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第11章 私は誰?

Chapter XI Who am I?



 チェシャ猫の言葉は、最初はなかなかアリスの頭の中に入ってこなかった。それはあまりにも突飛で、ありえない、おかしなことだったからだ。

 だからようやく理解できた時、アリスは笑って首を振った。


「そんな訳ないでしょ」

「どうして?」


 どうして?

 聞き返されるとは思わなかったアリスは笑うのをやめ、子供に説明するような口調で言った。


「私のこと、この国の人はみんな知らなかったじゃない。あなたも含めて」

「誰も知らない誰かがいるって、そんなに不思議なことかな」


 チェシャ猫はそっと身を屈め、ちっとも真に受けていないアリスと目線を合わせた。彼から漂う蘭麝の香りには、かすかに血のにおいが混じっている。


「いかれたこの国には、住人にもわからないことがたくさんあるからね」

「でも、帽子屋たちも女王様も、白兎の話をしたらわかってくれたわよ」

「そうだね、あんたが“どこかから来た見たことのない女の子”ってことをね」


 チェシャ猫の言葉はいつも思わせぶりで意味深で、時折やきもきさせられる。

 アリスは眉が寄せて急かすような視線をくれると、チェシャ猫は目を細めて言葉を続ける。


「前にも言ったよね、白兎はあちこち跳ね回ってるって。だからそれに着いて来てしまった人間がいてもおかしくない。でもどこから? 白兎が行けるところ、つまりこの世界の中からだ」

「こんなに不思議な世界なら、違う世界につながるくらい訳ないんじゃない?」

「どれだけめちゃくちゃに見えても、覆せないことはあるんだよ。違う世界になんか行けっこない。だからね、帽子屋たちも女王も、この世界の・・・・・どこかから来た子供としてあんたを見てるんだよ」


 あまりの話に思考がついて行かず、アリスは何も言えなかった。すると、屈んでいたチェシャ猫がぱっと背筋を伸ばす。

 にんまりと笑う、その何でも知ったような顔がなんだか憎らしくなり、アリスはぎゅっと睨みつけた。


「それなら、私がこの世界の住人だとしたら、私の住んでいた世界や家族は何なのよ。嘘なんかじゃないからね」

「嘘だよ」


 チェシャ猫は事も無げに言った。


「ここからが、あんたが本当に聞きたくないだろうことだ。あんたの言うあんたの住んでいた世界は、この世界とあまりに違う。あんたが言ったんじゃないか。つまりね、そんなの全部空想の産物なんだよ」


 断言され、アリスは小さく息を飲んだ。

 そのまま瞬きすら忘れたようなアリスの髪を、チェシャ猫は戯れのように一房手に取った。


「そんな空想を抱いた女の子が、不思議の国にぱっと生まれた。そして白兎を追いかけてここまでやって来た。それがあんたの真実だと思うね」


 アリスの細い髪を指に絡めながら、猫の青年は彼女にとって残酷な“真実”を述べる。


「考えてもみてよ。今いる世界とは違う世界があるってより、最初からこの世界の住人だったあんたがそう思い込んでるって方が、ずうっと理に適ってるよ」

「――そんなの、おかしいわ」言いながら、アリスは自分の髪を弄ぶチェシャ猫の手を払った。

「そんなの、私が・・まともじゃない」

「そうだね。でも、それが現実さ」

「私が――狂ってるってこと?」

「ここはそういうところだよ。俺も狂ってるし、あんたも狂ってる」


 チェシャ猫が言い聞かせるように言葉を紡ぐ。そうしてアリスを見つめる金色の瞳は、ぞっとするほど美しかった。


「そうでなきゃ、この不思議の国にはいられないよ」


 ベッドに座ったまま、アリスは酩酊したように頭がくらくらするのを感じた。

 目の前の青年は、今まで何の疑いもなく信じてきた世界が虚構で、この不思議の国があるおかしな世界が現実だと言う。

 にわかには信じ難い論理だった。

 しかしこの不思議の国に今自分が存在していることは事実で、そうなるとアリスのいた世界の存在が怪しくなるのも確かで。


「この世界は本物なんだよ。わかるだろう? それなら、あんたが今までいたって言う世界は? 空想、幻想、夢――そんなものでしかないんだよ」


 俯いて自分の膝ばかり見つめるアリスに、チェシャ猫が言い募る。


「そんなところに帰ろうなんて、馬鹿げてると思わない?」


 自分自身の根幹を揺るがすチェシャ猫の声を振り払うように、アリスはかぶりを振った。

 何も聞きたくなくて、両手で耳を塞ぐ。何も見たくなくて、ぎゅっと目を瞑る。


 すると、世界は音の無い闇になった。

 その何も無い世界で、アリスは頭の中で必死に思い描いた。


 家族のこと。

 友達のこと。

 自分がいた世界のことを。

 鮮明に思い出せるそれら。

 その全てが、頭の中でつくられた偽物だなんて――


「そんなの、信じないからね」


 アリスは目を開けると顔を上げ、強い眼差しでチェシャ猫を見た。笑みの形に細められた瞳をじっと見据える。


「あなたの話、証拠なんてどこにもないじゃない。それこそ、あなたがそう言ってるだけで」


 先程の自分と同じ論法で自分の話を否定され、チェシャ猫が苦笑する。


「そうかな? この世界が本物ってことが証拠にならない?」

「そうね、この世界は本物だわ」アリスは言葉を続けた。

「でも、どっちかが本物でどっちかが偽物なんて、どうして決める必要があるの? きっとどっちも本物なのよ。私はそう考えるわ」


 だいたい、チェシャ猫はどこかおかしかった。

 初めは帰る方法を示唆したにもかかわらず、後になって結果的にアリスを帰路につながる城から遠ざけた。あの時女王に見つからなくても、連れ出すつもりだったに違いない。


「そんな怪我までして」


 アリスはチェシャ猫の、吊られた腕と衣服の下で包帯が巻かれている肩を見た。


「何を考えてるの? 望みは何?」


 強い口調でそう言ってチェシャ猫の顔に視線を戻したアリスは、はっと目を見張った。

 美しいその面貌からは、いつもの笑みがすっかり消え失せていた。

 アリスは彼の笑った表情しか知らない。

 だから、それはとても異様でおそろしいものに見えた。

 背筋がじわじわと冷えていくのを感じながら、それでもアリスはじっとチェシャ猫を見つめ続けた。


 永遠とも思える、しかし息を一つ吐くよりも短い時間が経った。


「――あーあ、騙されなかったね」


 あっさりと、今までの自身の話全てを翻す言葉を口にして、チェシャ猫が笑った。

 その様にアリスは何よりもまずあっけにとられた。そして理解した途端、一気に顔と頭に血が上ってきた。


「からかってたのね!」


 アリスは羽根枕を掴むと、チェシャ猫が怪我人だったことも忘れて力いっぱい投げつけた。チェシャ猫は笑いながら、片手で難なく枕を受け止めた。


「ごめん、ごめんってば」


 憤懣やるかたないアリスに謝罪の言葉を述べながら、彼は少しだけしおらしく眉尻を下げた。


「本当に悪かったよ。だって、あんたがあんまりこの世界に未練がないから――悔しくなったんだ」


 そう言われて、アリスは身体を竦めた。

 振り返ってみると、確かにこの世界のことなど考えず帰りたいとばかり言っていた。

 自分が薄情だったのだろうか。


「未練がないなんて、そんなことない」アリスはばつが悪い思いをしながらも、それだけは否定した。

「来られるならいつでも、何度でも来たい。そう思ってるわ」


 弁解がましくなってしまったが、この言葉に嘘は無かった。

 不思議の国は怖いところもあったがわくわくすることの方が多かった。そんな場所を嫌いになる理由は無い。


「本当に?」

「本当よ」

「――それなら、今日はもう休むといいよ」


 チェシャ猫が枕を軽く振ってベッドに戻した。

 促されてサテンの真白いシーツの中に身体を潜り込ませると、冷たい手の平がそっと額に置かれる。


「明日のことは明日考えればいい」

「――そうするわ。あなたが変なこと言うから、すごく疲れたしね」

「お詫びにちゃんと、あんたが帰るのに手を貸すから」

「……ありがとう」


 そこまで言うと、すぐに眠気がやってきた。普段の自分の世界でならまだ床に就く時間ではないが、今日ばかりは身体も頭も限界だった。

 だからアリスは、囁くように呟かれた言葉も記憶に残らなかった。











「騙されてくれればよかったのにね」



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