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イフ記  作者: 泉海
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第3話

 目の前で人が死んでいく。僕の目の前で、いつも誰かが倒れていく。手を伸ばせば届きそうな距離。僕の左手が、相手と手を結ぶ距離。その手を繋ぎ止める距離。

 それが、不意に崩れ落ちていく。命が身体を置き去っていく。気付けば、繋いだ手が脱け殻を握っている。…誰も握り返してはくれない。

 冷たい掌。冷たい世界。夜の帳の中で北風に襲われ、悴む指先が温もりを求めている。白い吐息を吐きながら、人気のない月明かりの道に佇んで。

 ああ。誰かが倒れている。目の前に、誰かの死体が転がっている。僕はそれを知らないんだ。それが誰なのか知らない。それが、何者か知らない。何なのか、知らない。

 僅かな温もりが頬を伝う。乾いた心を潤していく。そして、失った痛みが僕を責め立てている。みんなが僕を責め立てる。…いや、それは嘘なんだ。そんなのは理想の作り話なんだ。何故なら、僕は一人だから。僕は常に独りだから。誰の目にも留まらない。誰の目にも映らない。

 目の前で誰かが死んでいる。その瞳は、僕を見ていてくれるのか。僕がここに居ると分かってくれるだろうか。


    1


 夢を、見ていた気がする。何を見ていたかは覚えていない。ただ、そんな覚えがある。

 相変わらずの朝がやってきた。いつもと変わらない朝さ。昨日より少し寒いぐらいで、真新しいものはない。毎日のルーティンでリビングに向かおうとするが、途中ランドセルが目に入り、今日は少し進めようと思った。僕は勉強道具を取り出して手に抱え、そして、炬燵へと直行する。

 先客がいた。父さんが炬燵で寝ていたのだ。足を横断させ、大きくな図体で転がっていた。寝汗をかきながら寝返りがうてずもがいている。炬燵の高さに腰骨が引っ掛かって。

 僕は中の足をどけて、あぐらをかいて座った。上半身は肌寒かったが、机にテキストと筆記用具を広げ、手をつけ始めた。おそらく今日は、つまらない一日になるだろう。何事もない一日に。

 昨日のことを思い返す。家に帰ってからの記憶だ。僕は父さんと彼女の話をしていた。最初は確か、外で会ったことを説明した。そして怜奈さんが昔に父さんに世話になったと言っていたこと、連絡先を貰ったことを話した。

「これがあれば連絡がとれるの?」

 握っていた紙を手渡して、父さんに確認した。父さんはパソコンを操作し、メールの画面を映しながら説明した。

「ここに宛先を打つ欄があるから、そのアドレスをここに打ち込む。それで下のここに伝えることを書く。書き終わったら最後にここを押して、送信されるから」

 説明はこんな感じだった。こことか、そことか、指事語が多かった。聞いてもよく分からないから、試しに送ってみようと促した。父さんはまあそのうちと答えた。僕は自分の機械を持っていないので、父さんがその気になるまで連絡がとれないことになる。その為、父さんをやる気にさせるためにあれこれと考える必要ができたのだ。昨日の夜はそのことばかり考えて寝つきが悪かった。

 その後は、彼女の仕事について訊いたと思う。霊媒師っていうのが何をするのか。彼女が何をしているのか。そもそも幽霊なんかがいるのか。そんな所から話し出した。

 父さんは幽霊を信じているようだった。霊感は強くないけれど、何度か見かけたことがあるらしい。幽霊っていうのは基本的に移動しないで、個々の死んだ場所に留まっているという。霊感が強い人なら、幽霊が見えるだけじゃなくて、乗り移ることが可能とか何とか。僕も幽霊を見てみたいと思ったけど、怖いのなら嫌だなと考え直した。

 その霊媒師というのは、幽霊を祓うらしい。どうして祓う必要があるのか訊いたら、超自然的な現象を起こして、生きている人に悪影響を及ぼすこともあるからだという。あとは宗教的な人助けが名目とか何とか。難しい話は聞いても分からないし、覚えられないものだ。

 怜奈さんは、本当に霊感が強いらしい。幽霊を自分に乗り移らせてから、心の中で念仏を唱えて、救ってやってるのだそう。厄介な霊は人や物に乗り移って、暴れたり、復讐したりと。父さんはそういった被害を抑えるのに彼女を手伝うことがあったという。本当かどうかは知らない。でも、自分からそう言った。

 というのが夕方までの話。話していたら唐突にインターホンの音がして、父さんが立ち上がって玄関に向かっていった。

「はい」

 返事をして玄関を開けようとした。扉に手を掛ける前に相手の声が聞こえて、

「よお、テクト。久しぶりだな」

 父さんは固まってしまった。扉の前で棒立ちしてて、放心状態のようだった。僕は心配して玄関に駆け寄って、父さんに呼び掛けた。

「父さん、父さん、大丈夫?」

「…ああ」

 何度目かの呼びかけに応答し、ドアを開ける。そこには公園で会った黒服の青年が居た。歳は多分怜奈さんと同じくらいだろう。二十才ちょっと過ぎ。あの時と同じ格好で、首もとをさらけ出すように意味のないマフラーをしている。きっとお洒落なのだろう。そんな彼の姿を見て、父さんはまた放心してしまった。男は外に立たされたままでいるのに困って、首を傾けて後頭部を掻き出した。

「なあテクト、大丈夫か?ちゃんと寝てるのか?」

 父さんの様子に心配し出したよう。そりゃ何もしてないのに、ボーっとされたら心配になるだろう。

「何で…あ、いや、久しぶりだな」

「おう」

 何で、と呟く小声が冒頭に聞こえた。おそらく相手にも聞こえていた。でもあえてスルーしたようだった。

「本当に、久しぶりだな。ああ、上がってくれ」

 父さんの後に付いて男が部屋へと入っていく。怜奈さんのようにおどおどした様子はない。我が物顔で歩いている。

 炬燵に向かい合って座る。長方形の、辺が長い方だ。僕は後から部屋に入って、横側の狭い方へ座った。続いてインターホンに反応した母さんも部屋に入ってきて、お客さんにお茶を出して、それから空いた場所に座った。家族総出動に、お客さんは少し困った顔をした。面識がほとんどないのだから、無理もない話。彼女もきっと同じ気持ちだったのだろう。

「ベイス、何年ぶりだ」

 変な名前で呼ばれた彼は、ポーカーフェイスで答える。

「二十年ぶり、なんだっけか。確か」

「ああ、それくらいだ」

 男の声。姿といい発音といい、ばりばりの日本人を思わせる。何でそんな、変な名前なのか。ベイス、米酢? 疑問が頭から離れない。それに何故父さんがテクトというあだ名なのか。こっちは前者に比べると別にどうでもいい。とにかく米酢さんの違和感が離れなくて。困ったものだ。笑ったら失礼じゃないか。

「あれ以来か。俺達が会うのは」

「そうだな」

 米酢(仮)さんは素っ気なく答える。一方の父さんは、重々しく話を切り出しているようだった。共通の話の筈なのに、これじゃあまるで、被害者と加害者みたいで。

「いつからこっちに来たんだ?」

「数日前に来たばっかだよ。まだ慣れねぇな。ここの街並みには」

「そうか」

「そうだ。なあ、テクト。今は昭和か? それとも平成なのか?」

 え!

 僕も母さんも、その爆弾のような発言にハッと息を飲んだ。そりゃ、だって、日本に住んでいて元号を知らないなんてありえない話だ。たとえ久しぶりに海外から帰ってきたのだとしても、日本語を使っているような人が元号を把握していないわけがない。この人は、一体どんな生き方をしているのだろうか。

「…今は、平成だ。平成八年、一九九六年だ」

「そうか。まだ二十世紀なんだな。ああ、バブルは終わっちまったか」

 少し寂しそうにする。机の脇の方にある携帯電話を見て、現状を理解しようとする様子を見せる。

「なあ、アイル。俺は…、俺は、ずっと…」

 父さんが重々しく口を開ける。呼び名が米酢からアイルに代わったのが驚きだった。もしかしたら米酢が苗字で、ハーフだったりするのかもしれない。だったら元号を知らなくても頷ける道理があることにはある、かもしれない。

 いや、米酢って何だよ。そんな苗字あるかよ。

 ふざけてるのか、と言えない空気に居た。父さんのあの重苦しい顔の前では、どっちらかが場違いになるだけだ。

「俺は…ずっとお前に、謝りたかった」

 家族の目の前で、一家の大黒柱がついに涙目を浮かべ出す。父さんは誓って素面だ。煙草もお酒も縁のない人だ。もしかしたら本当に疲れているのかもしれないという考えが、一瞬だけ頭によぎった。でもこの様子を説明するには充分ではないと僕にも分かるから、きっと長年溜め込んでいた思いが溢れているんだと思った。僕の知らない父さんの一面が、今目の前で繰り広げられているのだと。

 そうじゃなかったら、何だっていうのか。でも、どうしてこんなにも悲しそうなのか。

「あの時のことを。俺は、お前のことを解ったつもりでいて…それだけだった。ずっとお前のことを見ていなかったんだ」

「おいおい。…止せよテクト。お前が謝ることじゃない。俺達は、まだ青すぎたんだ。…それだけのことじゃないか」

「いや、謝らせてくれ。こっちに来てやっと解ったんだ。お前がみんな正しかったって。俺はただ、理想を撒き散らしてただけだったって」

「俺の前で正しさとか善悪の話をするなよ。気持ち悪い」

 父さんがより泣き出しそうな顔になる。泣いていないかと言えば嘘になるが、目に涙を溜めている。対して米酢さんは、綻んできているものの、比較的涼しげな顔だった。

「聞け。俺はお前の謝罪なんか要らない。そんなもん貰って何しようってんだ」

 かつての友人だというのに、この人は突き放した言い方をする。父さんの間には、距離感の認識に差があるんじゃないかと。ただ、もともとの性格上、こういう人なんだろうとは思う。それは僕が空想の彼と話した経験から察するものだけど。僕は彼を重ねているだけだ。勝手に自分の視野に落とし込んでいるだけだ。それで、理解したつもりになって、おしまい。

「ただまぁ、お前が案外元気そうで良かったよ。しょぼくれてる顔なんか見てても仕方ないしな」

 向こうは話を切り上げようとしているようだ。ありがたいことだ。話題を変えてくれないと、聞いてるこっちも空気がしんどいから。

 おそらく僕は、父さんの哀しそうな顔を見るのは初めてかもしれない。過去について聞くこともあまりなかったし。だからか、無性に気まずくてしょうがない。慣れてないのもは、どうもね。

「お互い積もる話もあるだろう。色々あったからなぁ」

「…そうだな。色々あった。嬉しいことも、辛いことも。おかげでこんなにも老けちまった」

 苦笑い。懐かしんでいるのかもしれない。歳をとると、みんなきっとこうなるのだろう。思い出というものがどれ程の価値を持つのか、この時の僕にははかり知れるものではなかった。僕もまだ、若い少年にすぎない。顧みるものなんて持ち合わせていなかった。

「それで、夕飯はもう食ったのか? 良かったら家でどうだ」

「いや、いいよ。最近生活リズムが狂っちまって、自分でも腹減ってるのか判断出来ねんだ」

「何だ。ちゃんと寝てないのはお前じゃないか」

「…根に持ってるのか? さっきの」

「別に、そんなことないさ。それで、どうなんだ」

「何が」

「寝てるのか」

「さあ、分からねぇ」

「…相変わらずひねくれてるな。安心したよ」

「…うっせぇ」

 そっぽを向く米酢さん。父さんも、無理やり元気を取り戻そうとしているようだった。きっともともとは、こういう関係だったのだろう。

「お前が食わなくても、家の連中は今から晩ごはんの時間なんだ」

「ああ、待ってるよ。隣の部屋借りていいか?」

「おう」

 一人隣の和室に向かって、勝手に入る。父さんは、気にする様子はない。母さんは少したじろいでたけど、接し方に困って口を閉ざした。そして今から、夕飯を作り出す。午後の六時頃だった。夕飯には早く感じたけど、世間一般では何時に食べているか分からないので、どうこう言うようなことはなかった。

 十数分して、料理が出来る。今日のおかずは生姜焼。それと漬物と味噌汁が出る。いつものように二人で並べ、後から母さんが座る。

「いただきます」

 三人がおかずをつまみ出す。こういうのは大体、主菜にまず向くものだ。一口目に野菜を取る人が、世界にはどれくらいいるだろう。

「それでお父さん。あの人は何なの?」

母さんが切り出す。

「何なのって?」

父さんが言葉を返す。抽象的な質問に答えかねるようだった。

「いや…何というか、何者なの、彼」

「友人だよ。いや、兄弟みたいなものかな」

「兄弟って…」

 あなた一人っ子でしょ、と突っ込みたそうな母さん。突然現れた知り合いの人に、父さんがここまで慣れ親しくしているのが不気味なよう。

「何があったか知らないけど、大丈夫なの?もしかして、弱みでも握られてる?」

 未だに心配そうな母さん。今日一日、家族が心配したのは何度目だろう。今日の父さんは、いつもと変だ。覇気がないというか、あたふたしているというか。久しぶりに会うと、こんな感じになるのだろうか。まるで生き別れた幼馴染に会ったみたいに。僕は経験したことないけれど。

「弱みか。まあ、後ろめたさはある」

「それってさっきのこと?」

 横から口を挟む。涙目の父さんなんて、初めてだったから。

「ああ、そうだ。悔やんでも悔やみきれない」

「何だかねぇ…。過去に囚われてるのって、あなたらしくないわねぇ」

「自分でもそう思う。…きっとみんな、そう思ってる」

「みんなって?」

「みんなさ。かつての仲間たちも、お前たちも、みんな。俺はそういう後押しに流されて、何も振り返らず突っ走ったんだ」

 …再び落ち込み出す父さん。今日は情緒の不安定な日なのかもしれない。そっとしておこう。

「だから、三度目はない」

 ボソボソと意味の分からないことを呟いて。きりがないな。これじゃあ。

「そうだ。昨日怜奈さんにもケーキ出したんだし、その米酢さんって人にもあげてくれば?」

「え、ショートケーキ昨日食べちゃったよ。お父さんが上の苺取ってったけど」

「いや、あいつは食わない」

「好き嫌い激しいんだ。…それって人の好みも五月蝿かったりする?」

「…関係ないと思う」

 食べ終わって食器を片付ける。母さんが台所で洗っている中、父さんと話す。

「父さん。その、あの人に久しぶりに会えて嬉しかった? それとも辛かった?」

「そりゃ嬉しいに決まってるだろ。やっと本音をぶつけ合えるんだ」

「そう…」

 落ち込んでるんだか高ぶってるんだか分からない。

「じゃあ俺は行ってくるよ。多分今日は、遅くまで話してると思う」

 そう言いながら、部屋を移動する父さん。その足取りは言葉とは裏腹に、とても重々しく感じられた。

 昨日の記憶はそんな感じだ。父さんが部屋に籠ってから、僕らは早く寝ることにした。お風呂も早く沸かし、洗濯機も回した。怜奈さんに会って、米酢さんが訪ねてきて、色々あった一日だった。疲れはあったけど、いつもより早く寝たせいか、夜中に何度か目が覚めた。僕は寝つけなくなって、怜奈さんにどういうメールを送ったらいいのか考えてた。すると余計に眠れなくなってきて、寝なきゃ寝なきゃと心で念じていた。昨日の眠りは浅かったと思う。

 二時が過ぎた頃、父さんが起き出した。お昼過ぎの二時だ。昨日はよっぽど話し込んでいたらしい。お腹が減ったようで、おにぎりか何か作ってくれと頼んだ。母さんは海苔を巻いた、塩味のおにぎりをすぐに出した。

「ずいぶん寝てたね。結構邪魔だったわよ」

「…」

 からかいに対して、ボーっとして受け流す。昨日の自分を見ているよう。情けない顔だ。

「父さん、昨日のことだけどさ」

「昨日? 何かあったっけか」

 いや、いろいろとあったでしょうに。相当に頭が働いていない様子。このまま二度寝をするんじゃないかという勢いだ。というか、炬燵で寝ていて寝冷えは大丈夫だったのか。

「メールの件だよ。考えてくれた?」

「ああ、あれか。でも彼女も忙しいと悪いだろう?」

 …うむ。乗り気でない様子。中々ハードルが高いかもしれない。

「それより維歩、今年はサンタさんのお願いは何にするんだ」

「…友達」

「そりゃぁ…、自分で頑張りなさい」

「じゃあ代わりにクリスマスに怜奈さんを呼ぼう。あのね父さん。怜奈さんは何かと人と話すことが多いみたいだから、会話するのに勉強になるんだよ。そうでなくとも、ただでさえ僕が話せる人なんて少ないんだから」

「まあ、そうかもな。昨日もそんなこと言ってたっけな」

「言ってないよ。まだ寝ぼけてるね」

「ああ…まあ、そう」

 よろよろと立ち上がって、歩きだす。食器を上げて、母さんはそれを受け取ると面倒に洗い出す。

「ちょっと風呂入ってくる」

「沸いてないよ」

 母さんの突っ込みにUターンし、再び炬燵に戻ってくる。そう簡単には逃がしてやらない。

「まあいいけどさ、明日だぞ。急に来てくれるだろうか。彼女、仕事不定期だし」

「そんなの連絡してみなきゃ分からないでしょ。つまらない理屈で子どもの意欲を削がないでよ」

 母さんが味方につく。僕の意思を尊重するスタンスのよう。親としても、もっと他の人と触れて欲しいのだろう。家族の内でしかほとんど話さないから。

 父さんがパソコンを持ってきて、画面を操作する。昨日貰った紙の文字を写して、本文に何を書こうか訊いてくる。僕は簡単に、明日一緒に食事をしないか誘おうと返した。父さんはその旨を書き込んで、それに加え冒頭に社交辞令と自己紹介を足し、そして送信ボタンを押した。

「じゃあ返信を待つか。その間に父さん、風呂入ってるから」

「沸かしてないよ」

「じゃあシャワーでいいや」

 今度こそ部屋を出ていく。僕は冬休みだからあれだけど、いつもこんな生活をしている父さんが羨ましい。きっと多忙とは無縁なのだろう。

「何だか、最近お客さん多いねぇ」

「悪かった?」

「いやぁ。維歩から話したいって言うんだから、ちょっと成長したのかなって思って」

「まだ一人増えただけだよ。それに向こうからきっかけをくれたんだ。僕が父さんの子どもだからって。昔世話になったからって」

 きっかけ、という言葉で彼の発言を思い返す。君の為に持ってきた。あれは僕の無意識な予知夢だったのだろうか。彼は、僕の意識から離れたところで、無自覚に情報を処理し、未来の分析をしていたのだろうか。

「へぇ。私よく話聞いてないんだけど、何か彼女とあったの? 本当珍しいじゃない」

「うん。ちょっとアドバイスをね。僕のこと、何だか分かってくれる気がして」

 僕がなりたいのは、本当は何なのか。僕がしたいのは、本当に人助けなのか。それは手段か。だとしても、その目的は何処にあるのか。彼女ならきっと、僕よりも僕のことを知ってくれる。それが嬉しいんだ。僕が孤独じゃなくなるのが。正体不明なその輪郭が、徐々に形取られていくのが。

「ふーん。青春だねぇ。淡い恋心ってやつ?」

「違うよ」

 母さんが茶化す。こっちは真面目な話なのに。

「でも維歩、彼女のこと好きなんでしょ?」

「…そりゃ否定しないよ。嫌いだったら誘わないでしょ。それに歳だって結構離れてるんだよ」

「うわっ、出た。リアリスト。夢がないねぇ。そういう所ばっかりお父さんに似て、母さんちょっと寂しいよ」

 拗ねたふりをする。絶対に拗ねてない。面白がっているだけだ。それはそうと、最近弄られてばかりの気がする。もしかしたら僕は弄られやすいのかもしれない。或いは、女の人はそういうのが好きなのかも。僕の威厳は限りなくゼロに近いということか。

 返信を待つ。今日は返って来ないんじゃないかという思いが頭をよぎる。やっぱり父さんの言うように、急だったかもしれない。でも明日じゃなくても、近いうちに会えればという思いがあった。

 結局のところ、返信があったのは夕方だった。みんなが忘れていた頃に受信があったらしい。文量がいくらかあって、目を通すのにある程度時間がかかった。

 期待していた自分がいた。その分、意気消沈した。断られたというわけではない。しかし彼女は後ろ向きで、やんわりと避けているようだった。

 さて、どうしたものか。ここで退くか、それとももう一歩を踏み出すか。今日でなくとも、機会はまだあるだろう。それでも今回のように、いつまでも踏み込めないままになるのが怖い。それじゃ結局のところ、何も変わっていないということじゃないか。

「…父さん」

「分かってる」

 機械を持って、部屋を出る。後は父さんに期待するしかない。思い通りに事が運ばないのが、自分の力が及ばないのがもどかしい。それでも、ここでじたばたする他ない。時間はゆっくりと流れていく。次に太陽が昇るまで、この苦しみはかき消えない。

 どうこう考えても無意味だという観念から、宿題に手をつける。頭は上の空。気が抜けると手が止まっている。これはただの作業であり、内容に意味はない。ただ、中身を減らすことが目的。意識を逸らすのが動機。

 今日はそんな一日だった。宿題がいくらか進んで、長い目で見れば良い一日だったのだろう。勿論、ずっと勉強していたわけではない。何回か休み休みやって、ちょっとずつ進んだのだ。

 嬉しかった事が一つある。父さんが夜まで粘ってくれたおかげで、明日の昼頃に来てくれることになったそうだ。それまで何度も送受信を繰り返したようで、骨が折れたという。どんな手を使ったのかは知らないけど、とりあえずお疲れと言ってあげた。

 これは僕の力ではない。それでも、明日頑張ればいいやという思いで就寝した。

 巡ってきたチャンスを、しっかり掴む為に。


   2


「おう、待ったか」

「まあな」

 客用の居間に、男二人が向かい合う。畳の床。障子の窓。漆塗りの木目の通った長机に湯呑を置き、その側にいくつかの蜜柑が並んでいる。

「それで、どこから話しゃいい?」

 青年は話題を投げかける。自分を受け手に回したいようだった。

「そうだな。まずはやっぱり、その格好から説明してもらわないとな。どう考えてもおかしいだろ。昔のままじゃないか」

「昔のままってことはないが…まあそうなるよなぁ。そうなんだが、話すと長くなるからなぁ」

 面倒くさそうに頬杖をついて、反対で頭を掻く。

 昔馴染み。同じ青春を歩んだ者同士。兄弟とすら思えたほど、常に横にあった存在。同じ背丈だったにもかかわらず、自分ほどの歳をとっていない。二人の間には、明らかに差が生まれていた。青年にとって歳の差のロジックをつかれることは目に見えていただろうが、いざ尋ねられると、対応が難しいようで。

「まあ…簡単に言うとさ、お前が二十年過ごす間、俺は十年ほど生きてるんだよ。だから俺は、お前に会うのは実は十年ぶりなんだ」

「は? …つまりどういうことだ」

「時間が吹っ飛んでるんだよ。お前、相対性理論って知ってるか?」

「いや」

 面倒くさいと言わんばかりの表情。時空が歪むという概念を教えるところから説明していたら、理解するまでにどれだけの知識が必要なのか。話の論点はそこではない。その思いもあり、早々に説明を諦め、それっぽいことで誤魔化した。

「まあつまりだな、未来に行ったってわけだ。その分の年月が少ないのさ。ほら、机の引き出しにあるだろう? タイムマシン。あんな感じだ」

「にしてもまだ若いというか、昔のままというか。とても三十手前には見えないが」

「…だから長くなるって言ってんだ」

 投げやりになって机に突っ伏す。最後に生き別れたのは十代後半だった。あの大喧嘩の頃から成長してはいるものの、成長の度合いは五年ほどがいいところだろう。

 つまり、十歳も歳をとったわけではない。二十年など、なおさらのこと。老いた身からすれば、幼いあの日のままに映るのは、仕方のないことであろう。

「なあ、お茶くれよ。緑茶。あー日本が恋しいぜ」

 無邪気な青年グビッと飲み干して、言い張る。日本人が日本に住んでおいて、そんなことを言うのだから不思議なものだろう。そういうことは海外でホームシックになってから言うのが普通だ。

 この青年にとっては、この世界は近いものだったのだ。紛れもなく日本だと認識していた。現実めいた世界だと。自分の知ってる情報と整合性の高い社会だった。けれども、それでも。

 …それでも、嘘っぱちの世界に居る。その感覚を、拭うことができずにいた。

「おう。ちょうどさっき沸かしたばかりだから、すぐに持ってくるよ。…あ、多分熱いぞ」

 席を離している間に、猫舌の男は上手く事が運ばず気を落とす。独りよがりの落胆。空になった湯呑を眺め、ただ待った。言葉通りすぐに中年の男が戻ってくると、急須を持っている手に注目が向いた。

「…良かったな、左手で。右だったら急須使えなかったぜ」

 白い湯気とともに注がれた湯呑を軽く握り、熱の伝わり具合を確かめる。すぐにこれは駄目だと判断し、体から少し離れた所に置き直す。

 それは心の距離でもあった。

「そうか、俺も言わないといけないか。実は俺、左腕」

「あーいい、いい」

 青年は言葉を遮る。しんみりとした話は聞き飽きたというような態度で。これには少し、事情があった。聞いていたなら、また仲を引き裂いていたかもしれない。これきりと、会わないと決めたかもしれない。

「お前、あれからずっとここに居るのか?」

 話題を換える。が、特に聞きたくもない。

「ああ、そうだ。…もう二十年だ。もうこっちの方が長く生きちまった。あんなに色々あったのに、気付けば一人でこっちにいる方が長いなんてな」

 もう、昔のことなんだな。そう言って左腕を擦る旧友を、冷たい目で見る。好きではない。今でも、許せていない。

 この気持ちに、気付いてはいる。分かってはいる。しかし、やはり態度を変えることができなかった。愛想笑いも突き放すこともできず、それでも、この距離感のままで自分はいいと思ってしまった。

 孤独であることを、選んでしまっていた。それが楽だと、逃げてしまった。

 自分はきっと、幸せにはなれないだろう。

「そういうお前はどうだったんだ? こっちの世界にはまた飛ばされてきたのか」

「…」

 問いに少し悩み、何を切り出すか選ぶ。半ば面倒にもなっていた。仕方ないとはいえ、情報が非対称なことに。この話を何度繰り返せばいいのかと。

「つい二、三日前のことだ。野郎、今頃仮面の下でほくそ笑んでいるだろうな。俺をもてあそんで、何を企んでるんだか」

 嘘を言ってはいない。ただ、隠し事をしているだけだ。

 今日こうして再会したのは、この話をする為である。どうして自分が、この世界に送られてきたのか。今目の前に居る旧友に、何を頼まれてきたのかを。しかし、未だ切り出し方を模索しているところだった。

 まだ記憶に新しい光景だ。薄暗い病室。目に焼き付いた少年の姿。目の前の人間が、泣き崩れていた。胸に迫る憎悪と同情の葛藤。嫌な記憶ばかりが掘り返される。

 いつから、自分はこうなってしまったのだろう。守ろうとした、あの日には考えてもみなかった。

 今もまだ、自分は一人で戦っているつもりなのか。どうだろうか。

「こっちに来るまではどんな世界に居たんだ?」

 …相変わらず、この男は人の気も知らない。決着もつけれず、摘まみ出されて、そして一人紛れ込んだ世界のことなど、どうだというのか。

「…だから未来だって。ここの延長線上かは知らない。…SFみたいな所でさ、今度は宇宙で戦争なんだ。外に敵を求めてさ」

 その話題も束の間。また話題が次へ切り替わる。自分勝手なのは老いても変わらない。自分じゃ気付くことができないんだ。

「なあ、元号といい日本といい、さっきから気になってたんだが、もしかしてお前は、本当に日本人だったのか? もとの記憶も戻ってきてるのか?」

「…」

 情緒が不安定になりそうだった。疲れ、が近い感覚かもしれない。仕方ないことだ。それが人付き合いというものだから。

「ああ。…前の世界で、色々と思い出したんだ。お前と別れた直後から。ああこっちが俺の現実だって。近いって思った。突然蓋を開けられたみたいに、見るもの聞くものの全てが現実の厭らしさを持っていた」

「そうか。やっぱりお前は、最初からこっち側の人間だったんだな。俺もこっちで生きていたら、あんな風にはならなかったのかもな」

 湯呑に口をつけ、水面を啜る。やはり熱かった為、口に含んだのはごく少量だった。そして首を回し、肩をさすり、背筋を大きく伸ばした後、また猫背に戻る。

 考えたかった。

 いや、答えが欲しかった。

 自分には悩みがある。それは、自分ではどうしても解決できない悩みだった。

 記憶が矛盾しているなんて。

「なあテクト、俺が初めて会った時のこと覚えてるか?」

「ああ? 勿論」

 安心したかった。自分がここに居ると。

 自分が、知らない誰かでないことを。

 その心は、とても複雑だった。

「初めて会った時、俺は何歳ぐらいに見えた?」

「ん? まあ、維歩よりは幼かったよな、俺たち。…八歳くらいか?」

「そうだよな。なあテクト、俺達はその頃からずっと一緒に居た筈なんだよな」

「おいおい、どうしたんだ。まさか記憶が戻った反動で俺達のこと忘れたってのか。あんなに苦楽を共にしたっていうのに…あ、いや、すまない」

 中年の男が再びしょげる。自ら地雷を踏みに行った結果、足が上げられず座礁したようだ。しかし今は、そこに突っかかる気分になれなかった。

「俺は、思い出したはずなんだ。これは俺の記憶だっていう自覚がある。俺の通った学校、知り合い、地域、個人的な思い出がここにあるんだ。俺はこっちの人間で、この世が嫌で嫌で堪らなかった。偽善の社会。不条理な世界。転がる障害を避けて、醜悪と手を繋いで歩く人生に」

 半ば独り言のように言葉を発する。自分で自分の言葉を確かめるかのよう。そのはけ口は、目の前の老いた友人だけ。もう他に、自分を知っている者はいないから。

 みんな、死んだんだ。現実の世界でも、夢の世界でも。守りたかったものにも、手を離され。去っていったんだ。

「アイル、そうは言っても、良いことだってあるじゃないか。善意なんてのはお前が持ってりゃいい話だ。俺は本当のお前を知っている。そうでなけりゃ、お互い殺し合うほど憎み合わずに済んだんだ」

「…変わらないな。お前は」

 再び湯呑を啜る。冬場でも、そう簡単には冷めないようだ。その前向きさが、自分は苦手だ。根拠のない自信、安心って奴を、受けとめられない。

 そんなのでは、解決されない。

「俺の記憶は…捏造されてる」

「…おいおい。おいおい、アイル。一体何を言い出すんだ。ここに本物があるっていうのに」

 そう言って、頭を指さす。ここに思い出がつまっているぞと。

「なあテクト。俺は、お前たちに会った記憶とは別に、この現実めいた世界で生きてきた記憶がある。二つの幼少期の記憶だ。決して交わらない、独立した世界の話。平行して過ごす時間。どっちの記憶も本物を主張しやがる。どうなってるんだ。まるで、俺が二人重なってるみたいじゃないか」

 頭の中で矛盾が付きまとって離れない。考えられる理屈は、記憶を移植されたとか、そういうのだろう。色々いじられる合間に。だとしたら、上書きされなかったのは不幸中の幸いかもと。それでも、もしそうでも、本物がどちらなのか、もう…。

「ああ。記憶を植え替える技術が、未来にはある。どこまでが俺なのか、どこからが俺なのか。俺じゃあもう、自分を判断出来ないんだ。今の俺は、誰かの媒体に過ぎないのかも。体だけ自分で、誰かが使っているのかも。いや、そもそも、今まで信じてきた自分なんてのはいなかったのかもしれない。デカルトの定義は間違ってたのさ」

「アイル、そう心配するなよ。俺が保証してやる。お前は確かにいたさ。それともお前は、俺の存在を疑うってのか?」

 苦笑が見える。中年の男が茶を口に含み、喉を潤している。

 クオリアに過ぎない。それでは悲しすぎる。

「仮に捏造があるとすれば、それは俺のいない記憶の方だろうさ」

 自分が存在しないなんて、通常は考えないことだ。なら、自分がいる記憶こそが正しいと思うだろう。否定なんてするわけがないんだ。

 だが仮に、もう一方の記憶を持つ者が現れたら。その時、真実はどこにあるのだろうか。滅んだ世界の側には、それはきっと叶わないことだろうが。

「お前が本当のお前じゃなくても、俺にはかまわないことさ。だって今のお前は、明らかに俺の知るお前だから。その惨めったらしいところも、昔のままだよ。ああ、そっくりだ」

 それは、きっと主観の問題。当事者の内側を他の者へ共有することはできない。俺の気持ちは、誰にも分からない。そこに自身を含まれているのが、厄介な話で。

 分かり合えない。そういったプライドが、十年を経て再び甦る。

「なあアイル、俺の話も聞いてくれよ。俺の二十年を。皮肉なものだった。みんなを導いてるつもりだった俺が、気付いたら逸脱者を排除する犬になってたんだ。好いように使われた。沢山殺した」

 少し冷めてきたと、自分も茶に口をつける。緑茶特有の渋味が、静かな香りと余韻を生み出し、心に安らぎを施そうとしている。

「足を洗ったのは今から十二年ほど前だ。家族が出来て、それで辞めたんだ。奴等も俺と戦争を起こすわけにはいかないから、すんなり受け入れたよ。それでも手ぶらで放っておくわけにはいかないって言うんで、幾らか監視が付きまとっているんだ」

 湯呑を握って、一口呷る。聞きたくないことが、聞こえる予感がした。

「お前もこっちに来たのなら、遅かれ早かれ奴等が接触してくるはずだ。俺達はもう、普通に生きられはしないのかもな」

「奴等ってのは何だよ?」

「国連の下部組織さ。俺達みたいに外から来た者、外に由来のある者、もしくはその疑いのある者は、区別された国籍の管理下に置かれるのさ。端から見りゃ俺達は危険人物だからな。平和のための犠牲ってやつだ。俺の場合は能力を買われて、執行部隊に移ったが」

「面倒くせぇ制度だな。縛ってくるなら蹴散らしゃいいんだ。その力がお前にはあるんだから」

「俺にはできないよ」

「どうして」

 食い付くように投げかける。相手の返答は静かなものだった。

「俺には、大切なものができたんだ。アイル、良いものだよ。家族と一緒に年を取るのは。俺はこの幸せを守りたいんだ」

 左腕をさすりながら、皺の顔を和ませる。その表情は、かつて見たものと異なっていた。

「なあ、アイル。俺はここで幸せを見つけた。お前はどうだ。今でも探しているのか」

「…幸せなんてのは、探して見つかるものじゃないんだよ。いつも自分の内面にあって、それに満足できるどうかなのさ。だから、お前が幸せだってんなら、それはお前が変わったからだよ」

 変わった。お前は変わった。だが、何を得たのだろうな。ずっと俺たち、失ってばかりだったのに。

 俺は、何に向かっているのか。何に向かえばいいのか。また投げ出された世界で、ここで何かが見つかるだろうか。

 それは、自分の人生に大切なものだろうか。

「…ただ、まあ。今まで探してた、俺の生きる目的なら」

 瞳を閉じる。外で風が空気を切る音がする。鋭利な筋が、何もかもを裂いて進むような軽快な音。重々しい心の内とは裏腹に、どこまでも颯爽と突き進んでいく。その風は、どこへ向かうのか。

「テクト、ずっと言おうか迷っていたんだ。だが、伝えておいた方がいいのかもしれない。今日ここに来た目的も、その話を言う為だったんだ」

 急須を握り、互いの湯呑に注ぎ足す。色々あった人生。これから先もまだ、長い話が続きそうだ。むしろここからが、この物語の本筋になる。

 俺たちはもう、主人公にはなれない。

 世界を救うヒーローにはなれない。

「十年ぶりと言ったが、正確には違うんだ。俺はお前に、三日前に一度会ってる。俺の記憶で三日前だ」

 自分にとっての三日前は、十二月二十日じゃない。

「実はその時に、お前に頼まれて来たんだ」

「どういうことだ?」

「俺は、半年先から来たんだ」

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