペーパーには、紫色の洋墨で城へ招待するという旨の内容が記されていた。古めかしい書体ながら乱暴なその筆跡は、どうやら女王の自筆らしい。
「どうするの?」
便箋をのぞき込みながら聞いてくるチェシャ猫に、アリスは溜め息を吐いた。
「――行くわ。お城に行かなきゃ始まらないし」
そう言った途端、再びノッカーが叩かれた。




