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ようこそ、おぞん荘へ。

◆◆◆◆◆◆◆

都心から少し離れた場所。

木造二階建の築八十年。

六畳一間。

風呂は無く、トイレも共同。

間取りは、部屋が一つで後は申し訳程度にキッチンが付いているだけ(要は1K)。

押し入れもない。

家賃は月々五千円ポッキリ。


それが、世界大戦を生き抜いた信頼と実績を誇るアパート『おぞん荘』の基本情報である。


耐震強度?知らんがな。


その他にも、公共施設(病院や学校、駅、銭湯……)との位置関係も重要になってくるが、その辺はとりあえず置いておこう。


俺がこのふざけた名前のアパートに引っ越してきてから、もう一年が経つ。

……否、正確には高校入学時に入ったのだから一年と三ヶ月か。

懐かしいなぁ。


時が経つのは早いもんである。

気が付けば高二の七月と、高校生活の半分が過ぎてしまった。


もうすぐ夕刻と呼ばれる時刻。

俺は布団の中で、そんなちょっとセンチメンタルなことを考えていた。

今日は土曜ということもあり(俺の通う高校は週休二日制なのだ)、部屋に布団を引きっぱなしにしていたのだ。

今日日の高校生なんてこんなもんである。……おそらく。


で、俺が何故そんなことを考えていたのかと云うと――。

なんと、本日めでたく(?)おぞん荘に新たな住人が増えることとなったからだ。


『ピンポーン』


古くさいインターフォンの音色が響き、我が家への来訪者の到来を告げた。

多分、くだんの新入りさんだろう。


「噂をすれば何とやら、だな――はーい!」


最後の返事を外に聞こえるくらいに張って、俺は布団の中から玄関へと向かった。


そしてドアを開けると――


「はじめまして。わたくし、本日から隣の二○二号室で御世話になります、宵乃宮:靜《よいのみや:しずか》と申します」


見覚えのある制服に身を包んだ、これまた見覚えのある少女が宜しく御願い致します、と頭を下げていた。


これが決して交わることは無いだろうと思っていた、宵乃宮:靜と俺、月杜:御影《つきもり:みかげ》との世界が繋がった瞬間だった。



◆◆◆◆◆◆◆

神は人に二物を与えず――というのは、真っ赤な嘘である。


何故なら、その定義を打ち崩す存在が俺のすぐ近くに居たからだ。

具体的には隣の席に。


纏うはみやび

黒蜜の様に艶やかで、それでいてサラサラの黒髪。

腰まで伸ばされた髪は、変な癖など全く無くストレートである。

今時珍しい、美しい黒髪を姫カットにしているが、そんなところも、古風な清楚さを醸し出して男心をくすぐる。


十人居れば、十二人ぐらいが見とれるであろう整った小顔。

切れ長の目に、すっとした鼻梁。

花の蕾を彷彿させる、赤くぷっくりした唇。

肌はシミ一つなく、透き通る様に白い。


175センチの俺より、頭ひとつ分くらい小さい身体は、無駄な肉などないほっそりとした体型である。


もう一度云っておこう。

少女は無駄な肉などない、スリムな体型である。

別の云い方をすれば、貧乳である。

だがそれすらも、彼女の楚々とした慎ましやかな雰囲気とマッチしてマイナスとならないのだから恐ろしい。


性格についても、優しく穏やかでありながら凛とした強さも併せ持つという、男が思い描く大和撫子然としている。


それが、俺から見た宵乃宮:靜の人と形である。


もっとも一年時はクラスが別々だったので、実質二年になってからの三ヶ月の印象だが。

しかし、その三ヶ月間席は隣同士だったので当たらずも遠からずだと思う。


また、彼女は入学以来一度も成績トップの座を明け渡したことはない才女でもあるそうだ。


更に付け加えるとするならば……これはあくまでも学園内で囁かれている噂だが、宵乃宮家は華道や茶道もしくは舞踊の家元らしい。

故に、彼女は本物の雅なお嬢様ということになる。

そんな要素が交わりあって、最終的に彼女の学園でのあだ名は『御前』。

名前も『しずか』だし、ピッタリだろ。


で、御前様は現在、何故が狭くて殺風景な部屋――またの名を俺の部屋の真ん中に居たりする。

白のワイシャツに黒いプリーツスカート、黒のストッキングに身を包んだ体を正座させて。

綺麗で落ち着いた姿勢を保っているところから、彼女が常日頃から正座していることが伺える。


そして何故か、御前様は目をつむっていた。

瞑想でもしているのだろうか。

彼女の様な佳人が、正座で目をつむっていたりすると変な凄みを感じてしまう。


「…………」


「…………」


玄関でまさかの鉢合わせをしてから、体感で二時間は過ぎただろうか。

部屋の壁掛け時計は十分しか刻んでいないが。

それだけ俺達の間には、気まずい雰囲気が立ち込めているということだ。


とりあえず、お互いこの出来事を無かったことには出来そうに無かったので、俺は部屋へ彼女を招き入れたのだが……。


――――いやぁ、そんな風に部屋の真ん中で正座とかされちゃうと、こっちとしても姿勢を正さないといけない感じになるじゃん。


俺も二人分のコーヒーを淹れると、御前様の向かえで正座した。


「…………」


「…………」


――――えー……、もしかして俺から話し始めないといけないのぉ?


俺も“仕事柄”それなりに修羅場を潜り抜けてきた積もりではいるが……えぇい、ままよ!


「あ――」


「申し訳御座いません!」


いきなり出鼻を挫かれた。

……まぁ、それはいいとして。

いったい何が申し訳ないんだ?

見れば彼女、正座の姿勢から腰を折り曲げ手を前に着き――要は土下座してるし。


「とりあえずは、顔上げてよ。事情はそれから聞くから、さ」


まずは、顔を上げてもらうことにした。

クラスメイトに土下座されるとか、新鮮な気分過ぎて落ち着かん。


御前様は「有り難う御座います」と云って顔を上げてくれた。


――――あー……、良かった良かった。

なわけ無いんだろうなぁ。

何も解決してないし。

しかし事情を聞くなんて云っちまったけど、正直面倒事は勘弁なんだよな……。


はぁ……。


「それで……?」と、自分でも損な性格だなと思いながら、俺は彼女に事情を話すよう促した。


「はい、実は――」


御前様はもう一度背筋を伸ばし


「わたくし、本当はお金持ちでもお嬢様でも無いのですっ」


凛とした声で言い切った。


うん。

何となくそうなんじゃないのかな、とは思っていたよ。

何せ、こんなボロアパートに越してくるぐらいだし。


その後彼女の話を聞いていくと。


御前様の父親は、彼女が産まれてすぐ亡くなってしまい母親と二人で生きてきたらしい。

貧しいながらもそれなりに幸せな生活をおくれていたそうだ。


しかし、今から一年と少し前。

丁度高校入学を控えた矢先、彼女の母親が急死してしまったのだ。

病名は明かさなかったが、女手一つで家庭を支えてきたツケが回ってきたのだと、御前様は苦笑いしていた。


おそらく自分の不甲斐なさに、憤りを覚えているのだろう。


で、今まではどうにかこうにかやってこれたのだが、ついに厳しくなり、より安い『おぞん荘』へ越してきたそうだ。


そこで運悪く俺と遭遇してしまった、と。


また御前様の楚々とした立ち居振る舞いや、言葉遣いは彼女の母親の影響らしい。


「母は自分にも他人にも厳しい人でしたから」


茶道や華道についての教養も同じく。


……お前さんの母親は何者だよ。


「母から学んだ言動を心掛けて生活していたところ……」


自分に様々な噂が着き、それが何時しかまことしやかに囁かれるようになってしまいました、と俯きながらに御前様。

声も元気が無く、尻すぼみ気味だ。

普段、凛とした話し方をする彼女からは想像も出来ない。


どうして彼女がそんな“らしくない”ことをしているかといえば、答えは一つだろう。


「やれやれ、そんなに叫んで何死に急いでんだい? 愉快な奴だなぁ」


そんな彼女の必死さが微笑ましくて、ついつい軽口が出てしまう。


誰にだって、人には云いたくない、知られたくない秘密の一つや二つ有るもんだろ。

勿論俺にも、さ。


「え……っ? ですが、わたくしは……」


「別にいいだろ。自分から『わたくしはお嬢様です』なんて宣言しているわけじゃないんだし」


「しかし結果的にとは云え、皆様や月杜さんのことを騙していたには変わりなく」


「まぁ、でもそれで被害を被った奴はいないだろ? ……なら、いいんじゃね?」


いたとしても、御前様ファンクラブくらいか?

でもアイツ等だって、何もお嬢様だから御前様のファンやっているってわけじゃ無いだろう。

むしろ庶民的で親近感とか沸いたりして、な。


当たり前のことだが、御前様は俺の様に楽天的な考えをすることは出来ないらしい。

なおも自分の非を恥じている。

おそらく、今までもかなり罪悪感に苛まれていたんだろうな。

そして今回のことで糸が切れちまった、と。

何とかして落ち着けてやらんと、流石に可哀想過ぎる。


こういう時は、秘密の共有等を図って相手と対等な立場になるのが手っ取り早いんだが……。

一応俺にも彼女に匹敵するぐらいの秘密が、有るには有るんだけどなぁ……。

けど、リスク管理的にどうよ?


ついには目に涙を浮かべる御前様。

おいおい、マジかよ。

仕方ねぇ。


「やれやれ……安心しろ、御前様。俺だってみんなに秘密にしていることは有るし」


俺は頭を掻きながら彼女に話し掛けた。


「…………?」


俺の話に興味を示したらしい御前様は、顔を上げた。


「何せ俺は、何を隠そう――霊能力者なんだからな!」


彼女の視線が俺の視線と交わるのを見計らって、俺は堂々と云い切った。


「…………、あの……、詐欺師の方ですか?」


長考した末、そんなコメントを返すエセお嬢様。

はっはっはっ…………ぶん殴るぞ、アマァ。


「え……えっと、霊能力者と申しますと、あの悪霊を退治する方のことですかっ?」


不穏な空気を感じ取ったのだろう、御前様はやや早口でまくし立てた。


「否、違うよ。確かにそういった存在もいるが、俺のやっていることは別」


「別、と申しますと?」


「俺のやっていることは、主に調査だね」


「調査……ですか?」


「そう……例えば」


ただでさえ、一般人にはわかり難い霊関係の話題の上、調査なんて云われたらそれこそ混乱するわな。

なので、俺はわかり易い例えを交えて説明することにした。


「例えば、かつて『住人が非業の死を遂げたアパート』があるとするじゃん」


「えっ!?」


何故か辺りを見回す、御前様。


「そして、そのアパートでは『夜な夜な何かが徘徊している気配がする』とアパートの住人達が訴えたとするじゃん」


「――――ッ」


今度は涙目になって震えだす、御前様。

あぁ、そういうことか。


「このアパートにはそんなの居ないよ。ただの例え話だって」


「~~~~ッ」


最後には、頬を膨らませて恨めしげに睨み付けてくる、御前様。

不覚にも、その仕草が可愛いと思ってしまった。


「おほんっ……。まぁ、そういった感じの訴えたがあった時、本当に霊の仕業かどうか調べるのが俺の仕事ってやつだね」


勿論それだけではないが。

だかそれ以上の話は、守秘義務に抵触するかもしれないし。


「でしたら、月杜さんが調査した後、他の方が退治するという形なのですか?」


「うん、大体そんな感じ」


「質問なのですが」


「うん?」


「何故月杜さんは、退治ではなく調査を行っておられるのですか?」


もっともな疑問だ。

だがそれに答える前に、喋ったことで少し喉が渇いたので、先程淹れたコーヒーを口に含む。


うへぇ、すっかり冷めちまってやがる。


新しいのを淹れ直そうかと思い、御前様のカップにも目を向けて見ると。


……一口も飲んでいない、か。


「なぁ、御前様?」


「はい?」


「コーヒーは苦手?」


「いえ、ですが普段あまり飲まないもので」


ふーん……、美味しいのになぁ。


「俺は霊力が低いからな」


「はい?」


御前様が首を傾げる。


「さっきの質問の答え、だよ。霊力……わかり易く云ってしまえば火力でもいいけど、それが低いんだ」


火力の例えは理解し易かったのだろう、御前様は相槌を打つ様に頷いた。


「だから霊、他にも妖怪とかいるんだが、ソイツ等と直線戦うには向かないんだ」


「それ故に、調査を?」


「そゆこと」


「…………」


御前様が気遣わし気な視線を向けてくる。

別に俺は、そういった対魔の名門出身とかじゃ無いから気にしなくてもいいんだけど。


「あの、月杜さん?」


「ん、どした? 御前様」


意を決したかの如き、雰囲気の御前様。

おいおい、だから気にしなくても……


「実は折り入ったお願いが御座いまして」


はいはい、お願いね……ん? あれ? お願い?

俺の予想ハズレ?


じゃあ、何か霊関係のトラブルでもあるのか。

でも、見たところ“悪いもの”が憑いている感じはないのだが。


「どんなお願いだ、御前様?」


「その『御前様』と云う呼び方を止めては頂けませんでしょうか」


わたくしには相応しくない呼称ですので、と彼女は若干頬を染めた。


そこっ!? …………まぁ、いいけどさ。


「Okay.宵乃宮」


「出来れば下の名前でお願い致します」


「……Okay.し、靜」


「……はい!」


はずっ。

たかが名前を呼ぶだけで、どもっちまったよっ。


御前様――否、靜は「同世代のそれも殿方に下の名で呼ばれるなんて、初体験です……っ」と何やらテンション高めである。


初体験って…………。


――――まぁ、あのズーンとした落ち込みから脱却出来たし、いいか。


そう思うと急に可笑しくなってきて、何の気なしに俺は靜の頭を撫でてしまった。


「――ッ」


無意識に自分がその様な行動を起こしてしまったことと、手の平に触れた髪のさらさらとした感触にびっくりしてしまった。

いやはや、ホント上質な絹みたいだ。

どうやったらこんな髪になれるものやら。

俺のボサボサの髪と比べ――るのはおこがましいか。


なーんて現実逃避しているのもそろそろ限界か。

どうしよう。

いきなり髪を触られて、靜の奴やっぱり怒っているかな。

髪は女の命とか云うし。

セクハラだって訴えられたら……。


恐る恐る靜の表情を窺う。


すると――


「はぅ~」


彼女は目を細めて、気持ち良さそうに声を零していた。

まるで、一日の疲れを癒やす風呂に浸かったかの様に。

まるで、子ネコが喉を撫でられたかの様に。


その後、我に返った靜が恥ずかしそうに頬を染めながらも「気持ち良かったです……」と呟いた時、俺は生まれて初めて“萌え”というものを理解出来た気がした。



◆◆◆◆◆◆

「風呂行こうぜー!」


二○二号室のドアを叩きつつ、俺は声を上げた。


時刻は午後の七時になろうかとしている。

あの後靜は、荷解きをする為自分の部屋へと戻っていった。

特に今日はすることも無かったので、手伝ってもよかったのだが。

流石に女の子の私物へ手を出すのはどうか、と思ったので俺は残ることにした。


で、そういえば靜は銭湯の場所を知っているのだろうか気になり声を掛けてみたのだった。


この時間なら片付けも一段落着いただろうし、夕食を食べるには埃っぽいはず。


「はーい!」


靜の凛とした声と足跡が聞こえてきた。


「今晩はです、月杜さん。お風呂と仰っていましたが、どういうことでしょう?」


先程までの制服に、純白のエプロンを羽織った靜が出てきた。


「ああ、このアパートって風呂が無いという話は聞いているか?」


「はい、大家さんから窺っております」


「じゃあ、どこへ行けば風呂に入れるかは聞いているか?」


「あ……」


口に手を当てて目を見開く、靜。


――――やっぱりあの大家説明してなかったな。

相変わらずいい加減な奴め。


「そんなことだろうと思ったから、一緒に行かないかって誘ったんだ」


「有り難う御座います。では、直ぐに支度を済ませます」


「はいよ~」



それから俺達は、昔ながらの高い煙突がそびえる銭湯の前に来ていた。

銭湯『葛の葉』は、おぞん荘から徒歩五分程度の場所にある。

藤色の暖簾が目印の、おぞん荘の住人御用達の場所だ。


「俺達は基本的に、風呂と云えばここのことを指すんだ」


「はい、わかりました」


「ああ。というか、他に風呂屋が無いだけなんだけどね」


「そうなのですか?」


「昔は結構あったらしいんだけど」


みな店を畳んでしまったのだ。

何故なら


「昔は、ここら辺一帯温泉が湧いていたんだってさ」


「温泉ですかっ!?」


靜さんの眼の色が変わる。

やっぱり女の子だけあって、お風呂とか好きなのかな。

なら、この話は落ち込むかな。


「でも温泉が涸れちゃってね。それでみんな辞めちゃったんだってさ。葛のここも、究極的には水道水を沸かしているだけだし」


目に見えて落ち込む、靜。

やっぱりか。


「広くて綺麗な風呂だと云うことは確かだから! 行こうぜ!」


洗面用具を抱えた俺は、同じく洗面用具を両手で持った靜を連れ立って暖簾をくぐる。

ややテンション高めに。

人はそれを空元気と云うかもしれない。

少なくとも俺は云わないが。


「いらっしゃいませ!」


俺達が中に入ると、若い女性の声が出迎えた。

入口の延長線上――番台に佇む、玉藻たまもさんの声だ。


玉藻さんは葛の葉の店主だ。

美しい金糸の髪をポニーテールにした長身の女性である。

同姓(別に靜とは明言してないぞ)が羨む程の爆乳と、それに対してあまりにも細いくびれ等奇跡に等しいプロポーションは、葛の葉を訪れた者を必ず魅了する。

また、白のシャツと紺のジーンズというラフな格好故、彼女の豊満な肢体がはっきりとわかる。


うん。

何だ、その。

玉藻さんの胸を凝視しながら自分の胸元をさするのは止めなさい、靜。

気持ちはわかるが、はしたないと思うぞ。

お前さんだって、玉藻さんとは別のベクトルで美少女なのだから、その……そんなことされると目のやり場にだな……。


俺の何とも云えない気まずさから救ってくれたのは、玉藻さんだった。

彼女は空の様に澄んだ碧い眼で、俺の存在を確かめると


「ハ~イ、ミカゲ君!」


笑顔で手を振ってくれた。


「玉藻さんこんばんは」


「こんばんは~…………んぅ?」


そこで玉藻さんは俺の隣に居る靜に目を移し、もう一度俺に戻すと小指を立てた。


…………おいおい。


俺と靜は番台の前まで近寄ると、靜がおぞん荘の新しい住人だと伝えた。

綺麗な一礼をして、俺の時と同じように挨拶をする靜。

それに呼応する形で玉藻さんも。


「はじめまして~。ウチの名前は玉藻っていいます、よろしくね~!ふ~ん、この子――シズカちゃんが噂の新しい住人さんなんだ~」


「噂、ですか……?」


噂って何?って感じで、小首を傾げてこっちを見る靜。

靜の疑問に答えたのは、玉藻さんだった。


「おぞん荘の住人はウチのお得意様ですからね~。新しい住人が増えるとなれば、アンテナ建てて、耳ピコピコですよ~」


「はい。わたくしもこれからお世話になります」


もう一度綺麗な礼を魅せる、靜。


「じゃ、玉藻さん、コレ二人分ね」


俺は風呂代三百円×二を玉藻さんに渡す。


「毎度ありがとうございます~」


「つ、月杜さん! お金なら自分でっ」


慌てて財布を取り出す靜を、手を前に出して引き止める。


「いいよ、引っ越し祝いだ」


「ふふふ~。シズカちゃん、良い女ってのはこういう時男に恥をかかせないものなのよ~」


玉藻さんの援護射撃もあり、靜は「有り難う御座います!」と、とびきりの笑顔を見せてくれた。


上弦の月が照らす夜道。

いつの間にか路上リサイタルの主が、セミからカエルへと移っていた。

俺は葛の葉の前で、風呂上がりの火照る体を夜風に当てながら、靜が出てくるのを待っていた。


「まるで『神田川』だな」


否、違うか。

違うな。

俺マフラー持ってないし。


それにしても、普通異性とお風呂なんて行こうものなら


「もっと、キャッキャウフフなラッキーイベントが起きてもいいと思うんだよなぁ」


脱衣場でばったり、とか。

一緒にお風呂、とか。

何も損してないのに、損した気分になるから不思議だ。


だがそんな気分も、次の瞬間吹き飛んだ。


「お待たせして申し訳有りません、月杜さんっ」


「んや、別に大丈夫だ――」


よ。


後ろから掛けられた靜の声に反応して振り返ると、俺は最後まで言葉を紡ぐことが出来なかった。


「どうか致しましたか、月杜さん?」


「ふへ?」


「わたくしの顔をじっと見詰めたりして――」


キョトンとしていた靜が、不意にハッとなり慌てて


「も、もしかして髪型とか変ですかっ!? それとも何か付いて……」


自身の顔をペタペタ触り出した。


実に不審である。

しかし、今の俺にはそこら辺のことをツッコむ余裕が無かった。


風呂上がりの蒸気した顔。

湿り気を帯びた髪。

より赤く鮮やかになった唇。

髪から漂う良い匂い。


それらは普段見ることの叶わない、非日常の光景。

そんな背徳感すら漂わせる色香に、俺は柄にも無く参ってしまっていた。


「あの、月杜さん……?」


靜の顔が別の理由で上気する。

どうやら見詰められて恥ずかしくなったようだ。


「って、何が“ようだ”だよっ!!」


正気になれ、俺!


今更ながらに、己が心臓が血液を過剰供給していることに気付く。


さて、今の俺は恥ずかしさに顔を赤くしているのだろうか?

それとも青くしているのか?

肌色だったらいいなぁ。


「大丈夫ですか、月杜さんっ。顔が赤くなったり青くなったりしていますっ」


正解は赤から青でした。

アルカリ性かな。


……。………………………。


こいつはマズいな。

何とか話題を変えなければ。

そう思った俺は、指をパチンと一回鳴らした。

すると――


「え……チョウですか?」


靜が虚空を見詰めながら呟く。

彼女の視線の先には、一匹のチョウが舞っていた。


夜より暗い羽。

それでいて宝石の様に煌めく黒。

クロアゲハだ。


「チョウって夜にも飛ぶのですね」


「そーみたいだねー」


適当に相槌を打つ、俺。


「いつの間にか飛んでいたのですが、どちらから現れたのでしょう?」


「さぁー? 黒いし、見落としてたんじゃねー?」


「それにしても、とても綺麗です」


うっとりとした表情の靜。

残念ながら、今の俺には「ふっ、キミの方がもっと綺麗だよ……」なーんて云う甲斐性は無いんだよな。

故に


「湯冷めするといけないから、そろそろ帰ろう」


無難な言葉を述べるにとどまった。

とりあえず目的は達したわけだし。


この後俺は、靜の実力を改めて思い知るのだった。


「月杜さん、宜しければお夕食を食べていかれませんか?」


そのまま靜の部屋へ行くと、すぐに食事が用意された。

三分と経たずに。

緑色のタヌキさんと一緒だし。


ご飯。

御御御付け。

肉じゃが。

どれも抜群に美味しかったです。


流石は大和撫子貧乏系。



ところで……彼女はいつ煮物なんて作ったのだろうか。

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