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第9章 公爵夫人の館

Chapter IX The Duchess's mansion



 空から見ればミニチュアのようだった公爵夫人の館は、地べたから見れば大きなものだった。 

 二階建ての横に広い白亜の建物。その純白は宵の口の暗さの中で仄かに輝いていた。

 正面玄関に回り、チェシャ猫は左手で頭蓋骨を模った不気味なノッカーを鳴らした。扉を開けたのは蛙の頭をしたお仕着せ姿の従者だった。チェシャ猫は見知り顔で微笑んだ。


「公爵夫人はいらっしゃるかな?」


 蛙の従者は「広間におられます」とだけ言うと、血まみれの青年にもその横にいる少女にも何の反応も見せず二人を招き入れた。


「公爵夫人ってどんな人?」


 ホルマリン漬けの豚の胎児が飾ってある玄関ホールを通りながらアリスがそっと聞くと、チェシャ猫は「うーん」と考える仕草をして、言った。


「一言で言えば、血も涙もない女かな」


 チェシャ猫の答えにアリスは溜め息を吐いた。この国に来てから、誰かのいい評価というものを聞いたことがない。


 従者が先立って開けた扉から広間へ入ると、そこには確かに一人の女性が背を向けて立っていた。

 シフォンとレースで飾られた白い豪奢なドレスに花飾りのついたつば広の帽子。いかにも貴婦人然とした姿にアリスは背筋を伸ばした。


「公爵夫人」


 チェシャ猫に呼ばれて公爵夫人がこちらを振り向く。

 その姿を見て、アリスは思わず総毛だった。

 公爵夫人は皮膚も筋肉もない骨だった。骨格標本がドレスを着ているだけならジョークかユーモアだが、それが動いている。確かに血も涙もないだろう。

 その眼窩には硝子の義眼が嵌め込まれており、しっかりとこちらを見据えていた。


「こんなに日が暮れてから、何の用かしら」


 公爵夫人が口を開いた。舌も声帯も臓器もないはずなのに、その声は甲高く明瞭だった。


「それに何て格好? 人の家に上がりこんでおいて、なってないわ」

「いろいろあってね」


 チェシャ猫が器用に無事な左肩だけをすくめた。


「この肩を何とかしたいんだ、手当ての道具を都合してくれないかな」

「図々しい猫だわ」


 公爵夫人がそう言うと、戸口に控えていた蛙の従者がやって来た。チェシャ猫を案内するためだろう。公爵夫人がそれを何気なく眺め、ふとアリスに目を留めた。アリスの体がこわばる。


「この子供は何?」

「アリスだよ、公爵夫人」


 チェシャ猫は振り向いてそう答えたきり治療のために蛙の従者と共に違う部屋へ入ってしまった。広間に二人だけで残されたアリスは、乾いた口を何とか動かして「はじめまして」と言った。


「アリスというの?」

「はい、公爵夫人」

「知らない名前ね」

「違う世界から来ました」

「違う世界?」


 公爵夫人が素っ頓狂な声を上げたので、アリスは思わず首をすくめた。


「そんなところは知らないわ」

「私もこの国のことは知りませんでした」

「わからない子供ね」公爵夫人は裳裾を優雅にさばいて傍らの三本脚の椅子に座る。「まあ、人なんて名前さえわかればいいわ。言うでしょう? “名は体を表す”って」


 そう言うと、レースの指なし手袋をはめた骨の手で右目から義眼を取り出した。アリスがぽかんと口を開けたのにもかまわず、彼女は取り出したそれを絹のハンカチで丁寧に拭き磨き始めた。


「何をしているんですか?」アリスは思わず聞いてみた。

「わからないかしら。こうして綺麗にしておかないと、視界が曇るでしょ」


 義眼の瞳孔部分を念入りに磨きながら答えた公爵夫人に、アリスはなるほどと納得した。何せ彼女には瞼がない。

 公爵夫人が動く度に骨と骨が擦れる乾いた音が耳につく。アリスはすることもなく、ただぼんやりと突っ立ってその光景を見ていた。


 しばらくすると、チェシャ猫が広間へ戻って来た。衣服は新しいもの――相変わらず白いコートと拘束衣だ――に着替えており、右腕は肩に負担をかけないためか三角巾で吊ってある。

 待ちわびたように顔を上げるアリスと振り向きもせず自分の作業に没頭する公爵夫人を見て、青年は愉快そうに笑った。


「すっかり打ち解けたみたいだね」


 近くに来るなりそう言ったチェシャ猫に、アリスはあきれた目を向けた。


「そう見えるの?」

「もちろん」

「――まあ、いいわよ。怪我は大丈夫なの?」

「まあね」


 チェシャ猫はコートをずらし、拘束衣の肩口のあたりをぐいと引っ張った。襟ぐりから包帯が巻かれた肩がのぞく。


「さすがに今すぐは無理だけど、まあ、二、三日の内には治るよ」

「そんなに早く?」


 あんなに深く傷を負い、たくさんの血が出たのに。

 眉を寄せるアリスにチェシャ猫は片目だけ瞑って見せた。


「何度も言ったけど、ここはそういうところだよ。女王はもう傷も残ってないんじゃないかな」


 アリスはもう何も言わず、ただ目をぱちくりさせるだけで驚きを表した。


「ごちゃごちゃと騒がしいけど」公爵夫人が唐突に口を開く。「私は用を果たしたわよ。まだ何か用かしら」

「ああ、そうだったね夫人。おかげで助かったよ。それでついでと言っては何だけど」


 チェシャ猫がアリスの肩に自由な方の手を置いた。


「この子も俺も、今日は行くところがないんだ。部屋を貸してくれないかな」

「部屋ですって?」


 公爵夫人は作業の手を止めると、肩をすくめて首を振った。心底呆れたという感情をそんな仕草で表した後、階上を指差した。


「好きにすればいいわ。私は忙しいのよ」

「そうだろうね、公爵夫人」


 右目に義眼を嵌め直し、今度は左目の義眼を取り出した公爵夫人を背にして、二人は広間を後にした。


 玄関ホールの階段の前には蛙の従者が控えており、アリス達を二階の客間に案内した。アリスの部屋は東側の一番端、チェシャ猫はその隣だった。

 従者にありがとうを言って扉を閉めると、アリスはようやく一人きりになった。


 客間は城の子供部屋ほどではないが広かった。

 家具がベッド、サイドテーブル、キャビネット、クローゼットと少ないため余計にそう感じる。

 キャビネットには玄関ホールにもあった、ホルマリンに浸かった仔豚の瓶詰めが飾られていた。アリスは出来るだけそちらを見ないように努力した。


 ベッドカバーが折り返された寝台を見ると純白のネグリジェが置いてあった。

 アリスは早速寝巻きに着替えた。靴下と靴も脱ぎ、白い部屋履きに履き替える。

 脱いだ衣服をクローゼットにしまうと、アリスは窓辺に歩き寄った。サテンとシフォンのネグリジェは足首に届くほど丈が長いので、裾を踏まないように気をつけなければならなかった。


 カーテンを少しだけ開けて外を見ると、日がすっかり沈んだ空は洋墨インクをぶちまけたような濃い藍色をしていた。昼の間は見えなかった星々が輝きだし、東の夜天には三日月がのぼりかけ、地上の黒い森を仄かに照らしている。


(月は人を狂わせるんだっけ)


 アリスは昔からの迷信を思い出しながら、早々にカーテンを閉めた。そしてベッドへ向かうと、部屋履きを脱いで裸足になり、柔らかなシーツの上へ身体を乗りあげた。

 枕元に座り、両膝を抱えて膝小僧に額を押しつけて、アリスはできるだけ小さくなった。身体は疲れきっていたが頭の中ではいろいろなことを考えてしまう。


 勢いで逃げて来てしまったが、城にいなければ白兎に会えない。

 もう一度城に行こうにも、理由はどうあれ女王の邪魔をしてしまった。後悔はないが、許してもらえるとは思えない。

 このままでは元の世界に、家族のもとに帰れない。


(どうしよう――どうすればいい?)


 鬱々と塞ぎ込んでいると、突然ドアがノックされた。反射的に顔を上げて「どうぞ」と答えると、ドアを開けてチェシャ猫がひょいと顔を見せた。


「何か用?」


 アリスは丸くなっていた体勢を解いて、ベッドに腰掛けるようにしてチェシャ猫を迎えた。


「ごめんね、用って程じゃないよ」チェシャ猫は部屋に入ると、音もなくドアを閉めた。「ただ顔が見たくて」


 そう言われてアリスはどう答えていいのかわからず、ただ「そう」とだけ答えた。その様子がおかしかったのか、チェシャ猫が笑みを深くする。


「疲れてるよね、眠いよね、いろんなことがあったんだから。でも眠る前にちょっとだけ――」


 チェシャ猫がそこで目を伏せ、また顔を上げた。


「ちょっとだけ、お話しない?」


 その金色の瞳は、さっき見た三日月の色そのものだった。



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