『嫉妬は心が狭いのでしょう? では、私ももう嫉妬いたしません』
婚約者ルシアンに幼馴染のソフィアばかりを優先され、嫉妬深いと責められてきたアデライード。
しかし彼女はもう嫉妬することをやめ、自らの才能を磨き、隣国との交易交渉で輝かしい功績を上げる。
その活躍を認めた隣国の第二王子セドリックは、彼女の聡明さと気高さに惹かれていく。
やがてアデライードはルシアンとの婚約を解消し、自分を心から尊重してくれるセドリックの求婚を受け入れる。
一方、彼女を失って初めて自分の愚かさに気づいたルシアンは、後悔しても取り返しのつかない現実に直面するのだった。
「すまない、アデライード。今夜の晩餐会には行けなくなった」
侯爵家の応接間で、婚約者のルシアン・ド・モンフォール侯爵令息は、悪びれもせずにそう告げた。
アデライード・ベルナール伯爵令嬢は、手にしていた招待状を静かに置いた。
「……また、ソフィア様ですか?」
「仕方ないだろう。ソフィアは最近、心細い思いをしているんだ。俺がそばにいてやらなければ」
ソフィア・リヴィエール男爵令嬢。
ルシアンの幼馴染であり、彼が何よりも優先する女性だった。
彼女が寂しいと言えば、ルシアンは駆けつける。
彼女が欲しいと言えば、贈り物をする。
彼女がアデライードとの予定を知って涙ぐめば、ルシアンは決まって婚約者との約束を取り消した。
今日で、五度目だった。
「ルシアン様。今夜の晩餐会は、わたくしの父が主催するものです。両家の婚約を正式にお披露目する、大切な席だったはずですが」
「だから何だ?」
彼は眉をひそめた。
「俺たちの婚約は変わらない。たかが一晩、俺がいなくても問題ないだろう?」
「……では、わたくしが寂しいと申し上げたら?」
ほんの少しだけ、期待してしまった。
彼が一度でも、自分の気持ちを考えてくれるのではないかと。
しかし。
「ははっ!」
ルシアンは楽しそうに笑った。
「お前、まだそんなことを言うのか。幼馴染に嫉妬するなんて、心が狭いぞ、アデライード」
「……心が狭い」
「ああ。俺の婚約者なら、もっと堂々としていろ。ソフィアは俺にとって妹のようなものだ。お前が気にすることじゃない」
妹。
その言葉を聞くのも、もう何度目だろう。
アデライードは、ふと気づいた。
彼はいつだって、自分が傷ついたと訴えると笑った。
けれど、ソフィアが傷ついたと言えば、何を差し置いても駆けつけた。
彼にとって、自分の悲しみは些細なものだったのだ。
それどころか。
自分が嫉妬している姿を見て、彼は満足していた。
――この人は、わたくしが自分を好きでいることを確認したいだけなのね。
胸の奥で、何かが静かに途切れた。
悲しいはずなのに、不思議と涙は出なかった。
「……承知いたしました」
「そうだ。それでいい」
ルシアンは満足そうに頷き、立ち上がった。
「では、行ってくる。機嫌を直せよ」
扉が閉まる。
アデライードはしばらくその場に座っていた。
そして、テーブルの上の招待状を手に取ると、そっと微笑んだ。
「ええ。もう、機嫌を損ねることもございませんわ」
翌朝。
アデライードは父の書斎を訪れた。
「お父様。モンフォール侯爵家との婚約を、解消したいのです」
父は驚かなかった。
ただ、深いため息をついた。
「……ようやく決心したか」
「ご存じだったのですか?」
「娘の顔色が悪くなっていくのを、父親が見逃すと思うか?」
父は机の引き出しから、一通の書類を取り出した。
「実は、モンフォール侯爵家には以前から懸念がある。ルシアン殿は、君との婚約を背景に、我が家が支援する事業の利益を当然のように求めてきた」
「そんなことまで……」
「君が彼を信じているうちは、余計な口出しをすまいと思っていた。だが、もうよい」
ーー父は娘の手を取った。
「お前は誰かの機嫌を取るために生まれてきたのではないよ」
その言葉に、アデライードは初めて泣いた。
自分の悲しみを、悲しみとして受け止めてもらえたから。
「ありがとうございます、お父様」
「婚約解消の申し入れは、正式な手続きを踏んで行う。お前はしばらく好きなことをしなさい」
好きなこと。
そう言われて、アデライードは思い出した。
幼いころから学んできた外国語。
各国の商取引に関する知識。
父の仕事を手伝うために身につけた、交渉術。
本当は、もっと学びたかった。
もっと、自分の力を試してみたかった。
けれどルシアンは、いつも言っていた。
『女が難しい商談に口を出す必要はない』
『そんな時間があるなら、婚約者の俺を立てろ』
アデライードは窓の外を見た。
「……わたくし、王立交易院の仕事を手伝ってみたいです」
父は満足そうに笑った。
「いいとも。お前なら、きっと面白い仕事ができる」
その日、アデライードは初めて、自分自身のために予定を立てた。
そして三週間後。
彼女の人生は、思いもよらない方向へ動き始めることになる。
王立交易院の会議室。
隣国との貿易交渉が難航する中、誰も解決できなかった契約書の一文を、アデライードは見事に読み解いた。
「この条項は、翻訳の誤りではありません。相手国の古い商法に基づく表現です。こちらの解釈のまま契約すれば、関税の負担がすべて我が国に偏ります」
室内が静まり返った。
「……では、どうすれば?」
「原文の意味を踏まえ、こちらの負担範囲を明記した修正案を提出すべきです。先方にも不利益が出ない形にできます」
一時間後。
交渉は、見事にまとまった。
「素晴らしい!」
交易院長が立ち上がった。
「ベルナール伯爵令嬢。ぜひ、今後も我々に協力していただきたい!」
拍手が起こる。
その輪の中に、一人の青年がいた。
深い藍色の髪に、澄んだ金色の瞳。
隣国エルディア王国の第二王子、セドリック・エルディア殿下だった。
彼はアデライードに歩み寄り、優雅に一礼した。
「お会いできて光栄です、ベルナール嬢。あなたのような方と仕事ができるとは、思ってもいませんでした」
「恐れ入ります、殿下」
「いえ。あなたの知識だけではありません。先ほど、相手国の使節が自国の誤りを指摘された際、恥をかかせないように言葉を選ばれたでしょう」
セドリックは微笑んだ。
「優れた知性と、他者への敬意。その両方をお持ちなのですね」
アデライードは、一瞬だけ言葉を失った。
自分の努力を。
自分の心遣いを。
誰かが、きちんと見ていてくれた。
「……ありがとうございます、殿下」
その笑顔は、ルシアンの前で見せていたものとは違っていた。
心からの、晴れやかな笑顔だった。
そして、その頃。
モンフォール侯爵家では、ルシアンが苛立っていた。
「アデライードは、なぜ手紙を寄越さないんだ?」
婚約者から届くはずの手紙は、もう三週間も届いていなかった。
以前なら、一日たりとも欠かさず便りがあったのに。
「まあ、よろしいではありませんか。最近のアデライード様は、ずいぶんお忙しいようですわよ」
ソフィアが紅茶を飲みながら言った。
「王立交易院に通っていらっしゃるとか。ご令嬢が商談なんて、少し変わっていますわね」
「……あいつが?」
ルシアンの胸に、初めて小さな不安が生まれた。
「でも、きっとすぐ飽きますわ。だって、アデライード様にはあなたしかいないのですもの」
ソフィアは微笑んだ。
「そうでしょう?」
ルシアンは答えられなかった。
なぜなら、彼もまた、そう信じていたからだ。
アデライードは自分を愛している。
自分が呼べば、いつでも振り向く。
自分が謝れば、いつでも許す。
そうでなければ、困る。
――彼女が本当に、自分を必要としなくなっていたら?
その考えが浮かんだ瞬間、ルシアンは勢いよく立ち上がった。
「明日、ベルナール伯爵家へ行く」
「えっ?」
「アデライードと話をする」
しかし翌日。
ベルナール伯爵家の門前で、ルシアンは思いもよらない光景を目にすることになる。
アデライードが、隣国の第二王子セドリックと並んで馬車から降りてきたのだ。
二人は何かを話しながら、楽しそうに笑っていた。
その笑顔を見た瞬間。
ルシアンは初めて、自分が失ったものの大きさを知った。
「……アデライード?」
彼女が振り向く。
そこにあったのは、礼儀正しい微笑みだけだった。
かつて自分だけに向けられていた、愛情に満ちた眼差しは、もうどこにもなかった。
「ごきげんよう、ルシアン様」
「お前……どうして、その男と?」
セドリックの眉が、わずかに動いた。
しかし、アデライードは穏やかに答えた。
「こちらはエルディア王国の第二王子、セドリック殿下です。交易に関する会議をご一緒しておりました」
「そんなことを聞いているんじゃない!」
ルシアンの声が荒くなる。
「なぜ、俺に何も言わなかった!」
アデライードは不思議そうに首を傾げた。
「……何を、でしょう?」
「王立交易院の仕事だ! 俺は何も聞いていない!」
「お話しする必要がございましたか?」
「婚約者だろう!」
その言葉に、アデライードは初めて、ほんの少しだけ目を細めた。
「そうでしたわね」
静かな声だった。
「ですが、ルシアン様。わたくしが何かを学びたいと申し上げたとき、あなたは何とおっしゃいましたか?」
ルシアンの顔が強張る。
「女が難しい商談に口を出す必要はない。婚約者の俺を立てろ、と。そうおっしゃいましたわね」
「それは……」
「ですから、もうお邪魔をしないことにしたのです」
アデライードは微笑んだ。
「ご安心くださいませ。わたくし、もう嫉妬もいたしませんし、あなたのお時間を奪うつもりもございません」
そして、最後に一言。
「何しろ、嫉妬は心が狭いそうですから」
ルシアンの顔から、血の気が引いた。
「アデライード、俺は……」
「申し訳ありません。これから殿下と、交易院へ戻らなければなりませんの」
彼女はセドリックに向き直った。
「参りましょう、殿下」
「ええ、喜んで」
セドリックはルシアンに一瞥をくれると、アデライードに手を差し伸べた。
彼女は迷わず、その手を取った。
二人が去っていく。
ルシアンは、その場に立ち尽くした。
追いかけることも、呼び止めることもできなかった。
なぜなら、初めて理解したからだ。
自分はずっと、アデライードが自分を愛していることに甘えていた。
彼女が悲しんでも、寂しがっても、最後には自分のもとへ戻ってくると信じていた。
けれど。
彼女が自分を必要としなくなった今、何を言えばいいのか、何一つわからなかった。
そして数日後。
ルシアンのもとに、ベルナール伯爵家から正式な書状が届く。
婚約解消の申し入れだった。
添えられた理由は、約束の度重なる不履行、婚約者への侮辱、そして将来の伴侶としての信頼関係の破綻。
侯爵家がどれほど抗議しても、ベルナール伯爵家の意思は揺るがなかった。
さらに、交易院でのアデライードの活躍が社交界に広まるにつれ、ルシアンの評判は目に見えて悪くなっていった。
「ベルナール嬢ほどの才女を、あのように扱っていたのか」
「幼馴染を優先するにしても、婚約者への礼儀というものがあるだろう」
「しかも、彼女が活躍し始めた途端に慌てているらしい」
誰もが、彼の振る舞いを疑問視した。
一方、アデライードはもう、振り返らなかった。
彼女には新しい仕事があり、新しい出会いがあり、自分を尊重してくれる人々がいた。
そして、セドリックは会議のたびに彼女の隣に立ち、彼女の意見を求めた。
ある日の帰り道。
セドリックが、少し緊張した様子で口を開いた。
「アデライード嬢。ひとつ、お願いがあるのですが」
「何でしょう、殿下?」
「次の休日、私と二人で庭園を歩いていただけませんか」
彼女は目を丸くした。
「お仕事のお話でしょうか?」
「いいえ」
セドリックは、真剣な眼差しで彼女を見つめた。
「あなたと、もっと個人的なお話がしたいのです」
アデライードの頬が、ほんのりと赤くなる。
「……喜んで」
セドリックは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。では、ひとつだけ約束してください」
「約束、ですか?」
「寂しいときは、寂しいと言ってください。悲しいときは、悲しいと。あなたが我慢することで成り立つ関係には、したくありませんから」
アデライードは、思わず彼を見上げた。
ずっと欲しかった言葉だった。
嫉妬することを責められるのではなく。
寂しさを笑われるのでもなく。
自分の気持ちを、そのまま受け止めてもらえること。
「……セドリック殿下」
「はい」
「わたくし、実は少し嫉妬深いのです」
セドリックは一瞬考え、それから真面目な顔で頷いた。
「では、私があなたを不安にさせないよう、努力いたします」
「……それだけですの?」
「ええ。それに、あなたが嫉妬してくださるほど私を大切に思ってくださるなら、嬉しくないはずがありません」
アデライードは、とうとう笑い出した。
もう、嫉妬する自分を恥じる必要はない。
誰かを好きになることは、弱さではない。
ただ、その気持ちを大切にしてくれる人を選べばいいのだ。
彼女は差し出された手を取り、春の庭園へと歩き出した。
その頃、ルシアンは自室で、かつてアデライードから届いた手紙を読み返していた。
何度も読み飛ばした、何気ない日常の報告。
自分を気遣う言葉。
一緒に過ごす未来を楽しみにしているという一文。
最後の手紙には、こう書かれていた。
『次にお会いできる日を、楽しみにしております』
ルシアンは、その文字を指でなぞった。
あの頃の彼女は、本当に自分に会える日を楽しみにしていたのだ。
それなのに、自分は。
「……アデライード」
返事をする者は、もう誰もいなかった。
彼女が自分を愛していた時間は、確かに存在した。
けれど、その愛情が永遠に続く保証など、どこにもなかったのだ。
嫉妬は心が狭い。
かつて彼女にそう告げた男は、ようやく知った。
人の心を狭くしていたのは、嫉妬ではない。
自分の愛情だけを当然のものとして、相手の気持ちを見ようとしなかった、その傲慢さだったのだ。
そしてアデライードは、二度と彼のために涙を流すことはなかった。
――おしまい――




