昼の蛍
ただ、ぼんやりと用水路を眺めていた。
この辺りの用水路は近くの川から引かれているのだがとても水がきれいで、昔から季節が来ると夜は一面が淡い光で埋め尽くされる。
街灯も一切無い真っ暗なでこぼこ道を懐中電灯を頼りに歩くこと五分ほど。一歩水田地帯に足を踏み入れればそこは別世界だ。子供の頃は毎年毎年、近所の幼馴染連中と飽きもせずホタルを追いに来たものだった。大人の引率付きだったが。
今は自分が大人になり引率する立場にはなったが今日は連れは誰もいない。今の時間はアニメのゴールデンタイム。子供たちはみんなテレビに釘付けだ。大人たちは酒と思い出話に釘付けで、だから陽介はひとり、こっそりと宴会の場を抜けてきた。久々の故郷は温かいがまた鬱陶しくもある。
懐中電灯を消し真っ暗な闇の中、昼間は田畑仕事の爺さん婆さんの憩いの場になる大きめのブロックに座り、陽介は三年ぶりの故郷でゆらゆら光るホタルに囲まれていた。聞こえるのは、ザーザーと流れる用水路の音だけだ。確か前に帰って来たのは五年前の冬、姉の結婚式だったと思うから、陽介はずいぶんと薄情者の部類に入るだろう。
これで陽介が煙草でも吸えばホタルの仲間入りができるところだが、あいにく陽介は煙草を吸わない。自分は光ることなく完全にただの障害物と化してじっとホタルを眺めていた。たまに陽介にとまって光るホタルがいる。昔はあれほど追い掛け回したのに、今は獲り放題だ。
ぼんやり眺めていると、ホタルとは違う眩しい光がちらちらと目に入った。誰か来たのだろう。今はちょうどホタルの最盛期、この辺の人間以外も少し遠くの田んぼ道に車を停めて見に来ることもあるくらいだから、人が来るのは仕方がない。この辺り一帯がホタルの名所なので、ぼーっと座って眺めていくのは陽介くらいのものだろう。
「あー!陽介!見つけた!!」
「ゆかり、煩い。ホタルが逃げる。あと眩しい」
通り過ぎるだろうと思った光は思い切り陽介を照らした。暗闇から一転、懐中電灯を直接向けられて目がちかちかする。
「ごめーん、陽介が消えたって皆が騒いでたから、蛍太と探してたんだよ」
「お前アホか、今日の主役がふたりして探しに出てどーすんだ」
「陽介探すならやっぱ私たちでしょう~」
懐中電灯を下に向け、けろけろと楽しそうに笑うゆかりに「それ消せ」と言うと、「へいへいー」とゆかりが隣に座って懐中電灯を消した。辺りがまた暗闇に戻り、ちらりほらりと淡い光が戻り始める。
「んで、その肝心の蛍太どこ行った」
周囲には他の懐中電灯の明かりは見えない。いくら慣れているとはいえ懐中電灯なしにこの辺を歩くなど用水路に落ちたいと言っているようなものだから、さすがに暗闇を歩いてくることは無いだろう。
「蛍太はすが沼の方行ったよ。どっちかに居るだろうからって」
「何、お前ひとりで来たの?アホなの?不用心過ぎないか?」
「陽介だってひとりじゃんー」
「俺は男だろーが」
慣れてるから―と笑うゆかりの後ろをぺしりと軽くたたく。「陽介ひどい!」とゆかりがまたけろけろ笑った。
「んで、大切な幼馴染の結婚祝いの宴会を抜け出して、何ひとりで黄昏てんのさ」
足をぷらぷらさせながらゆかりが言う。その動きに驚いたのかぱっと淡い光が散った。
「八年ぶりの蛍なんだよ。お前みたいな騒がしいのも連れてきたらゆっくり鑑賞できねーだろうが」
ゆっくり感傷にも浸れない。それは陽介は言わなかった。
「そんな珍しい~?」
「ずっとここで暮らしてるお前には、この儚さと美しさはわかんねーよ」
「何それ、陽介、ロマンチスト~?」
「おうおう、ロマンチストだぞ。歴史好きってのは往々にしてロマンチストなんだよ」
陽介は歴史を学ぶという名目でここより少し都会の歴史に強い大学へ進学した。ありがたいことに就職も大学から遠くない小さな博物館の学芸員の座を射止めることに成功した。それもあり、新幹線を乗り継いで四時間以上かかる故郷へはほとんど帰っていなかったのだ。
「陽介って何時代の勉強してたんだっけ?」
「主に江戸だな、特に幕末」
「文明開化的な?」
「それはどっちかっつーと明治だが、そこに繋がるあたりだな。あれだ、坂本龍馬とか」
「あー、その名前は知ってる」
坂本龍馬の名を聞いて『その名前は知ってる』にしかならないゆかりは、あまり学校の成績は良くなかった。本人も勉強は嫌いだったこともあり、大学へは進学せずに今は家業を手伝っている。ゆかりの家は梨農家だ。
「ふーん?」と自分が聞いたくせにまったく興味を持たないゆかりに、陽介は興味を持ちそうな話を振った。
「名は体を表すって言うけど、蛍太はまさしくだったな」
「ナワタイ?」
「お前はもう少し常識を学べ」
陽介が呆れたようにゆかりを見ると「知らなくても生きていけるもん」とゆかりが拗ねた。暗くて表情は見えないが、声が拗ねている。
「名前ってやつはその人や物の本質をよく表してるって意味。蛍太は、まさしくホタルだったな」
「何でホタル?」
「お前、都都逸ってわかる?わかんねーよな」
「ドド?」
「悪い、聞いた俺がアホだった」
そうだな…と少し悩むと、陽介が言った。
「あれだ、『立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合のよう』って聞いたこと無いか?」
「美人!!」
「そうそれだ。それみたいに七・七・七・五のリズムで作られた江戸後期に流行った歌を都都逸っていうんだよ」
「ほぇー。んで、何でホタル?」
「都都逸に、ホタルの歌があるんだよ。『恋し恋しと鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす』っての」
「うーんと?」
「つまり、恋しいよ―恋しいよーってミンミン騒ぎ立てる蝉よりも、静かに光るホタルの方がずっと恋に身を焦がしてるって意味だな」
「陽介、ロマンチスト!」
「俺じゃなくて江戸時代の人だけどな」
ロマンチックな話をしているはずなのにさっぱりとロマンが感じられないゆかりとの会話に苦笑しながら陽介は続けた。
「蛍太は、誰よりも静かに強くお前を思ってた。そんでお前をついに射止めたわけだから、見事なホタルだろ」
そう陽介が笑うと「えー」と笑いを含んだ声言いながら隣でゆかりが身じろいだ。
「まぁ、射止められたけどねっ!」
「へいへい、ごちそーさん」
陽介が蛍太の思いに気づいたのは十五の時だった。陽介と蛍太、ゆかりは物心ついたころからの幼馴染だ。小学校はこの辺の子供しか通わない小さな学校だったが、中学に上がると他の地域とも合同になりかなり人数が増えた。
この辺ではそれなりに可愛かったゆかりはしょっちゅう告白もされていたが、恋愛なんぞより陽介と蛍太と祖母ちゃんの梨園で手伝いをしている方が楽しいとぶった切っていた。
そんなゆかりを見る蛍太の目が『違う』と気が付いたのがその頃だった。実際のところ、いつから蛍太がゆかりを思っていたのかは陽介には分からない。
高校も三人で同じ公立に通ったが、蛍太の目は相変わらずゆかりを追っていた。ゆかりは押しに負けて何人か付き合ったようだが、どいつも一ヶ月ももたなかった。最短は三日だった。
陽介がここを離れるまでは、いつも三人でつるんでいたと思う。ゆかりは祖母の梨園に入り、蛍太はバスで通える大学に進学した。陽介のいない間に二人の間に何があったのかは知らない。だが、蛍太は十年越しの恋を実らせ、今年の秋にゆかりと結婚式を挙げる。
「陽介はさ、そういう相手はいないの?」
けろけろと笑っていたゆかりが突然言った。
「俺か?」
「うん。だって陽介、ずっともててたのに彼女いなかったでしょう」
「もてた記憶もないぞ」
これは嘘だ。成績が良いやつというのは外見はそれなりでも何となく良く見えるものらしい。それなりに告白もされたが、陽介は全て断っていた。いちおう、こっそりだ。
「うっそだー!私よく、陽介君を解放してって意味の分かんないこと言われたもん!」
「それはまた…なんか、悪かったな?」
そっちは陽介も初耳だった。まさかゆかりにとばっちりが行っているとは思っていなかったのだ。
「んで、いないの?」
ゆかりが重ねて聞いてくる。「そうだなぁ」と陽介は言った。こんな時、暗くて表情が見えないというのは実に良いと思う。
「俺は、昼のホタルだからな」
「昼のホタルぅ?」
「何それ意味わかんない」とゆかりがぶーぶーと文句を言っている。「ずっといないってことだよ」と陽介が笑うと「いい加減作りなよー」とまたもぶーぶーと言われた。余計なお世話だと、陽介は思った。
「よし、そろそろ帰るぞ。俺は間男とは呼ばれたくない」
「マオトコ?」
「もういいから。帰るぞ」
陽介はおもむろに立ち上がるとパンパンと尻を払い、ゆかりに手を差し出した。気配で分かったのだろう、ゆかりが陽介の手を取ったのでぐいっと引っ張って立たせた。無数の淡い光がぱっと散った。その光で、ほんのりとゆかりの小さな姿が浮かび上がった。
「…懐中電灯、つけろ」
陽介が言った。「あぶねーから端によるなよ」と言うと、ゆかりも懐中電灯をつけながら「子供じゃないし!!」と拗ねたように笑った。
その後はたわいもない話をしながらゆっくりと帰り道を歩いた。幼馴染というのは忘れてくれた方が良いことも覚えているからたちが悪い。陽介は何度もため息を吐くことになった。
「陽介さー」
会話がふと途切れたタイミングでゆかりが言った。
「蝉でもホタルでもいいから、好きな人ができたらちゃんと意思表示しなきゃダメだよー?」
「…おう、まかせとけ」
―――余計なお世話だ。もちろん陽介は口に出さなかったが。
五分ほどでゆかりの家に着くと、門の前に蛍太が立っていた。陽介たちに気づくと「おかえり」と笑った。
「たっだいまー!!陽介いたよ~!!」
ゆかりが大きな声で言いながらバタバタと家へ走っていく。「おーう、おかえりー!!」と酔っ払いたちの大声が聞こえる。田んぼと山に囲まれているおかげで迷惑をかける家は少なくて助かる。
「悪かったな、探させて」
肩を竦めて陽介も門をくぐろうとすると、蛍太にぐっと肩を掴まれた。「どうした?」陽介が振り返ると、蛍太の真剣な視線と目が合った。
「陽介、言えたか?」
何が、とは言わない。陽介が気づいていたように、蛍太も気づいていた。ただそれだけだった。
「いや?何も」
「陽介、俺は」
「蛍太」
何かを言おうとした蛍太を、陽介は止めた。そうしてにやりと笑って言った。
「俺はお前が…お前らが好きだよ。何も気にせず、前だけ見てろ」
そうしてぽんぽんと蛍太の肩を叩くと陽介は門をくぐった。今度は止められることなく、蛍太も後ろから着いて来た。
陽介が自分の思いに気が付いたのは十一歳の時だ。別に特別なことなど何もなかった。ただ、ホタルを見に行った帰りに「また明日ね!」とめいっぱい笑ったゆかりを見て、素直に好きだと思った。それだけだった。
中学に入り、高校に入り、それでも陽介は昼のホタルのごとく静かに隠れて何も言わずにただ見ていた。蛍太の思いに気が付いてからは、むしろ一歩引いたくらいだ。
ゆかりの視線が変わったことに気づいたのは十七の頃。進学に悩む蛍太を見る目が焦りをはらむようになった。だから陽介は蛍太に地元の大学を勧め、自分は夢のためにと言って遠方の大学を選んだ。三人で居たら誰も先に進めない。そう、思ったからだ。
あの時の自分の判断は間違っていなかったと陽介は思っている。陽介の大切な二人は季節が来て仄かにけれど確かに光り、その恋を成就させた。相変わらず、鳴くことも光ることもできない陽介をおいて。
「ただいまー」
陽介が玄関を入ると、どたどたと子供たちが出てきた。陽介の姉の子たちと蛍太の兄の子たちだ。
「おじちゃん、由衣もホタル見たかったー!!」
姪っ子が絡みついてくる。四歳になる由衣は初めて会う叔父を大層気に入ったようで、アニメを見ていた間以外はずっとまとわりついていた。
「おー、ごめんな。明日一緒に見に行くか」
「行くー!!」
蛍太の兄の子である男児二人も一緒になって跳ねている。頼むから俺たち三人のようになってくれるなよと、陽介は目を細めた。陽介の姉の家も蛍太の兄の家も、皆この地で農業を営んでいる。
「約束な」笑って頭を撫でてやると、また由衣がへばりついてくる。そのまま抱き上げて陽介はリビングへ入った。
「遅いぞ陽介~、酒が無くなる!」
顔を真っ赤にした父母たちが三家族で管を巻いていた。姉の旦那さんと蛍太の兄嫁さんもにこにこと笑っている。陽介が家を出る前はいたはずのゆかりの弟がいなくなっていたが、卒論を理由に部屋へ引っ込んだらしい。逃げたなと陽介は思った。
「へいへい、お酌でもなんでもさせていただきますよ」
「むさい野郎の酌なんぞいるか!お前も飲め!祝い酒でも飲んでゆかりちゃんと蛍太にあやかれ!!」
誰も彼もが幸せそうに笑って騒いでいた。それを見て、やっぱり俺は間違っていなかったと陽介は確信する。
「陽介」
振り返ると蛍太が一升瓶とビールグラスを二つ持っていた。「日本酒にビールグラスかよ!」陽介は笑ったが素直に受け取った。日本酒がじゃばじゃばと思い切りよくなみなみと注がれる。
「よし、乾杯だな!」
「陽介、音頭とれ!!」
「あー?音頭だー?」
少し考えて、陽介はにっと笑って言った。
「蛍太とゆかりの幸せと、それとホタルに!乾杯!!」
「「「「乾杯!!」」」
本日何度目か分からない乾杯をしてゲラゲラと笑いながら大人たちがまたグラスを傾けていく。陽介もぐっと、グラス半分ほどを一気に飲んだ。
喉が焼けるように熱い。目頭にもぐっとこみ上げてくる熱さに、陽介はぎゅっと目を閉じ眉を寄せた。そうして「はあああ」と大きく息を吐いた。
鳴くことも光ることもできなかったホタルはその身を焦がして、燃え尽きた。次に生まれ変わるなら、きっと誰よりも美しく光ってみせよう。
陽介は目の前に広がる温かい光景と守り切った友情に、静かにグラスを傾け続けた。