第2話
1
干からびた眼差しをまじまじと見つめていた。不吉な魔法でもかけられたかのように、そこから目を逸らす事が出来なかった。途端に頭の中が真っ白に飛んで、真っ赤に染め上がるほど怖かったのに…いや、むしろ怖かったからこそ、逃げずに立ち竦んでいるしかなかった。
「…あ……あぁ…」
力の抜けたように、首がかくんと崩れる。その虚ろな瞳が、僕を覗く。何だ。…何だ?
パニックで気が狂いそうだ。おかしい。可笑しくなる。そりゃそうさ。こんなの刺激が強すぎる。異常だ。胸が苦しくなる。気分が悪い。気持ち悪い。
「…、……」
呼吸がままならない。この気持ちの悪さに。吐きたい。…とりあえず吐きたい。口の中からおもいっきり何か吐き出して、僕の中を空っぽにすっきりさせたい。
「…うぐっ」
ごくりと唾を呑み込んで、間をとって少し冷静になろうと努める。
そうだ。それでいい。まずはこの荒っぽい鼓動を直せ。深呼吸、深呼吸。
それでも、全身の冷や汗が中々ひかない。今でも背中がゾクゾクしている。両足もガクガク震え、気を抜けばその場に崩てしまいそうなほどだ。
「だ………、だだ大丈夫……かい?」
恐怖を乗り越え一言言い放つ。我ながら大したもんだ、なんて思うほど心に余裕はなかった。
「……ぇ」
数秒の間があった。それでも彼女は僕に、小さな声ながらも弱々しく、驚いたような反応を示した。どうやらまだ微かに意識はあるみたいだ。よかったよかった。いや、全然よくない。良いわけがない。
「君、血が…」
真っ赤な彼女を凝視する。このままだときっと死ぬだろう。血を沢山流しすぎてるんだ。人間がどれほど血を失うと危険なのかは知らない。でもきっと、この様子だとあと何分命がもつかも分からない状態だと思った。それくらい、彼女は血だらけだった。
鞄を前に回し、自分よりも一回り以上大きな彼女を、手をとり急いで背に抱える。抱えて…、どうすればいい? 分からない。
…とりあえず救急車だ。電話を探せ。どこだ。
狭い路地を右往左往と歩き回る。…知らない道が多すぎる。どれが正解なんだ。助かる道は。
「…ねぇ」
「…大丈夫」
意識の朦朧とした彼女をおとなしくさせようと、少し強めの声で言葉を遮った。大丈夫、大丈夫だ。心配いらない。来た道を戻れば、見慣れた場所に行き着く。これで解決するんだ。
僕はおかしくなっていた。焦りもあって最善の選択を取れず、回りくどい思考にばかりに固執していた。彼女を背負う必要はなかったし、それに大声で大人の人を呼べば良かったんだ。そうでなくとも、電話くらいどこかの家に上がり込んで借りればよかったんだ。そのくらい、人見知りだからって、きっとこの時の僕なら出来た筈なんだ。
ともあれ僕は、赤くなぞられた道を必死に逆走していった。もはや意識のなくなった彼女を背に抱え…半ば引きずって。大幅な時間のロスは明らかだが、理性を欠いていた僕には、そんな事気付く暇はなかった。
「………ハァ…ハァ…」
見知れた場所まで戻ってきた。戻ってきたぞ。電話は…どこだ。見あたらない。無いじゃないか。
切り替えろ。切り替えて…家まで行こう。疲労で腕の感覚が吹っ飛んだって構うもんか。そんなのじゃ死なないだろ。
頭の中で焦りがより強くなる一方で、足取りは相当に重くなっていた。火事場の馬鹿力は既に働いていたものの、長時間の体格差による疲労は埋めることが出来なかった。
「…っただいま……ハァ…」
玄関を荒っぽく開け、勢い余って段差に躓く。
「グゥ…」
脛に激痛が走る。前方に倒れこみ、背中から落ちてくる彼女の重みに潰れる。
「どうした」
…父さんが駆けつけてきたらしい。人の声を聞いてひとまず安心した。出来るだけの事はしたと感じた。
「この人、真っ赤で血だらけで倒れてたんだ。このままじゃ大変だ」
顔を上げると、父さんの眉間には皺が寄っていた。鉄臭い匂いがすぐに家の中へ流れ始め、父さんは右手で鼻を覆う。
「…そうか」
父さん彼女の左肩を半円を描くように押し上げる。上半身がひっくり返る反動で腰も回る。足も持ち上げて、身体がひとまず仰向きになったところで、左の手首の脈をはかった。
「大丈夫、生きてる」
父さんはすぐに答えた。大丈夫と。でも…。
「でも…血が」
「きっとこの子のものじゃないよ。目立った傷も見当たらないしな」
「えっ…じゃあ……」
この赤い血は何だと言うのか。なぜこの女の人は、真っ赤で倒れていたのか。
「恐らく精神面に問題がある。…そうだな。しばらく安静にさせて、様子をみよう」
奥からタオルを何枚か持ってきて、体のいたるところに付いた血液を拭き取る。僕は溜まった疲労から、うつ伏せに倒れたまま顔だけ横を向き、父さんの動く姿をじっと見ていた。皮膚に付いた部分は多少は落ちるものの、服に付いたものはカピカピに固まって、いくら擦っても落ちそうになさそうだった。
「母さん」
「ん?」
部屋の奥から顔を覗かせる。
「この子を風呂に入れてあげてくれ」
「この子って誰よ?」
一旦持っていたタオルを置き、父さんの手招きで母さんも玄関に駆け寄って、その姿を見る。
「何これ、血だらけじゃない! どうしたの!?」
「近所で気を失って倒れてたんだ」
「怪我はなさそうだから、意識が戻るまで少し休ませてやろうと思う。…この服、替えてやってくれないか」
父さんが道を開けたところを、僕と母さんで仰向けになった彼女を持ち上げて風呂場まで運ぶ。それから母さんが一人面倒を見て、荒っぽくなりながらも、張り付いた衣服を剥がしていった。体の血を洗い流している間に、僕と父さんで代わりに着れそうなものを探す。
「まあ、母さんの服でいいだろう」
ということで、そこらの衣服を集めて脱衣場にきれいに置いておく。僕も汚れた服を脱いで、着替えてリビングに腰掛ける。
ああ。そういえばまだお昼を食べていなかった。ばたばたしているうちに、すっかり過ぎてしまった。
「お昼は?」
「あ、維歩。お昼冷蔵庫にあるから適当によそって食べて」
聞こえたらしく、母さんが適当に言い放った。それを聞いた父さんが、傍らで冷蔵庫からおかずを取り出すのを見て、僕も杓文字で食べる分だけご飯をよそった。
一人で昼食をとる。父さんが置いた皿から被さっていたラップを取って、「ああ今日は親子丼だな」と思った。父さんはそんな僕が横で黙々と食べるのを見ていた。ぼーっとしているような、それでいて羨ましそうな顔をしていた。
何だよ。どうせ同じの先に食べてただろうに。そんないいもんじゃないだろうに、何を羨ましそうにしているんだか。
一人なので、ただ黙って食べ進める。それからまたしばらくすると、お風呂から二人があがってきた。
「いやー、まいっちゃうねぇー」
母さんの横で、二本の足で立つ彼女がいた。顔色もだんだん良くなってきているようだった。その様子を見て、僕は少しほっとした。
「あ、適当に座ってね。まあそんなに広くないんだけど」
「…ええ」
そんな返事をして、その人は座る場所を探しているようだった。そんな無責任なこと言われても、場所がないものだから。…そんなだから、よりにもよって、彼女は僕の横に座り込んできて、炬燵に足を入れようと、もぞもぞと動いた。
肩が触れるたび僕はドキドキして緊張で固まり、横目でそれに気付いて小さく笑われた。周りを見ても、父さんも母さんも特に気に掛けた様子はなかった。おどおどしているのは僕だけのようで、そのことを意識してしまって、余計に恥ずかしくなっていく。
「あ、維歩。昨日のケーキ残ってるから」
「えっ!、あぁうん…」
炬燵は長方形をしていて、僕と彼女の向かいに父さんと母さんが座っている。普通は一人ずつ座ればいいんだ。なのに夫婦揃って反対側に居たら、そりゃ僕の方に来るのが自然になってしまう。
何だかな。上手くいかないことばかりだ。
ご飯を食べ終えると、母さんは食器を棚に上げ、換わりに冷蔵庫からケーキの箱とお皿とフォークを持ってきた。
「昨日のだけど、あなたもどう?」
お皿とフォークが二つずつテーブルに置かれた。
「そうですね…。ええ、いただきます」
隣の女性は正面をチラチラと見た後、にこやかに応えた。
箱はすぐに開けられた。中身は苺、チョコ、そして果物が詰まったゼリーの三種。何を取ろうか考えていると、そういえば昨日苺のショートケーキにしたっけなと思い起こした。
「じゃあチョコレートケーキにしようかな」
そう言って四角いチョコレートケーキを取り出し、お皿に乗せて周りの膜みたいのを剥がす。名前は知らない。
さて、彼女はどっちにするのか。
「私は…祝われる筋合いも無いですし、こちらで」
華奢な指先が果物ゼリーを指す。
「そんな謙遜しなくてもいいのに」
母さんが容器を掴んで彼女の所へ運ぶ。透明なゼリーの表面が僅かに揺らぐ。
「あっ、ゼリーじゃスプーンの方がいいか」
母さんがもう一往復するのを見て「あっ…」と小さく声を漏らし、それから少し下を向いて、気まずそうに顔を歪めたのが見えた。
見たくなかった。
「すみません、いただきます」
スプーンを丁寧に受け取り、ゼリーを一口掬って口に入れた。表情はあまり変わらない。特別に美味しいわけでもないのだし、自然な反応だ。これで大袈裟に「うまい!」と叫ばれても、まあ嫌な思いをするだけだろう。
続いて僕も自分のに手をつける。また昨日とは違う味で、普通に美味しかった。うん。美味しい。
「それであなた、体は大丈夫そう?」
「…ええ、もう大丈夫です」
飲み込む合間をぬって、質問に応えていく。
「時々あるんです。疲れが溜まったり無理をすると、気が抜けてしまうことが」
周りのジェルを消費ながら、くりぬかれた果肉に手をつける。化石を掘り起こすみたいに、浮き彫りになった物を大事そうに摘出する。さて、今食べたのは何の化石だったのか、なんて考えてると自分で自分が恥ずかしくなってきた。
「あなた、お名前は?」
「東雲怜奈といいます」
「歳は?」
「二十二です」
東雲怜奈さんは答える。
「そう。東雲さん。あなた血だらけで倒れてたって聞いたけど、何があったの?」
「それはですね、その…どうやら最近ニュースになっている事件に巻き込まれたみたいでして…」
「あの噂の連続殺人?」
「ええ。といっても殆ど記憶がなくて、気が付いたらあそこに倒れてて…それでその後運んでいただいたみたいで…」
「じゃあ犯人を見たりはしてないのね」
「ええ」
「あの血も誰のか分からない?」
「はい」
「そう…」
驚いた。ニュースの出来事が他人事ではないと、すぐそこにあるんだと、感じた。いつも遠い事の様に思っていたのに、いざ被害者を目の前にすると、現実味を帯びてくる。そう、感じてしまう。身構えて。
「まあまあ母さん、病み上がりにそう問い詰めるもんじゃないよ。彼女だって意識が戻ったばかりなんだから、心の整理をする暇が必要さ。それに、我々がずけずけと訊き出す事でも無いだろう?」
「まあ、そうね」
「この後どうするかは彼女の勝手なんだ。ああだこうだ言うのも無粋ってもんさ」
父さんの考えは、子どもからしたら何だか思慮深く感じられた。その一方で、父さんの態度がどこか素っ気ないように思う自分もいた。根が合理的なのかもしれない。昔から、何気なく訊いたことに対して時々深く考え込み、普通ならそうだと思うようなことも、何故そうなのか、どうしてそう思ったのかと訊き返すことがあった。あるいは、僕らの抱く感情を棚に上げ、冷淡に判断することもあった。
今の話も、普通なら気になって色々訊き出すはずだ。でも父さんは自分を第三者と割りきって、関わるのを避けた。それが相手への配慮って奴でもあるし、僕らのとりうる立ち位置でもある。身を弁えるというは、きっとこういう事なのだろう。
「ご馳走さまでした。それでは、私はこの辺で」
彼女はゆっくりと立ち上がって、部屋の出口を向く。続いて父さんが立ち上がり、玄関まで彼女を案内する。
「悪いけど、あの服はこちらで処分させてもらうよ。それと、その服は持っていってもらって構わないから」
「すみません、色々と有難うございました」
部屋の中から二人の姿は見えないが、会話が聞こえてくる。
「送ろうか?」
「いえいえ、お気遣いなく」
ドアに手を掛けていた彼女は、振り向いてこの一家の家主に微笑んでみせる。未だ幼さの面影が残る、無邪気な笑みであった。
「それでは皆さん、お世話になりました」
屋内に昼の光が差し込む。明暗で描き出される綺麗な世界。宙を舞う埃も、風に吹かれる艶やかな髪も、何もかもが神秘に包まれている。東雲怜奈は日に照らされた道を歩んでいき、その足下に小さな影を連れていた。
やがてガチャンと音が鳴り、玄関のドアが無機質にも閉まる。その時僕はふと思い起こされた。今日初めて誰かを助けた事を。去り際の感謝の言葉を。たった今食べ終えたチョコレートケーキよりも大きな満足感が、そこにはあったんだと。
この感動の中で、僕は願う。より大きな成功を。より具体的な幸福を。そうして僕は考えてみる。今自分が何を求めているのか。隣に居ながら、恥ずかしがって聞けなかったことの数々。僕が助けた人の正体。孤独から抜け出る方法。
結果として、もっと彼女と話がしてみたいと思った。
「もしまた彼女に会えたなら、」
いつしか僕の心は沸き上がっていた。
2
初老の男が扉を開ける。眼鏡をかけた、白髪とスーツの似合う男性だ。ポケットにはヴィンテージ物の懐中時計が入れられ、その紐は上着の内側へと続いている。シャンデリアの灯る少し薄暗い部屋、その中にカップに口をつける女性の姿を見つける。
「紅茶を、お淹れしましょうか?」
「いや、珈琲でいい」
話し相手はソファーで足を組んだ姿勢で、下方から男性を見据えている。片腕は机の上のカップを掴み、もう片腕は横に広げ、ソファーの裏側に手を伸ばしている。
「ああ、君だったか。スピリット君」
男性は冷淡に言い放つ。
「あまりお嬢様を虐めないでくれよ」
「あんたはいつからこの家の執事になったんだ」
ソファーの女はすぐさま言い返す。成人した女性の声。しかしその口ぶりは、親に反抗する年頃の少女、あるいは拗らせた少年のようでもある。
「また今日も置いていかれたようだな」
男は悪態をつく。その態度に気に食わない顔付きで、返事をするように舌打ちを小さく響かせる。
「まったく、回収するこっちの身にもなってみろ。早く成仏してくれればいいものを」
「勘違いするなよ。あんたらは加害者なんだ。いくら自分を正当化しようが、あんたらのしてきたことは覆らないぜ」
男は相手にするのも面倒だと言わんばかりに、体を背け珈琲を淹れに行く。それから部屋は静まりかえり、作業をする音だけが聞こえてくる。ポットから丁寧に湯を注ぎ、豆の汁がカップへと滴る音。白い湯気とともに芳ばしい香りが鼻奥を突き抜けていく。
やがて男は部屋へと戻り、こちらへと歩み寄る。
「暫くは我々で預からせてもらおう。今日もなるべく早くお嬢様を休ませてくれよ」
両手に珈琲を注いだカップを持ち、片方を女性の前に置くと、そのまま部屋を後にした。
「…傲慢な野郎だ」
一人捨て台詞を吐く。機嫌は悪いままだった。
女はカップから手を離し、もう片方のように横に伸ばした。
「当然に明日が来るものと思ってやがる。ああ、嫌だな」
脱力した姿勢で天井を見上げ、熱々の珈琲が程よく冷めるのを待ちながら、目蓋を閉じて瞑想に更ける。充満する香りに包まれながら、次第に深い眠りへと誘われた。
3
十二月二十三日。僕の冬休みが始まった。時刻は朝の十時ほど。気温は二十度近くありそうな程暖かく、今日も雀の鳴き声が聞こえてくる。横目で見れば、照り返す日の傍ら、木陰で数羽が動き回っているのが見えた。僕も布団を剥いでベッドから上体を起こす。
さて、連休初日の午前中。今日の予定はどうするか。指を組んで大きく伸びをする。ふと勉強机の方を眺める。宿題は…やる気にならないかな。とりあえずリビングに行こう。
「おはよう」
炬燵に入る。熱はあまり強くない。既に両親は起きていて、朝ごはんを食べた後のようだった。
「おはよう、維歩。どうする?朝ごはん食べる?」
母さんが訊いてくる。今のうちに朝食をとってしまうか、それともお昼まで待つか。
「んー、まだ空いてないからいいや」
炬燵に潜ってうたた寝する。朦朧とする意識。失われる時間の感覚。ざわざわとしてきたような感覚が僕の片隅を引っ掻き、それでも眠りの中へと逃げる。気が付いたらもうお昼になっていた。
「維歩、お昼だけど」
「うん…」
眠い目を擦って上半身を炬燵から出す。仰向けになって掌で床を押し、反動で座る姿勢になるまで起き上がる。
箸を持つ。おかずを摘まんでご飯を噛み締める。何もかもが億劫に感じられ、その動作はとても重たい。
お皿が片付けられていく。僕はボーッと見ていた。最後まで残ったは、僕の箸とお茶碗だった。
食器を洗う音が聞こえる。ザーというノイズに似た音。テレビの砂嵐のような音。どこにも繋がらない、孤独な音だ。
それからまた横になる。
何故僕がこうしているのか。寝てばっかで、何もしないのか。それは、あまりにも暇だからだ。暇といっても、まだ休みが始まったばかりで宿題のやる気も起きなく、時間を浪費する他ないといった感じだ。
やりたいことはない。
でも、嫌なことからは逃げるのに必死。そんな日々。僕の人生だ。
「天気も良いんだし、外行ってくれば?」
見かねた母さんが勧めてくる。
「でも外寒いんでしょ」
「今日は暖かいよ」
「うぐっ…」
言い訳も通用しそうになく、面倒臭かった。けど、母さんの催促に負けて出かける事にした。
適当に着替えて玄関で靴を履くと、唐突に昨日の事がフラッシュバックした。昨日父さんが見送った時、あの人はどんな顔をしていたのだろうか。東雲怜奈さんの顔を思い起こしてみるが、ぼんやりとして上手く形取れない。その事が妙にいじらしい。
玄関を出る。白い光が目に飛び込み、軽く立ち眩みを起こす。次に目を開けた時は、晴天と灰色の街並みが視野に広がる。
代わり映えのない道を歩いて行く。いつも歩いている道。見馴れた道路。呆然と足を進めながら、今日の予定を考える。浮かび上がるのは宿題のことばかり。後になって苦労するのは分かっているのに、中々やる気になれない。僕も平凡な小学生というわけだ。それが何だか安心できる。
比較的大きな道へと出た。人の数は多くなるけど、学校に行くわけでもなく、知り合いに会う心配もない。しばらくは人目を避ける必要もないだろう。僕は気の向くままに、散歩をするだけだ。
そう、思っていた。何も起きないと。
「あ…」
そこで、覚えのある顔を見つけた。とたんに僕の意識を離れ、脳が高速で記憶を呼び起こす。思い出すまで、たった数秒の間だった。
向こうも僕に気付いたようだ。ポカンと小さく驚いた表情を見せた後、こちらへ近寄ってくる。距離はおよそ五十メートルか。人混みの向こうから現れてくるその数秒間、僕は彼女に見とれていた。
「やあ、また会ったね」
彼女は微笑み、会話を促す。でも僕には、返す言葉が上手く出なかった。下手くそなのは、分かっていたさ。
「うん…」
生返事とともに、相手の姿に目を通す。長袖の上に薄手の赤紫の布を羽織り、下はデニム、頭にニット帽を被っていた。勝手ながら、これが大人の格好なのかと関心していた。知らない世界のことだったから。
「ええと…東雲、怜奈さん」
「そうよ。そういえばあなたお名前は?」
「無減維歩です」
「そう。維歩君」
年上の女性と話すのは恥ずかしく、切り出そうにもつい口ごもってしまう。でも黙っているのも気まずく、耐え難くなる。どうするのが正解なんだろうか。
「そうね。立ち話もなんだし、どこか寄りましょうか」
彼女から誘いを受ける。僕からすれば、それは気遣いで、優しい対応に思えた。多分そうだったのだろう。この後のことを考えたら、きっとそうだったに違いない。
二人で歩いた。家族、というよりは恋人に近い感覚。手は繋がないけれど、どこかデートをしているような気分で。チクチクする。
「ええと、怜奈さん。今日は休みなの?」
「ええ。といっても、今日は旗日だから休みの人も多いけどね」
「旗日?」
「祝日だよ」
「祝日。怜奈さんて、仕事は何してるの?」
「ん?」
僕の声がよく聞こえなかったのか。すぐに返事が来なかったので、心配になった。横を向いて、その様子を確かめる。
東雲怜奈は顔を斜めに上げ、少し考えている様子をしていた。少年は彼女に合わせようと、答えが返ってくるのをただ待った。
「うんとね、何て言うかな。…維歩君って、幽霊信じてる?」
「幽霊? どうだろう。見たことないからなぁ」
「そう…」
彼女は口を塞ぐ。話の切り出し方が定まらず、どう説明したら良いのか、思案を巡らしているところであった。相手は子ども、尚且つ、こちらには事情もあった。どこまでを話すべきか、どう伝えるべきかと。
だが結局のところ、色々と気を回して考えるのも面倒になってきて、簡素に答えることにした。
「私はね、霊媒師なのよ」
「…はい? れいばいし?」
どうやら霊媒師も伝わらなかったかと、きまりが悪そうにする。
「まあ、幽霊を祓うのが仕事かな」
「何か…特殊だね」
「そうね」
道の側面に喫茶店を見つける。維歩君に目をやると「ん?」というような顔をしていた。
誰にも似ていない顔だ。それに、何にも染まっていないと、そう思った。
それは私の、勝手な思い込みでしかない。
「せっかくだし、入りましょう」
私は少年の手を引っ張って、テーブル席に座った。受付から何から、慌てふためく姿が可愛らしかった。
「注文は決まった?」
「ええと、うん」
「そ、」
ベルを鳴らす。数秒後に、アルバイトらしき店員が寄ってくる。学生のような、退屈と希望に満ちたその人を見て、私は。
「ご注文は」
…ううん。何でもない。こういうことは、外ではやめよう。
「アイスティー、一つ」
維歩君の方を見る。メニューに顔を向かわせて、そこにある文字を左の人差し指で指す。
「オレンジジュースですね。他には」
「以上で」
店員は振り返って、奥へ戻っていく。距離が開くのを待って、目の前の子に話しかける。
「成る程ねぇ。維歩君はシャイなんだねぇ」
少年をからかってみる。打算があるわけではない。なんとなく、そういう気分だからしてみる。
「元気ないね。あ、分かった。お金の心配してるんでしょ」
反応は、図星のよう。それと恥じらいが半分のよう。そんな様子だと、もっとからかいたくなってしまう。
「そんな申し訳なさそうな顔しなくていいのに。これでも私、社会人なんだよ。大人なんだからさ」
まあ若く見えるのも無理はないけどね、と冗談を言ってみる。しかし効き目は薄い。緊張でガッチガチのようだった。私の言葉も全然聞こえていなくって。
それでも私は、話題をふることにした。
「維歩君て、三人家族?」
「うん…」
「兄弟はいないの?」
「いないよ」
「へぇ。一人っ子かぁ」
「…一人」
そこで少年はうつむいた。センシティブな部分に触れてしまったのだろうと、ばつの悪い気分になって、話題を次へ動かす。
「そういえば、お父さんは今何してるの?」
「父さん? 父さんはね…電力会社で働いてるって」
「そう」
その返事とともに、ここで注文したものが運ばれてくる。一旦話を切り止め、第三者の方へ視線を移す。
「ありがとう」
店員さんの目を見て伝える。一方の彼は、その学生さんにも気まずそうにうつむいている。そんなことを気にしてどうしようというのか。壁を作って、守っているつもりだろうけれど。
でも、今まさに、君はその孤立に怯えているようだった。君のそれが、自分の首を絞めていると、おそらくは分かっていても、変われない。
変わる勇気がないから。
そして、変化を強いられていないから、だろう。
ストローをさし、一口つける。爽やかな味が冷たく口を通って、喉を潤す。無糖のちょっとした渋み。ちょっとした、大人の味。なんちゃって。
「じゃあお父さんは、あまりお家にいないのね」
ガムシロップをかけ、ストローで軽く混ぜる。
「お父さんのこと、よく分からない?」
「そんなことはないよ。父さんは、管理職はお飾りだとか言って、いつも家にいる。たまに電話がかかってくるみたいだけど。学校に行ってなかったら、きっと父さんと居る方が長いから」
「そう。なら幸せね」
「? そうなのかな」
「そうよ」
無減家という一家を想像する。奥さんと子どもに囲まれた姿。ごくありふれた家庭の姿。きっと毎日が幸せに違いない。おめでとうと、心の中で伝えたいくらいだ。
「実はね、私、無減さんには昔何度かお世話になったのよ」
「そうなの?」
「ええ。確か最後に会ったのは、十二年? ほど前だったかしら。私がちょうど、あなたぐらいの頃よ」
そこで少しだけ、少年の食い付きが良くなった。でも少しだけ。まあ彼と居れば、知り合いの広さには驚きにくくなるのだろうけど。そうやって世間が小さく見えてしまわないか、心配。
「あの人、不器用でしょ。根は優しい人なんだけど、寡黙だからねぇ」
「かもく?」
「喋らないってこと」
「どうだろう。家では結構話すけど」
「そう? じゃあ変わったのかもねぇ。まったく、良い年の取り方しちゃって…」
少し羨ましく思う。妬みたくもなる。でもやっぱり、同類が居場所を見つけられるのは喜ばしいことだ。私の周りから離れてしまっても。
それに彼は、あの家は数年前、あれが起こった後なのだ。それを望んでしまうのはもっての他だろう。
「ねぇ、父さんって、昔はどんなだったの?」
少年が訊いてくる。そういえば彼は、自分の子どもにどこまで隠しているのだろうか。自分のこと。家族のこと。六年前のこと。私が踏み込むべきじゃないのは分かってる。私の口から、どこまでを伝えていいものか。
「無減さんはね、昔は暗い人だったのよ。私が知っているのは三年間くらいだけど、笑った顔は見なかったわね」
「へぇ、意外だなぁ」
核心に触れない部分で、本当のことを話す。少年もどうやら緊張が解けてきた様子だ。話に入り込んできている。
「彼も孤独だったからねぇ。寂しい人だったわよ。今じゃ考えられないだろうけど」
「父さんはいつから変わったのかな」
「さあ。結婚してからじゃない?」
ここで攻守交代を試みる。
「じゃあ私からも質問。無減さん、いつから左手失くしたの?」
「左手?」
彼女の言葉が聞こえた。彼女の言葉を聴いた。すぐに心の中で反復した。父さんが、いつから片腕なのかと。そんな突然に、そんなこと訊いてくる。その勇気というか、思い切りの良さは何なのか。
さて、質問について考えてみる。記憶を遡って。遡っていく。いつから。どんどん前へ。前へ。覚えている限り、最初の記憶までいっても、分からない。
「父さん、多分最初から片腕だったと思う」
昔の記憶なんて、結局曖昧だ。覚えちゃいられないんだ。物凄く衝撃的じゃない限りは。
「最初っていうのは?」
「僕が三、四歳の時」
「そう…」
つまり六、七年前のことだ。僕の記憶に、両腕の父さんはいなかった、と思う。いつも右手だけだった。それがもう、当たり前に思ってしまっていた。
「維歩君、他に何か、訊きたいことはない?」
「えっ?」
いや、訊きたいことって言われても。その…。
「維歩君シャイでしょ。私のような女子と話せることなんて、この先滅多にないかもよ。あ、言っておくけど、私は女子だからね。まだまだ若いんだから」
「それって幼いってこと?」
「可愛らしいってことよ。えへへ、自分で言っちゃった」
「…何だか母さんみたい」
そんな感想が、ふと湧いた。皮肉だったかもしれない。分からない。
「へえ。奥さんて私みたいな人なんだ」
「うん…」
「まあ維歩君、あまり人と話したことなさそうだからなぁ。世の中狭いようで広い。でも、広いようで実は狭いのよ」
「…どういうこと?」
「人間ていうのはね、何十億もいるけど。人それぞれ違うけど。でも、その性格を大まかに分類すれば、数パターンに分けられる程度のものなんだから。性格診断とか血液型占いとか人気でしょ? 枠組みみたいなの」
「…つまり?」
「似た人間なんて沢山いるってことよ。大体の傾向も分かってるし、何が好きとか、どうするとか、悩みとかもみんなおんなじように似た者同士。君みたいな人見知りも結構ありふれてるのよ。その性格グループの人達を調べれば、君の考えも悩みも大体読めちゃうんだから」
「…成る程。じゃあ治す方法も分かるんだね」
「ええ。私は研究者じゃないから知らないけどね」
彼女は意地悪く笑顔を作る。僕をおちょくっているのは明らかだけど、嫌なわけではない。子ども扱いしているということだろうけど。
ここで僕は、ジュースに意識を逃がすことにする。拗ねているわけではない。一方的に思い通りにされ、負けた感じがして癪なだけだ。怜奈さんは頬杖をついて僕を見ている。じっと見られていると、だんだん恥ずかしさが込み上げてくる。そんなに見られても、僕に何を期待しているのかと。もしかしたら僕の顔が変なんじゃないかとすら思えてくる。
「ねえ。維歩君はさ、どうなりたいの?」
彼女が尋ねる。そうだ。そういえば最近、似たようなことを彼にも訊かれた。僕はどうしたいのか。どうなりたいのか。あの時は、助けたいと答えた。でも今はどうだろうか。
そこにある答えは、ふんわかした、とても説明にならないものだっただろう。僕自身、自分のことが分かっていないのだと、そう突きつけられた気分だ。
「僕はね、父さんみたいになりたいんだ」
その先の具体的なものを、僕は答えてから探しだした。
「えー、ネガティブになっちゃ嫌だなぁ。まあ親に憧れるのは自然なことだけどさ」
「いや、僕は父さんみたいに、優しい人になりたい。まあ、その為にはこの性格も治さなきゃいけないだろうけど」
「え? どうして?」
彼女は首を傾ける。その唐突に挟まれた疑問に、思わず「えっ」と声を漏らしそうになって。
「どうして治す必要があるの? 君はもう優しいのに」
理屈が僕を襲う。苦手だ。言葉をまとめるのは。
「だって、人を助けるにはその人のことを知らないといけないじゃないか。だから会話をする能力が必要なんだ。相手を知るには、話さなくちゃ」
それが綺麗な答えとはいかないまでも、僕の精一杯の筋道だっただろうか。僕の願う、理想の僕と。そうなりたいと、自分から助けられる人間になる為の。
「へぇ。じゃあ君は、助けてほしいか相手に訊くんだ。それか或いは、君の知る人間しか助けないのかな?」
「そんなことは…」
「維歩君、あなたは何が知りたいの? どうして知りたいの? それは相手から訊き出すことなの? あなたのしたかったことなの?」
疑問に滅多刺しにされ、涙目になりそうだ。やっぱり彼女は意地悪だ。でも分かってもいる。決してふざけているのではないと。真面目なことで、僕の考えをより具体化しようとしているのだろうと。
そして何より、それが僕の為だということを、分かってはいるんだ。僕がそのストレスに耐えられなければ、いつまでも逃げるままだぞと。分かっては、いるんだ。
「優しくなりたいのか、優しさを振り撒きたいのか、あなたが求めているのはどっち? あなたはどこに幸せを求めるの?」
「…分からない。そう見られたいだけかもしれない。ただ自分に満足したいのかも」
「私が考えるに、優しくなりたいのとその性格を変えたいのは別のことね。もしくはその手段に選んでる。変身願望かしら? もしそうなら、あなたはきっと、自分を肯定したいのよ」
「どうして分かるの?」
「経験よ。職業柄、いろんな人の考えに接するから」
彼女はグイっとアイスティーを飲み干す。
「今日はありがとね。無減さんにも宜しく言っておいて」
そう言って、お金を払いに一人レジに向かう。置いていかれたくなくて、僕もすぐに後を追う。隣に会計を済ませる彼女を見て。店を出たらそれきりだって。それが、悲しかった。もう会うこともないかもしれないと。何か失ってしまうようで。
「じゃあね。維歩君。…さようなら」
崖っぷちに居るようだった。時間が迫っていた。後ろから押されるのが怖くて。それでも、飛び込む勇気もない自分が、醜い。
嫌だ。せっかく話せたんだ。なのに、また一人に戻るなんて。何も変われない自分なんて。
「怜奈さん」
「ん?」
扉に手を掛ける背中に言い放つ。そして僕に顔を覗かせる。僕はきっと、泣きそうな顔をしていた。僕を見て、彼女は驚いていた。困らせてしまったかもしれない。でも湧き上がる不安が、寂しさが、感情を抑えきれなかった。
「…また、会えるかな」
数秒ほど固まっていた。やがて思い出したように「プッ」と僕を笑って、口を尖らせた。僕を安心させようとしたのかもしれない。わざとだったかも。
でも、それから寂しげな顔をするのを、僕は見逃さなかった。その時、妙に胸がひきつったんだ。彼女の秘密をさらけ出すかのようだった。
「維歩君は、会いたいの?」
「……」
「…そっか」
店を出たところで、怜奈さんは鞄から紙とペンを取り出した。壁にあてて、何か書き込んでいるよう。それを僕に差し出したので、僕はそれを受け取った。
目を通してみると、そこには数字とアルファベットの記号が一行書き込まれていた。暗号のようで、不安が僕を襲った。
「これは?」
「私のメールアドレス。連絡先よ。家族に渡してちょうだい」
「メール? これがあれば連絡がとれるの?」
「そうよ。私にも用事があるんだから、悪戯はしないでよね」
「しないよ」
最後まで、そんな風に彼女は僕をからかって遊んでいた。でも僕は、そんなことよりも、新しい繋がりが出来たのが、保てたのが嬉しくてたまらなかった。初めて友達が作れたようなものだ。根拠のない自信が、込み上げてくるようだった。
僕は、そんなに単純なんだ。純粋って奴かも。何もかも、自分の周りしか、僕は知らない。
いいじゃないか。僕はただ、幸せになりたいんだ。僕だって、なりたいんだ。
「それじゃ、気を付けて」
視線を切る。体を向けて、足を進める。手を振って遠ざかる姿をしばらく見た後、僕もその場から離れた。渡された紙を左手で大事に掴みながら、今日は少し上を向いて帰路についた。
4
帰宅してすぐに父さんと話した。今日彼女に会ったこと。連絡先をもらったこと。気が付いたら夕方になっていたほどだ。途中で今日は宿題に手をつけなかったと思い出したが、それでももっと父さんと話がしたかった。それで結局、夕暮れまで話し込んだ。というのも、六時頃に彼が訪ねてきて、父さんがそっちに行ったからだ。あの時公園で会った、古い友人という人が。
「よお、テクト」
インターホン越しの第一声がそれだった。
父さんは信じられないくらい、ただただ固まって突っ立っていた。
まるで、警察に暴かれた犯人みたいに、ずっと。
僕も、こうなるのかな。




