2.北の森の朝
日が昇るまでぐっすり眠れたのは、いつぶりだろう。
眩しさに瞼を上げると、天幕の隙間から陽の光が差し込んでいた。
空腹を感じたのも久々だった。徐々に意識が覚醒していくうちに、今は翼の痛みがないからだなと気づいた。
「おはよう。ご飯食べられるか?」
天幕の隙間から顔を出したのは、サブリナだ。陽の光に照らされた彼女は透き通るようで、きらきらして見えた。
「お腹、空きました……」
クレイが素直に身を起こすと、彼女はほのかに笑ったようだった。
天幕から這い出ると、焚き火に鍋がくべられていて、野菜のスープが湯気を立てている。
「熱いからゆっくりな」
器にスープをすくって渡された。両手で持つと暖かくて、それだけでホッとした。
ゆっくり、と言われたのに、ついがっついて「あちっ」と唇を火傷した。
何度か息を吹いて冷まし、口に含む。野菜の甘みと塩だけの素朴な味が広がった。
「ああ……美味しいです。本当に」
お腹に染み渡るようで、クレイはしばらくその幸せに浸った。
「気に入ったならよかった」
様子を見ていたサブリナも自分の分を食べ始める。鍋が空になるまで、ふたりは暖かい食事を楽しんだ。
「もう少し休ませてやりたいんだけどな。今日は森の魔女に挨拶に行かないといけない」
天幕を片付けながら、サブリナは本日の予定を告げた。
「魔女?」
鍋と食器を拭いていたクレイは、首を傾げた。まるで小鳥のようだな、とサブリナは思った。
「顔見知りでな。森に入ったことはバレているはずだから、顔を出さないと後が怖い」
「どうなるんですか?」
ごくり、と唾をのむクレイを見ると、いたずら心がくすぐられる。サブリナは、ニヤリと黒い笑みを浮かべた。
「孫子の代まで祟られるんだ」
その時、サブリナの肩に、ばさり、とカラスが降り立った。
「おい、人聞きが悪いことを言うな」
クレイはポカンと口を開けてカラスを見た。声は、確かにそのカラスから聞こえた気がした。
「待ちきれなかったのか?君、友達少ないもんな」
サブリナは、カラスに親しげに話しかけた。
「誰が友達だ。はじめての奴がいるから迎えに来てやったんだよ」
確かに、カラスの嘴がぱくぱくと動いて、男の声で喋っている。
カラスは、呆けているクレイの方を見た。
「ふん、あんたも難儀な人生だ。サブリナといい勝負だぜ」
と、意味深なことを言われるが、クレイは答えられなかった。
「まあついてこいよ。土産がないなら帰ってもいいがな」
カラスは言い捨てて、ばさりと飛び立った。
「クレイ、行こう」
サブリナは、突っ立ったままのクレイの手を引いた。肘の下に腕を入れて、足の悪い彼を支えるように歩く。
クレイは、ハッと気がついて「ありがとうございます」と囁いた。
心なしか、カラスの進む速度もゆっくりだった。
森が深まる頃、カラスは一本の木にとまった。
「闇の間に間に、花の咲く屋根の、我が愛しの小さき人の帰る場所……」
カラスが低い声で何ごとか呟くと、風が吹き、木々が騒めいた。カラン、カラン、とよく響く鐘の音がする。
「イオ先生!おかえりなさい!」
木々の向こうから、クレイの腰ほどの高さの少女が走ってきた。え、と彼女を見ると、その背後にはいつのまにか赤い屋根の家がある。
「ただいま、ミント。お客人だよ」
カラスは、いつのまにか長身の男に姿を変えていた。男は丸眼鏡の奥で、少女に優しい瞳を向けている。
ミントと呼ばれた少女は、サブリナに思い切り飛びついた。
「サブリナ!怪我はしていない?」
サブリナもにこやかにハグを返した。
「ありがとう、ミント。私は大丈夫。治療が必要なのは、彼の方」
目線で誰何されたように感じて、クレイはよたよたしながらミントの前にしゃがんだ。
「クレイです。あなたが魔女殿ですか?」
ミントは人見知りするように、元カラスの男の背に隠れた。ひょっこりと顔だけを出して答えてくれる。
「わたしはただのミント。魔女はイオ先生よ」
クレイが顔を上げると、男が見下ろしてくる。学者風の見た目だが、威圧的な態度はカラスの時と変わらない。
「そうなんですね。失礼しました、イオ先生」
クレイが目尻を下げて挨拶をすると、イオはふん、と鼻を鳴らした。
「サブリナより礼儀正しくて気に入った。さあ家に入れよ」
くるりと背を向けると、ミントを抱き上げてさっさと家に向かってしまった。
サブリナは、クレイが立ち上がるのを手伝いながら耳元に囁いた。
「男が魔女なんて変だって言う人が多いからね。クレイが受け入れたことが嬉しかったんじゃないかな」
クレイはうーん、と首をひねる。イオは別に嬉しそうには見えなかった。
納得していない様子のクレイに、サブリナは今度は大きな声で言った。
「イオはツンデレだからな」
すると、丸々としたリンゴがサブリナめがけて飛んできた。サブリナは片手で受け止めたが、ぶつかっていたらちょっと痛いくらいではすまなかった気がする。
サブリナは、はぁとため息をついて、ポツリと呟いた。
「クレイは、面倒な奴に気に入られたね」
気難しい魔女には聞こえていないようだった。




