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元婚約者の求婚を、私が通訳するそうです

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/11/05

「目が覚めたら最初に君の声が聞きたい、というのは、島の言葉でどう言ったかな」


 元婚約者にそう聞かれて、私は思わず答えた。最初の一音が口を出たところで、舌を止めた。

 よく覚えている。二年前、私に結婚を申し込んだときのあの人の台詞だ。間に妙な切れ目を入れたせいで、眠っている私の耳元で一生叫ぶという意味になってしまった。膝をついた彼と顔を見合わせて、笑いすぎて返事もできなかった。


「今度は、どなたの耳元でお叫びになるの」


 私が尋ねると、オスカルは耳を赤くした。ここまでは、十日前までと変わらない。私たちは座るとこれくらいの軽口を交わしたし、彼は私の前なら、間違いを笑うことができた。


「ミレナ嬢に、聞いていただきたいんだ。朝が来るたび思い出してもらえるような、いい言い方だったから」


 膝の上で指を握り込んだ。危うく最後まで教えてしまうところだった。

 私は港町の男爵の娘で、父の大陸語と母の島言葉の両方で育った。あの言葉には島らしい言い回しをひとつ足した。誰の声より先に、屋根を叩く雨音より先に、あなたの声を聞きたい。雨の中でもお祖母様の歌声だけは聞き分けたという、耳の遠いお祖父様にちなんだものだ。よそのお嬢さんに使い回すために教えたんじゃない。


「私があなたに教えた言葉ですよ。私に言いたいとあなたが頼むから、わざわざ私が、自分で訳したの」

「もちろん覚えているよ。あの日、結局いい返事をもらえたしね」


 覚えていて使うのか。忘れていたら、まだましだったかもしれない。

 テーブルには客用の水差しとグラスが二つあった。今日はお茶を出さないで、と私が頼んだのだ。長居をさせないためだったのに、水まで自分で注いでやりかけて、水差しをテーブルに戻した。


「ご用は、それだけでしょうか」


 オスカルが体をこちらへ傾けた。伯爵家の跡取りとして船主の相手をするようになってからは、商談のときにもする姿勢だ。私の父などは、あれをやられると帆船の一隻くらい買ってやりたくなると言った。私はもっと安上がりで、あの顔を自分の方へ向けてもらえたら、一日中機嫌がよかった。


「明日の朝、港へ来てくれないか。ミレナ嬢の船が出る前に、二人で話す時間をいただいてある。僕が言葉を忘れたり、彼女に早口で尋ね返されたりしたら、そばで助けてほしい」

「あなたの求婚を、私が通訳するの?」

「そうだ。いや、初めは僕が言うんだよ。そこは、男として僕から言わなくては」


 彼の言う男としての務めは、ずいぶん短かった。

 初めの一言を言ったら、そのあとは私だ。違うんです、この人はあなたが好きで緊張しているんです。ぶっきらぼうに聞こえても本当は優しい人なんですよ。私にはもうくれない優しさを、一番よく知る女として、他人に売り込んでほしいというのだ。


 十日前、彼はここで、自分から婚約を破棄した。

 いつからその方とのご結婚をお考えですか、と、まるでよその家の仲人のような尋ね方をした。いつから私が嫌いなの、と聞いたら、もう泣いてしまうと思ったからだ。

 彼は、島の船の競漕でミレナ嬢の舟が一番になった日からだ、と答えた。風が強いのに引き返さず、舳先で髪を押さえて笑った彼女の顔から、どうしても目が離せなかったと。


 私は、それを見た日は綺麗な夕焼けだったとさえ覚えている。港の倉庫の屋上で、二人で肘を並べて見ていた。私は彼と同じ屋根の下で暮らせる日を楽しみにしていたし、彼は私の隣で、よその女性を好きになっていたのだ。

 両家には彼から説明した。こちらから何か言い立てたら戻ってくる程度の人なら、戻ってこなくていい。そう意地を張って、私は彼の父上にも頭を下げてもらわず、指輪を返した。


「ミレナ様にご自分の言葉が通じるかどうか、十日もあればお調べになれたでしょう」

「十日、毎晩練習した。けれど相手の返事までは練習できないだろう。途中からお互いに困って笑うことになったら、君ならきっと、あの方を安心させてくれると思って」

「嫌よ」


 オスカルが黙った。そんなに早い返事は予想していなかったようだ。


「私の家に来て、よくそんなことが頼めるわ。あなたにもう一度あの言葉を言われたいと思っていた女に、新しい相手の返事まで聞かせたいの?」


 喉の奥が痛かった。彼はようやく自分で水を注ぎ、一息に半分飲んだ。


「……傷つけるつもりはなかった。君のほかに誰が、僕をあんなにうまく紹介してくれるんだ」

「紹介はなさらなくていいでしょう。ご自分がいらっしゃるのだから。それに明日の朝、私は北回りの船に乗るの。祖母の結婚式があるのよ」

「イーダさんが? ペトルさんと?」


 彼は目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。この人は二人のことを知っている。母が亡くなって間もない頃、お祖母様がひと月もうちにいてくれたときには、私なしでも二人で話そうとした。単語を三つ覚えて、ひと月で一つも残らなかったけれど、祖母の好きな椅子が窓辺にあったのは彼のおかげだ。


「よかった。島へ行くときは知らせてくれとおっしゃっていたよな。そうか、それなら、港には来るんだね」


 さっきの笑顔が好きだっただけに、その先を言った彼が憎らしかった。

 私は席を立った。彼は、ほんの少し、船に乗る前に、と言った。私は返事をせず扉を開けた。彼がグラスを置いたところに丸い水の跡が残っていた。いつも帰り際に私を抱き寄せた腕が、今日は私に触れずに通り過ぎた。


 部屋に一人になってから、自分のグラスを取って水を飲んだ。泣くのを我慢していた口に、冷たい水がおいしかった。

 なんでこんなにおいしいのよ、と腹が立った。捨てられても腹が減るし、喉が渇く。あの人に通訳なんて頼まれた午後が、私の人生に本当に一度できてしまった。そのことが悔しくて、飲み終わったグラスを抱えて、椅子の上で声を上げて泣いた。


 * * *


 母がよく歌った婚礼の歌は、だいたいこうだ。花嫁の唇はさくらんぼ、頬は熟れた桃、耳は茹でた小海老。ふざけているようだけれど、順に赤くなったところを客が歌うので、本物の花嫁はたいてい途中から全部赤くなる。

 最後の一節だけが思い出せなかった。母は歌の終わりにはもう笑っていて、私はいつも一緒に笑っていたから。


「耳の次は鼻ではないかな」

「お父様、鼻が赤くなるのはお酒を飲んだときよ」

「いや、お前のお母さんは泣くとまず鼻が赤くなったんだ。見事なものだった。私は花嫁の父上に、早くハンカチを渡せと小突かれたのを覚えている」


 父は私の旅行鞄に白いハンカチを二枚足した。父のは男物で大きいので、ドレスの袖口には収まらない。鞄の横へ畳んで入れた。


「お父様も一緒に来られればよかったのに」

「そう思う。だが南の防波堤の工事に使う石が、やっと明日入るんだ。領主が受け取りに現れなかったら、船頭に海へ投げ返されるよ。私の代わりに歌ってくれるかい」

「私が歌いたいから行くの。お父様の分は、別に頼んでちょうだい」


 父は嬉しそうに、では私の分は踊ってきてくれと頼んだ。あの家では二度も踊る羽目になるから、ちょうどいい。

 祖母がペトルさんと結婚すると書いて寄越した手紙は、鞄の内側にしまった。招待状のほかに、あの人は毎晩窓のすぐ外で口笛を吹くから近所に筒抜けだの、今さら隠すのも面倒だから一緒になろうと言ったら翌朝から玄関を正面切って叩くようになっただのと、便箋四枚分の惚気があった。


 私は、その手紙の返事をまだ出していなかった。

 届いたのは婚約がなくなる前の日だ。次の日の午後、私の結婚の方が早いと思っていたのに、とまず書いて、途中でペンを置いた。オスカルが来たと呼ばれたのだ。次の日も、もっと次の日も、続きを書くことができなかった。

 船を取ったことだけ、先に渡る船長に言づけた。振られた話は、便箋の上でさえ字にできなかった。喜んでいる人に水を差したくないから、と自分に言い訳をしていた。半分は本当で、あとの半分は、私が祖母に知ってほしくなかったのだ。


「お父様は、お母様に別の人と結婚したいと言われたら、どうなさったと思う?」


 蓋を閉じる手を止めて尋ねた。父は手伝って鞄の上に腰を下ろそうとしていたが、やめて、私の隣の寝台へ座った。


「どこのどんな男か、見に行っただろうな」

「それで?」

「母さんの目の前で、そいつを何かで負かしたかったと思う。いくらか格好のつくことを言いたいんだが、たぶん駄目だ」


 そういう父の顔を見たのは初めてだった。行儀よく別れて、幸せをお祈りしてますなんて言えなくてもよかったのだと、今さら思った。

 私は寝台へ座り直し、父に肩を借りた。父の上着には、昼間防波堤へ行ったときの潮の匂いが残っていた。


「私、まだ彼が好きなの。いっそ全部、本当は嫌な人だったと思えたらいいのに」


 私が初めて市場で通訳をした日、私の言い間違いでおじさんが酒漬けの鰊を三樽も届けに来た。オスカルは私と二人で手押し車を借り、二樽を店へ返しに行ってくれた。残りの一樽は折半で買い取り、二人の家の台所でひと月かけて食べた。

 それ以来、どこで鰊が出ても口をつぐんで、二人でこっそり卓の下で膝をぶつけた。ミレナ様にもあれをするのだろうか。あんなことまで彼女のものになるのなら、あの魚を一匹残らず海に投げ返してやりたかった。


「今日よりもっと、情けないことをしそう。明日あの人が困ったら、口が勝手に動いてしまうかもしれないわ」

「明日はお前が何をする日だったかな」


 叱られるのかと思ったら、父は歌の最後が気になって眠れそうにないから、向こうでちゃんと聞いてきてくれ、と続けた。

 海峡を渡る船は、うちの港から南北の二つの港へ、同じ潮に乗って出る。明日の北回りを逃すと、その次は三日後だ。明後日の朝の式には間に合わない。


 私には見たいものがあった。恥ずかしくてまともに目も合わせられなかった二人が、牧師さんの前でどんな顔をするだろう。祖母があの顔を真っ赤にして口づけをするところを、いちばん前で見たかった。

 好きだった人が誰と何をするか確かめるために、その顔を見損なうのは嫌だった。それだけは今夜の私にも分かった。


 * * *


 朝の港で、私は父に送り出され、一人になった。父は石を積んだ船へ向かい、私は北回りの乗り場に旅行鞄を預けた。荷札の半券をポケットに入れ、その隣に乗船札があるのを指で確かめた。

 北回りと南回りの乗り場は、石の突堤を挟んで背中合わせにある。石段の上では両方の船員の声がよく通り、北回りへ積む梨の数を南回りの船員が返事して笑われていた。南側の待合所の前には、ミレナ様がもういらした。船酔いがひどいと聞いていた侍女は、彼女に塩レモンを握らされていた。舵を握れば平気よ、とミレナ様が島言葉で励まして、侍女は、そんなことをしたら皆様が船酔いなさいますわ、と顔を青くしたまま答えた。


 私は吹き出してしまって、見つかった。ミレナ様が、苺酒の男爵様のお嬢さん、と私を呼んだ。交歓会で父が振る舞った酒を覚えていてくれたらしい。挨拶くらいはとそちらへ歩いた。


「オスカル様のお話だと、今日はあなたもご一緒だとか。大切なお話があるって。私、エルナ様にご結婚のお祝いを言う支度までして来たのよ」


 耳を疑った。

 彼女には私とあの人が結婚すると思われていた。私が同席する大切な話と聞けば、まあ、普通はそうだろう。オスカルは何をどう伝えていたのだ。


「少なくとも、私の結婚のお話ではありません。十日前に婚約はなくなりました。明日は祖母の婚礼で、これから北の港へ渡るところです。一緒の席には着かないの」

「まあ。知らないで、ごめんなさい。私ったら、なんてことを……」


 落ち込んだ年下の方に、大丈夫よと言う癖は昔からあった。けれど大丈夫ではないのだ。私は、大丈夫の代わりに、わざわざお祝いを考えてくださってありがとう、と言った。島言葉は母の声にちょっと似て出てきた。そうやってしゃべっていたかった。


 そこへオスカルがやってきた。いつもの灰色の上着に、一度も見たことのない青い飾り紐を結んでいた。誰かのために新しいものが欲しかったのがよく分かって、胸が痛んだ。


「エルナ、よかった。あの方に会えたんだね。僕たちのこと、話してくれた?」


 言葉が通じなくても身振りで親しさは伝わる。彼が私の肘に手を添えたとき、ミレナ様の目に、私が何をどう言うのかという問いが戻った。私は彼の指を外した。


「私たちが別れたことと、私はこれから船に乗ることはお話ししたわ。私からは、それだけです」

「待ってくれ。最初だけでいい。君は北回りだろう。あちらの板はまだ外れていない」

「板が外れてからでは乗れないわ。昨日のうちに港の通訳をお雇いになればよかったのに」

「待合所の主人に紹介できる人がいると言われたよ。でも見ず知らずの男が僕よりうまい言葉で求婚したら、ミレナ嬢は誰の声を覚えて帰ると思う?」


 私は目を見開いた。男の通訳が求婚の手柄をさらう心配までしておいて、私にはそばで聞いていろと言うのか。侍女の指に塩レモンの汁がにじんでいた。大陸語が聞き取れなくたって、こんな話を目の前でされて、気持ちのよい人はいない。


「女の君なら、僕を好きだった君なら、僕がどういうつもりで言っているのか、僕よりよく伝えてくれる。『いいところもあるんですよ』と笑ってくれたら、あの方も信じやすいだろう。君にしか頼めないのは、そういうことなんだ」


 これだった。自分で訳した自分宛ての求婚を、あのときはあんなに嬉しく受けたのはなぜだろう。

 初めて聞く言葉を覚えようと、あの人が夜中に何度も舌を噛んだのを、私は知っていた。笑われてももう一度言い直してくれた。好きだと言いたい相手が私だったからだ。その好きの行き先まで取り違えてやるほど、私は優しくなんかなかった。


「惚れた女のために努力するあなたが好きだったわ。そうよ、私は知ってる。二樽の鰊を、一緒に坂道を押してくれたことも。だから私があなたを褒めたら、たぶんとても上手よ。あの方を泣かせられるくらいには」


 彼の顔がほころびかけた。まだ私が、いい方へ言い添えてくれると思っている。


「そんなに人を愛せるくせに、どうして私のときはやめてしまえたのよ」


 口に出した瞬間、自分の喉が裂けたかと思った。彼は肩をすくめ、次に何を言ったらよいか分からない顔で私を見た。私は涙を拭かなかった。


「あなたがそうした理由を、私の方でうまく言い直してあげたりしない。私がどんなにあなたを好きだったかも、もう、あなたが次の人を口説くためには使わせない」

「エルナ。僕は、君まで失いたくないんだ。昔のように、何でも話せる仲ではいられないのか」

「私はあなたの奥さんになりたかった。ならなくなって十日で、あなたの恋を応援する友達になんて、なれるわけがないでしょう!」


 侍女が立ち上がった。ミレナ様がそっと彼女を制した。二人には、言葉が分からなくても、私が怒っているのは分かったはずだ。私は二人の方を向いて島言葉で話した。


「声を荒らして失礼しました。私はもう出発します。お二人のお話には加わりません。……塩レモンは、皮を爪ですこし切ると香りが立ちますよ」


 最後のひと言は、真っ青な侍女のために私が言いたかった。侍女は爪で小さく皮を押して、それからほんの少し笑った。ミレナ様も私に、お気をつけて、と答えた。私の言葉を使うことが、今もちゃんと嬉しかった。


 北の桟橋へ引き返すと、最後の乗客がもう板に足をかけていた。半券と引き換えに鞄を受け取り、乗船札を船員に渡した。彼が鞄を担ぎ上げるのと同時に、後ろから腕をつかまれた。オスカルだった。


「五分でいい。五分しかいらない。どうしてもと言うなら僕も君の船まで走る。間に合わせるから」


 悔しいことに、つかまれた腕があたたかくて、ここで彼に抱き寄せられたら、目を閉じてしまいそうだった。二年、私はこの腕の中へ帰っていたのだ。帰りたかったのだと、まだその力だけで分かってしまう。

 板の上で、鞄を担いだ船員が振り向いた。どうなさいます、奥へ運んでよろしいか、と尋ねられた。


「運んでください。私も乗ります」


 私がうなずくと、彼は鞄を船へ持って上がった。

 オスカルの指を、私は自分の手で外した。


「たとえ間に合っても、行かない。あなたが何を言って、あの方がどう答えるか、一言だって私の口を通さないわ。私は、お祖母様があの人に何て言うのか聞きたいの。そのために、この船に乗るのよ」


 板を渡った。桟橋に残ったオスカルが、私の後ろへ手を伸ばした。伸ばした手が空をつかんだ。彼は長いことそうしていて、やがてかぶっていた帽子を取った。挨拶をするわけでもなく、つばの端を両手で握っていた。

 船員が渡し板に手をかけた。木の甲板が足の下で小さく鳴った。


 南側の待合所へ、ミレナ様が戻っていく。オスカルは帽子を握ってそちらへ駆け、突堤の石段で立ち止まった。振り向いた彼と目が合った。

 私たちの間で、たった今渡った板が船員の手で引き上げられた。さっき彼に頼まれた五分は、もう二人で取り戻せない。私は甲板の縁に両手を置いたまま動かなかった。彼も、今度は私の名を呼ばなかった。


 ミレナ様の前に立った彼は、帽子を胸に当てた。よく通る声で島言葉の挨拶をした。十日練習しただけあって、綺麗な発音だった。

 何人かが道を譲り、南の桟橋の入口に二人だけの隙間ができた。私の耳のすぐそばでは、魚屋が、氷の箱を寝かせるな、中身が駄目になる、と船員に向かって怒鳴っていた。私は、オスカルに駆け寄りそうになった足を、その箱の端を起こすために動かした。船員が反対側を持ち上げて、魚屋はやっと怒鳴るのをやめた。


 顔を上げたとき、オスカルはミレナ様に小箱を差し出していた。朝が来るたび云々ではなかった。島言葉で、ミレナ、私の妻になってください、と言った。小細工をしなければ、ちゃんと届く声だった。ミレナ様は胸に手を置き、首を横に振った。

 彼女は返事を二度言った。最初は島言葉で、私は港に知り合いができたのが嬉しかった、夫を探しに来たのではない、と。次は言葉を選び、彼にも分かる大陸語で言った。


「私、あなたと、結婚しません」


 彼がこちらを見た。昔なら、その沈黙に耐えられず、私は何か言い添えただろう。今、彼が聞いたのがミレナ様の返事の全部だった。

 オスカルはしばらく小箱を差し出したまま立っていた。ミレナ様が手を引くと、ようやくそれを自分の上着にしまった。それから、ありがとう、と島言葉で言った。そのひと言のあと、唇をきつく結んで頭を下げた。


 船が少し揺れた。私は急いで鼻をすすった。負けたところを見てすかっとするつもりだったのに、彼が一人でお断りを聞く顔がつらくて、それもまた腹立たしかった。

 でも、戻りたいとは思わなかった。ミレナ様がわざわざ二度言った、あの短い返事を、私は好きだった。あの方にだって、私のよくできた通訳など、今朝はいらなかったのだ。


 舫い綱が上がり、北回りの船が岸を離れた。南の船からは、よい風を、と太い声が飛んできた。私は頬を打つ風に向かって、大きく息を吸い込んだ。

 決して取り戻したくない朝だ。でも、この船から眺める港がこんなに綺麗だということは、たぶん忘れない。腹を立てた魚屋が、波止場で自分と同じくらい真っ赤な鯛を掲げて、私たちを見送ってくれた。


 * * *


 島では、花嫁が家の前で腕組みをして待っていた。

 私が門を押すなり、遅かったじゃないの、と言った。北回りはこれ一本しかありませんと答えると、船のことじゃないわよ、手紙、と言い返された。


「泊まる日数くらい知らせてちょうだい。リンネルは何枚だってあるのに、あんたの好きな梨だけは私一人で食べ切ってしまったわ」

「三日泊まります。……それとね、お祖母様。私はオスカルとは結婚しなくなりました」


 返事が遅れた言い訳は、とうとうひとつもしなかった。祖母は片眉を上げた。あんた寝てるの、と聞いた。私はあまり寝てないと正直に答えた。そうしたらぎゅっと抱き締めてくれた。私の祖母の腕は、亡くなった母の二倍くらい強かった。


「あらまあ。私ったら、あの人がどこで口笛を吹いたのなんのと、四枚も書いて寄越して」

「その続きを聞きに来たのよ。本人の顔を見ながら聞く方が面白いもの」


 祖母の肩が跳ねた。照れている顔を隠したいのか、玄関の内側へ私ごと引っ張り込んだ。

 奥からペトルさんが焼いた麦餅の匂いがした。彼の餅はいつも祖母の倍の大きさである。切ればいいのよ、と言う祖母に、それじゃあ二倍焼いた甲斐がないだろうと答えている。私は久しぶりにお腹から笑って、お腹が鳴った。寝ていないけれど、食べられる。そのことが今日は嬉しかった。


 翌朝、小さな礼拝堂へ入ると、いつも祖母が座る席に父の古い友達や親戚が詰めていた。私は一番前へ行った。いちばんに見たい顔があるから、と頼んだら、みんながちょっとずつずれて、私一人の場所を作ってくれた。

 花嫁は私の母の髪飾りを借りていた。母の髪では白く見えた小さな真珠が、祖母の銀髪ではあたたかい飴色に見えて、私は父のハンカチを握った。二枚とも持ってきてよかった。


「イーダ。俺は、夜にあんたんちの窓の下で、また明日の朝まで会えんのかと考えるのに、すっかり飽きてしまったよ」


 花婿は牧師さんに向かって言い始めてしまい、途中で自分で気がついて祖母に向き直った。


「もう、一緒にうちへ帰ってくれるか」


 祖母が真っ赤になった。頬も耳も、鼻のてっぺんまで。

 私は前の晩、祖母に断られたのだ。歌詞を教えたら、明日あんたが私より先に歌ってしまう。最後は私に取っておいて、と。


「帰るとも。夜だけだと思わないでおくれ。私、あんたと昼寝もしたいんだから」


 それは私の母なら言わない言葉で、私も知らない祖母の声だった。ペトルさんが目をまん丸にした。口づけの前に、いいのか、おまえさんみんなの前で、と小声で聞いたのが、一番前の私にだけ聞こえた。いいわよ、と祖母の方から彼の首に両腕を回した。


 私はハンカチを顔に押し当てた。涙はもう止めようもないけれど、今は、私の代わりに一番に歌う人はいない。

 牧師さんが笑って頷いたので、立ち上がった。花嫁の唇はさくらんぼ、と歌い出すと、後ろの席から伯母の低い声が続いた。頬は熟れた桃、耳は茹でた小海老。みんなが足で床を鳴らしたところで、祖母が待ちかねたように割って入った。


「鼻は、花婿の鼻にぶつかった!」


 赤いものでも何でもなかった。顔を寄せたペトルさんが本当に鼻をぶつけたので、花嫁がけらけらと笑った。決まった歌詞なんてなかったのだ。母が途中で歌えなくなったときも、あの人の鼻に父の鼻がぶつかったことを思い出していたのかもしれない。

 父になんて教えよう。考えているうちにペトルさんが私にも手を差し出して、三人で輪になった。細かいことはいいわよ、踊るの、と祖母が言った。今日はその言葉くらいなら誰のためにでも訳してやれそうだったけれど、誰も私に何も尋ねなかった。みんながもう踊っていたからだ。


 私は祖母を自分の方へ一度引き寄せ、大好きよ、と、奥の席まで聞こえるくらい大きな声で伝えた。祖母も同じくらい大きな声で、知ってるわよと答えた。知っていても言いたい。今日この人に会いたかったのは私だ。私はもう一度、大好きよと歌にして、お祖母様の手を取ってひと回りした。

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