第1話
空を朱く染めながら旋回する太陽の脇で、誰にも気付かれぬまま、影は独り領域を広げていく。遠い彼方へと傾く頃には、世界から温かな光は失われ始め、次第に両者の境界は曖昧に薄れゆく。
鴉が鳴き、闇の方へと消えていく。
辺りに静けさが舞い戻る。もう届くことのない夜空を見上げると、壮大な紺碧の中でも輝くものを知る。
瞳を閉じ、安らかな感傷に浸る。空気を切る音が心に伝わる。冬の風が身に染みる。
1
十歳の誕生日に、僕は一人公園にいた。人気のない寂れた場所だった。僕は下校中によくそこを寄っていて、公園の中央にある滑り台の上に、背負っていたランドセルを置いて座っていた。
そして、いつもの妄想をする。
うつむく僕の後ろに、逆光に陰る彼が居る。十二月にしてはひどく薄手な、白い上着のポケットに右手を入れて、もう一方で、僕達を囲む錆びた手すりを握りながら立っていた。
乾いた小風が彼の開け放ったコートを弱くなびかせる。僕の荒れた肌を強ばらせる。それを何度も、何度も分からないくらい繰り返した。彼はその狭い空間に無理矢理押し入るように、反対向きに腰をおろして、僕の小さな背中へともたれ掛かってきた。ポケットから取り出した右手で、仮面をそっと外す。何も考えていないような様子でヒラヒラと動かしながら、枯れた空の夕焼けを眺めている。
僕はいつも、彼に悩みを打ち明けていた。
「僕にはさ、みんなの考えていることが分からないんだ」
彼は何も言わずに、ただ背後で僕の話に耳を傾ける。
「みんなの気持ちが分からない。だから自分から話しかけるのが怖くって、それでこれまで、学校でも友達が出来ないまま過ぎてきた。きっとこれからもそうなんだ。…それに、僕がみんなとは何か違うのか、みんなの方からは話しかけてもらえなくって…僕はいつもただそこにいるだけな気がして…」
言葉に詰まる。自分でも何が言いたいのか分からなくなって。頭と言葉がうまくまとまってくれない。
後ろの彼に顔を覗かせて、様子を窺った。でも、相変わらずなその姿からは期待したものは得られそうになくて、独り静かに元の姿勢に戻った。
「…君のことも分からない。ねえ、僕には何が足りないんだろう。僕はどうしたらいいんだろう…」
もうこれ以上は、言葉が口から出ようとしなかった。僕の勝手な一人言は、ここで途切れた。後には沈黙だけ。この気まずさが嫌なんだ。僕は。
頭上を悠々と流れていく雲とは対称に、僕は一向に変われないまま、下を向いてただぼーっと地面を眺めているしかなかった。見つめた先でも、影は緩やかに傾きを変えていき、辺りを呑み込むように薄く広がっていく。何もが変わっていく世界から、僕だけが取り残されていくようだった。
僕が黙りこんだのを気にしてか、しばらくして彼はひらひらと動かす手を止めて、それから僕の方に首を回した。そして一言、
「君はどうしたいんだい」
と尋ねた。どうしたいんだい。どうしたいのか。
「…僕は」
僕はどうしたいのか。したところで、一体僕に何が出来るだろうか。
眺めていた視界の中に、数羽の鴉が現れる。餌でも啄みに来たのだろう。けど、生憎ここには何も落ちていない。何もないんだ。その事にすぐ気が付くことができず、いつまでも辺りをうろつき回っている。
「…僕は、僕みたいに苦しんでいる人の力になりたいんだ」
頭の中で思いを巡らしながら、風の音にかき消えそうなほど弱々しい声で少しずつ、端切れの悪い言葉を絞り出していく。
「僕みたいにどこにも居場所がないような人のために…そんな人たちを助けてあげるために、僕は、人の気持ちが分かる人になりたいんだ」
気持ちが通じるなら、話し合うことができるし、相手を気遣う事もできると思うんだ。それが第一歩だ。そう思ったんだ。
勢いよく顔をあげ、彼の方に振り返る。今度はしっかり目が合ったけど、それでもやっぱり、彼が何を考えているのかなんて分からない。
「だからもし、誰かを助けてあげられたら…」
「フッ……」
まだ僕が話している途中なのに、彼は他人事のようにそっと笑みを浮かべて、僕から顔を逸らすように前を向いた。そして、右手に持っていた仮面をそっと付け直して、
「頑張れよ」
立ち上がって、どこかへ消えてしまった。
「……何だよ」
…何だか気持ちが沈んだ。
ここで僕の空想は途切れた。彼が勝手にいなくなって、僕は本当に独りになった。周囲を見渡してみると、だいぶ日が落ちていたことに気付く。朱い空が遠く西へと隠れていき、近くの地面でうろうろとしていた鴉も、カアカアと鳴いて暗闇の中に飛び去っていった。僕は置いてあった荷物を持って滑り降り、薄暗い中、公園の出口に向かった。
2
入口に男が立っていた。見た感じだと二十代の男性だった。黒いコートにズボン、靴と、全身が辺りに同化するような暗い格好をしていて、青か緑か微妙な色のマフラーを首下に緩く巻いている。入口の蛍光灯に寄り掛かるように立って、姿勢が悪く、外気から守るためかポケットに深々と両手を入れ、眠るように瞳を閉じていた。
二人の間を北風が吹き抜けた。凍えるような風だった。その人は気が付き、目の前にいた僕に視線を向けた。
「…こんばんは」
相手からの返事はなかった。なかったけど、冷たい表情を変えないまま、僕と目を合わせ続けていて、逸らそうとしない。どうしてだろうか。
「…僕に何か」
「いや…」
男は何かを考えている様子だった。上から下まで僕の全身を軽く見通すと、くねくねと体の重心を換えながら宙を追い始め、目を瞑った。
そして口を開いた。
「ある少年を探している」
「…どんな人?」
こんな寂れた場所には、人なんて滅多に来ない。ここに来るのは僕くらいのものだ。それにもう、日が暮れてるし、子どもはみんな帰ってるんじゃないかな。人探しをしているなら、大通りを探した方がまだ見つかるかもしれないと思うけど。
何か事情があるのかな。
「古い友人の子で、君と同じくらいの年だ。今は無減という何だか変わった名字になったそうで、どうやらここら辺に住んでいるという話だ。会ったことは無いが、特徴的な少年だという。学校とかで聞き覚えがあったりしないか?」
なるほど。そんな訳あって、こんな寂しい場所に寄ったのか。
「僕がそうです。無減維歩です」
でも、どうして僕がここに居ると分かったのだろう。確かに僕は、内気で弱虫で、みんなとはぐれているから、少し違うという印象があるのかもしれない。髪は生まれつき茶色で目付きも悪いし、派手で鮮やかなものは好きになれないから、いつも服が地味だって言われる。僕にはどのくらい特徴的なのか分からないけど、でも周りから見ればみんなと馴染めていない僕は、やっぱり浮いて見えるのかもしれない。
「僕に何か用でも?」
「特には無いんだが…依頼の関係でね。一度面識を作っておきたかった」
「そう…」
依頼…。聞き慣れない言葉だった。僕に何かするのが依頼なのか。いや、誰がそんなことするだろうか。僕に関わったって。だって、そうでしょ。
「…お兄さんは、父さんとはどんな関係なの?」
僕の父さんには、変わった知り合いがたくさんいる。きっとこの人も、その中の一人なのだろう。けれど、こんな人の話は聞いた覚えがない気がする。ただの気のせいかもしれないけど。
お相手は背を向けて、夜になりかけた空を仰いだ。音の無い時間が過ぎていく。その間の中で自然と、これから言い放つであろう答えに期待してしまう。
期待していたんだ。
「…君には関係の無いことだ」
「えっ」
何だそりゃ。何の間だったんだ。
「そうそう」
「何?」
まだ何かあるの?
「あいつに近々寄ると伝えておいてくれ」
短い言葉を吐き残して、その人は公園から出ていった。僕は夜に溶け込んでいく男に追い付こうとしたけれど、何しろ背丈も足の長さも全然違って、いつしか引き延ばされていく距離からその背中を見送ることにした。
その男の振る舞いは、彼に似ていた。そうに僕は感じた。表情は相変わらず冷たく、というか無表情で何を考えているのか分からない。寒がりなの格好つけなのか、両手を頑なにポケットから出そうとしない。体をくねらせたり物に寄りかかったりしてまっすぐ立たない。あまり話そうとしないし、自分が話し終わると用が済んだかのように勝手に消えていってしまう。そんな男の姿が、僕の描く空想の彼が重なっているようで、自然と男に対する興味が湧いていた。
3
「ただいま」
家に着いた時には午後七時を回っていた。
「お帰り。遅かったね」
父さんの返事を聞き流しながらリビングに入る。いつもの流れで荷物を置いて、布団を捲りながら炬燵に深く足を入れる。無意識の動作だった。ホッと一息休憩してから宿題を取り出し、机の上に広げようとするまで、そこに白い箱が置いてあった事なんて気が付かなかった。
「お父さん、ちゃんと冷蔵庫に入れておいてよ」
台所で野菜を切りながら母さんは言った。
「分かってるよ。ただ入れておく前に維歩に見せたかったからさ」
父さんは大きく笑みを浮かべ、ぶっきらぼうに僕の頭を撫でた。恥ずかしそうな笑みを返すと、満足したのか、よいしょと立ち上がって箱の取っ手に右手の指を通し、冷蔵庫の手前の方にしまった。
「ケーキはご飯の後にしてね。もうちょっとで出来るから」
「分かった」
夕ご飯が出来るまでまだ時間があるなら、休みの宿題に手をつけ始めようかな。けっこう量あるし。
「維歩、冬休みはいつからだ」
「んーとね、今日が二十一日だから、明日終業式があって冬休みは明後日からかな。ちょうど祝日だし」
手を動かしながら質問に答える。宿題は作業みたいなもので、頭を使わなくって楽だ。毎日毎日漢字練習や計算問題をやって、連休になっても配られて、一体何の得があるんだか。
「父さん、何で休みになっても宿題が出るのかな」
「そりゃ、何においても基礎は大切だろう。大人になっても字は書くし、お金の計算だってするからね」
「ふーん」
「簡単な事でも続けていくことは大変だし、大切な事なんだ。やった事がそのまま全てじゃない。宿題はいろんなところで為になるさ」
「例えば?」
「さっき言った継続とかさ。宿題さぼって大きくなったら、途中で諦めるような人になるかもな。計算も、論理的な考えが育って詐欺にひっかかりにくくなるって言われるし」
「それに、字には人の心が出るのよ」
母さんが白く湯気の出た料理を持ってきた。どうやら夕ご飯が出来たらしい。
「字を丁寧に書く人はしっかりしてるし、反対に、適当に書く人はちょっと荒っぽいのかもね。今度みんなの字を見てみたら。それでみんなのこと少し分かるかもよ」
「…うん、そうだね」
優しそうな言葉をかけながらも、そっと僕の字を見ている母さんの目が怖くって、背筋がゾッと震えた。
僕は知ってる。人間は、本音を隠して話をする。言葉の影に言いたいことを隠して。それで、ムキになったり、いじけたり。
人間は怖い。面倒くさいことばかりだ。
宿題を一旦片付けて、机の上を空ける。布巾でさっと拭いて料理を運ぶのを手伝った。おかずを真ん中にして囲むように、箸やお茶碗、汁物を置いていって、みんなが座るのを待つ。
「いただきます」
手を合わせ終えたら我先にと箸を取り、手を伸ばしておかずを摘まむ。それをご飯の上にのせ、口の中に一気に抱え込む。
「そんなに急がなくても、ゆっくり食べましょうよ。ほらお父さん、テレビ点けて」
「おう」
真っ黒だった画面に色が付き、音声が流れ出す。スーツを着た男性が原稿をちらちらと覗きながら、頑なな表情でニュースを読み上げる。画面の右上には「連続殺人」の見出しが見えて、気を悪くしたのか母さんが「ねぇ」と話しかける。
「お父さん、チャンネル回して。維歩の誕生日にこんな不謹慎な話聞きたくないわよ」
「はいはい」
リモコンでチャンネルを操作する。一通り回してからバラエティー番組に合わせた。
「それで、学校での生活はどうなの。友達とはよくしてるの?」
「相変わらずだよ」
「そ」
食べ物を口に運ぶ。
「自分から話しかけてみたらどうだ。きっかけを作れれば、その後スムーズにいくかもしれないぞ」
そう言われても、今さらになって初めて会話するのは、気がひけるし、勇気がいるな。
「もしも僕に出来たらね。気まずいし、親しくないし、それに話しかけることなんて思いつかないけど」
「何だっていいじゃないか。今日の天気とか、気分とか、何気なく話しかけられれば」
そんなので話しかけられる訳あるか。馬鹿みたいじゃないか。そんなの、一言言って終わるだけ。訊いた方が気まずくなるだけだ。
「んー、難しいな」
言葉を濁して、この話題を終わらせたかった。
耳が痛い。
耳が。
「趣味を聞いて一緒にやってみたり、忙しいふりして手伝ってもらったりさ」
「…それいいね」
まあ、それなら仕方なく頼んだ感じで、話しかけやすいかもしれない。でも、
「でも、明日行ったらしばらく会わないんだよね。三学期まで」
明日いきなり始めるには、まだ心の準備ができていないし、しばらくはいろいろと考えたかった。
「そう言っていつまでも嫌なことから目をそらしてたら、一向に進まないわよ」
「分かってるよ」
でも勇気がないんだ。今日まで出来なかったことが、明日急に出来るようになる筈がない。
嫌な話から逃げる為に急いで口にほおばり、空になった食器を洗い場に戻しに行く。
「おう、ちょっと待ってろ」
父さんが冷蔵庫に駆け寄り、中から白い箱を取り出す。その間に三人分のフォークとお皿を準備して、置かれた箱の中身を覗きこむ。
「一応、人数分以上買ってきたんだ。どれがいいのか分からなくて」
まじまじと見つめる僕に父さんが言う。
「いやさぁ、定番はやっぱり苺のショートケーキだけど、苺嫌いだったらまずいかなって。そういう事たまにあるから、他にチョコレートとかモンブランとか買っておいたぞ」
苺の乗ったショートケーキが二つ、三角と四角の二種類のチョコレートケーキが一つずつ、モンブランが一つ、あとは果物がたくさん乗ったよく分からないのがある。
「食べ物の好き嫌いが激しい人って人の好き嫌いもそうらしいわよ」
「それは関係ないだろ…」
父さんが何かぶつぶつ呟いた。
「維歩から選びな。好きなやつ」
「あ、モンブランは私が食べるから」
「おいおい」
んー。
ショートケーキかチョコレートケーキ、果物のやつからどれにするか…。
「この具だくさんのさぁ、ケーキなの」
「ケーキというよりゼリーかな。果物ゼリー」
「じゃあ苺かチョコかな。やっぱりケーキが食べたいし」
どっちにしようかな。
「今日一つ食べて、また明日にすればいいんじゃない? 三つ余るし」
「そうか。なら父さんは維歩の選ばなかった方を取るぞ。そしたら明日また選べるだろ」
「んー、じゃあ定番の苺の方にしようかな」
「はいよ」
ケーキをお皿の上に持ってきて、周りの薄いのを剥がす。さて、一口目。
「…苺って先に食べるべきかね」
「自由じゃない?」
苺残すと食べにくいし、かといって苺先に取ったらただのショートケーキだし。そんなこと考えて、結局先に食べた。三角のショートケーキが残った。下らない話だ。
父さんと母さんもご飯を終えてケーキに手をつけ始めた。父さんは三角の方のチョコレートケーキ、母さんはモンブランだ。
「チョコレートって味飽きないの? これみたいに中に何もないじゃん」
「飽きる前に食べ終わるから」
「へぇー」
味の変化か。これにもないな。
「んっあれっ、ショートケーキの中にも苺あるのか」
「ハハッ」
「えっ何?」
何で父さん笑ったの?
「いや、昔友人が苺嫌がってたのを思い出して」
それからイタズラ仕掛けあって楽しかったなとかなんとか。
「ああ、そういえば父さんの知り合いって言う人に会ったよ。今日の夕方に公園でさ」
「ほー、どんな人だった?」
「どんな人…」
顎を手でいじりながら軽く上を向く。どんな人。どんな人って言われても…。
「見たことない人だった」
「それだけだと誰だか分からないな」
えーとね。彼みたいな…って言っても分からないよな。
「古い友人って言ってたかな。でもまだ若そうだった。大人に成りたて? 大学生くらい?」
「古い友人…しかも二十歳前後か。古いって言うくらいなら六年前以前のことだろうし、知り合った頃はまだ子どもだったってことか…」
「僕に会っておきたかったって言ってたよ」
「維歩にか。ますます分からないな」
首を傾げる父さん。どうやら心当たりはないみたいだ。依頼って言ってたのも、父さんとは関係ないことなのかな。
「そもそも大学生で古い友人だなんて事ありえるのか? こんなおっさんと子どもが友達だったなんて」
言われてみれば確かに謎だ。昔といえども父さんはすでに大人になっていた筈だし、いつだろうと歳の差は変わらない。どんな付き合いが考えられるだろう。
「…まあ、近々会いに行くって言ってたから、すぐに分かるかもね」
「そうなのか?」
「うん」
話が終わった所で、もう一度食器を片付けに行く。
「じゃあもうお風呂入って寝るね」
「おう」
「お父さん、洗い物手伝ってね」
「おう」
明日から何かが変わる。そんな気がした。
4
雀の鳴き声と暖かな朝の光に迎えられ、まだ半分眠っているような感覚でリビングの炬燵に直行する。テレビでニュースが流れているけど、どうせ昨日と同じ話だろうと、眠気に身を委ね右から左へと音を聞き流した。母さんがご飯を持ってきても潜ったままで、しばらくして
「早く食べないと学校遅れるわよ」
なんて言われてやっと、しぶしぶ上体を起こして朝食を済ませる。時計の針を見てまだもう少し入っていたいと惜しみながら、ボサボサの寝癖を直して、歯を磨いて、着替えて準備を完了する。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
外に出たら事故に注意する。この時にはもう頭は起きてるつもり。あくまでつもりだから、まだ寝ぼけてるかもしれない。
家から学校まで十数分、この間に信号やカーブミラーをいくつか見るけど、そうゆうのが設置されていない十字路を渡る時は、余計に注意がいる。見通しが悪くて運転手にも気付かれにくいから、小学生の飛び出し事故が問題になっているとか。
細道を抜けて大通りに出る。後はこのまま道なりに進むだけ。この道はこの時期には銀杏の葉が散ってしまうけど、秋には夕方になると綺麗なオレンジ色に染められて、いい景色が見れる。一角にはレストランや本屋、脇の小路に入れば年期のはいった行きつけの公園もある。といっても僕ぐらいしか寄らないけど。
目的地に近づくほど同じ学校の子が増えてきて、少し気まずくなる。あまり目を合わせたくない、というか会いたくない。僕の周りは未知の敵だらけだ。入っていく隙なんて用意されてない。そういうものだ。
「…はぁ」
当たり前の事だが、とうとう学校に着いてしまった。
下駄箱に靴を突っ込んで、上履きに履き替える。廊下をまっすぐ進み、階段を登って数歩歩いた先の教室のドアを静かに開ける。その流れで人混みをかき分けて、自分の席まで行ってカバンを降ろす。椅子を引いて静かに座って、やることも思い当たらないから机に伏せることにした。
分かってるんだ。そうやって、壁を作っているのは分かってる。でも、こうでもしないと、僕は自分の身を守ることができない。
…周りは賑やかだ。楽しそうに笑い声が聞こえてくる。友達同士で何か話し合っているのだろう。明日から休みだし、遊びに行く約束でもしているのかもしれない。
まあ、僕には関係ない話だ。
しばらくするとチャイムが鳴り、いつものように先生が教室に足を踏み入れる。短い挨拶をしてから、今日の予定を簡単に説明して、みんなで体育館に向かった。校長先生のお固い話から冬休みの過ごし方のルールまで、この後十時くらいまでずっと話を聞くことになる。その間ずっとみんなで、冷たい床の上で体育座りを我慢するのだ。これがとっても辛い。どうにかならないものかと。
なんて思いながら耐えしのいで、ついに長引いた話も終わった。立ち上がってお辞儀をして、列に加わって教室まで戻った。
番号順に呼び出され、通知表を受け取る。成績はまあそこそこだった。勉強が得意って訳でもないし。人並みが一番だと、そう思う。目立つのは怖いから。
先生が話している間も、僕はぼーっと過ごして、放課を待った。何も考えなかった。冬休みになったからといって特にしたい事もないし、ただ楽が出来るだけだ。この後のことを考えると、僕はもう、ただの脱け殻になっていた。
話が終わったようで、誰かが号令をかける。僕も周りに合わせて、足を伸ばして椅子を引いて、軽く首を前に傾けた。途端に騒がしくなって、何人かが弾けるように教室を飛び出していく。残った人たちも、次第にグループを組み出してガヤガヤと話し込んでいる。
独り者には場違いな雰囲気。それに耐えられそうになくて、僕も部屋を後にした。
廊下で笑顔とすれ違う。階段で追い越され、下駄箱に着いた時には、すでに外に出ていた。靴を履き戻して校庭に出ると、空から明るい眼差しと、この時期としては有り余るほどの、温もりというよりむしろ蒸し上がるくらいの熱を受けた。
「…大きなお世話だ」
僕の中で何かが欠けている。きっと、大切な何かが。この感覚をうまく言い表せるそうにない。胸に穴の空いたような、僕自身が何者でもないような、非力で空っぽになった感じ。そんな感覚が、白い日だまりの中で不意に僕を襲った。僕はしばらくそこに立ちすくんでいたのかもしれない。僕にとってこの不思議な、虚脱感というものに似た感覚は、これが初めての経験だっただろう。
「…知らない」
そんなものは知らない。考えたって仕方がない。とにかく、早く学校から出よう。
校門で一度振り返った。この景色もしばらくは見ないだろう。次に来るのは年が明けてからになる。それまでに僕は変われるだろうか。
足元に嵩んだ落葉と顔合わせをしながら、僕は例の公園に向かう。時刻は十一時前後、普段より日が高いせいか、何だか違う感じがした。それでも僕のする事は変わらず、いつものように彼を目覚めさせ、話を持ちかけるのであった。
「…そりゃ君に欠けたものなんて数えきれないほど沢山あるさ」
彼はきっぱりと言った。僕の内面なんてお構いなしに、思った事をそのまま口から発した。躊躇のない率直な意見と彼の悪びれのない真っ直ぐな様子に、僕は少したじろいで、彼のペースに呑まれてしまった。
「君には協調性が足りなければ、自己表現力も欠けている。それが君とみんなとの間に壁を作る要因になっているし、君はそれを克服しようともしてこなかった。僕にはどうしてそんなに欠落しているものばっかり多いのかって、君はきっと悩んでいるのだろうけど、でもそれは、君がずっと目を背けてきたからじゃないのか」
そんなのは自業自得だ、と言われた。
「僕は…」
あの感覚の正体を教えてほしくて黙って聞いていれば、まさかここまできつく言われるとは。結局嫌な思いをしただけじゃないか。そう、またへこたれて、沈んだ
「君は変わりたいんだろ? 足りないものを手に入れたいんだろ?」
何か、いつもは他人事みたいに素っ気ない態度をとる癖に、今日はやけに責めてくる。
「君が言ったんだよ。違うかい?」
「…手に入れるって言っても、今まで逃げてた事をどうやって克服するのさ。ある日突然、出来るようになるとでも思ってるの?」
まさか自分の口からそんな言葉が出るなんて。これを聞いたらきっと母さんに「何開き直ってるの」って叱られるな。口から火を出して。
でも彼は、僕の様子を見てニヤリと笑った。その顔はまるで、僕がそう言うのを待ちうけていたかのようだった。それが何だか癪だった。
「そこでね、君の為に持ってきたのさ」
「…何を?」
少し気味も悪かった。彼の思惑通りに話が運んでいるみたいで。それでも彼の心が見え透かなくて。一体何を考えているのさ。
「チャンスさ。君が誰かを助けるチャンス。まあ成功するかは君次第だけどね」
「…はあ。僕は、それで僕は変われるのかな」
「それも君次第」
「じゃあ、チャンスっていうのは、具体的にどんな事をするのさ」
「後で分かるさ」
「いつ、どこに居ればいいの?」
「そのうちやってくる」
何も情報をくれない。勿体ぶってないで教えてくれればいいのに。やっぱりいつものように他人事だっていうのか。
「じゃあな。頑張れよ」
「えっ、終わり?」
彼はさっと消えた。謎だけ置いていってそそくさと出ていった。
「……はぁ」
深いため息が出た。当然だ。一体僕にどうしろっていうんだ。これから何をすればいいっていうんだ。
…もう家に帰ろう。ちょうどお腹も空いてきたところだし。変な妄想を見るくらいなら。
大通りを抜けて細道に入る。午前中に通った道を、そのまま反対側から歩んでいく。登校時には隠れていたものが、角度が違えばこうして見えるようになる。
標識。看板。街路樹。その他も。それに今日は薄暗くないから、普段気が付かない色にも意識がいった。
例えば、壁についた赤い染みとか。
「…塗ったのかな」
それにしては点々とばらけていて、ずいぶん雑だね。掠れたりむらがあったりして、いっそのこと全部真っ赤にしちゃえばいいのに。
染みは壁沿いに続いていった。その痕に案内されるように進むと、気が付いたら自宅の方向を通りすぎていた。
「…道がもう分からないな」
そう呟きながらも、心の中は不安より好奇心の方が強かった。この線は一体どこまで引かれて、どこへ続いていくのか。何でこんなものが塗られているんだ。自分ではもう振り返ることが出来ない程だった。
手がかりを頼りに無心で追いかけた。自分の知らないものを見つけるため。そして、数十メートル先の角を曲がった時、それは唐突に正体を現した。
そこに血塗れの女性がいた。紅く浸った女の人が、コンクリートの塀にもたれて倒れていた。魂を抜き取られたみたいに。意識があるようには感じられず、虚ろな瞳は西の方を覗いていた。
鮮やかな赤色が目に焼き付く。その光景に僕は心を奪われ、口元が微かに歪んで、両目を見開いたまま動けずにいた。
彼女はまるで、棄てられた人形のようだった。




