雨世は青に沈む
「あ!雨だー!」
窓の奥から聞こえるのは不揃いな雨粒の弾ける音。
そのひとつひとつが耳の奥に届く度、水の匂いがつんと鼻を撫でる。
どたどた、と畳の上を走る一人の少女はそのまま、淡い縁の向こう側へ身を乗り出そうとしていた。
「だめっ!」
そんな小さな身体は思いっきり抱き寄せられ、そのまま影とともに後ろへ倒れ込む。
「雨はダメって、前から言っているでしょう!?」
少女の母親は、息を切らしながら大声で怒鳴った。目を離して家事をしていたのに、足音を聞きつけて慌てて駆け寄ってきたようだ。
「いい、雫。雨には触っちゃいけないよ。」
「どうして?」
少女には不思議でならなかった。いつも笑顔で、何をしても優しく許してくれるような母親が、どうして雨に触れようとするとこうも感情を露わにするのか。どうして、雨に触れてはいけないのか。
「どうして、雨はダメなの?」
「雨は穢れているからね。触ると、良くないことが起こっちゃうの。」
なんて、もう何度目かわからない言葉を聞く。
それが母親の妄言なのか、はたまた言い伝えられているものなのか。まだ幼かった少女には知る由もなかった。
ただひとつ確かなのは、少女の雨への憧れだった。
そうして少女は成長を重ねる。みんなと何も変わらない、普通の女の子として。
小学校にも通い出した。友達も沢山出来た。
少女は好きだった。みんなと楽しく、笑い合える場所が。
いつものように帰ってきては、その日学校であったことを嬉々として話す。そんな少女の様子に、母親も心の底から幸せだった。
そうやって幸せに、何も不自由なく暮らしていた。
ただひとつを除いて。
「お母さん、今日もありがとう。行ってくるね。」
少女は大きな傘を広げ、車から降りる。足の先から頭のてっぺんまで、少しも雨に濡れる事は許されていないのだ。
「いってらっしゃい。気を付けてね。」
「うん。またね。」
そうして少女は重い空気の中を歩き出す。
何があっても濡れないように、傘の下でも大きなレインコートに身を包んでいる。
「雫、おはよー。今日も大変だねぇ。」
「あ、ゆみちゃんおはよー。」
下駄箱の手前、ようやく辿り着いた屋根の下でゆっくりと傘を閉じ、続いて纏ったものを脱ぐ。
小さい頃からずっと続けているからか、少女はこれを不自由だとは思わなかった。
ただ、少しの違和感はあった。
「お母さん、どうしてみんなは雨に濡れても良いの?」
帰りの車内、ふと気になって聞いてみる。なんだか、自分が周りと違う気がしたのだ。
「……雫は、特別だから。」
そんな漠然とした答えだけが返ってくる。
そのとき少女はまだ幼いながらに気付く。もうきっと、これ以上何を聞いても無駄なのだと。
「……そっか。」
なるべく気にしないようにしよう、と、心のどこかでそう思っていた。
――
「雫、今日帰り雨降るかも。」
「えっうそ。マジかぁ……」
その声を聞き、鞄に丸まったレインコートを詰め込む。
重いからあんまり持って行きたくは無い。
「雫、レインコート持った?」
「うん。ばっちり。」
そう言って鞄の中を見せる。逆さまにしても教科書が漏れてこないほど、鞄の中はギチギチに詰まっていた。
「気をつけなねー。」
「はーい。行ってきます。」
並べられた靴に足を差し込み、忘れずに大きな傘を手に取る。
そうして玄関の扉を開けた先、未だ眠気の去らない視界に真っ先に飛び込んできたのは、灰色に覆われた空。
嗅ぎ慣れた雨の匂いが、微かに鼻に引っかかった。
「おはよ、雫。……って、なんかもう疲れてるし。」
教室のドアを開けた先で、一人の少女が話しかけてくる。
「今日雨。荷物重すぎー……。」
「あー、なんかいつもでっかいレインコート持ってきてるもんね。あれなら絶対濡れなさそうだけど。」
「まあ、そうなんだけどさ……。」
言葉を交わす内に、やがて前のドアが開く。
「はーいみんな席着いて。ホームルーム始めるぞ。」
教壇の前に立った担任は、そうしてひとりでに話し始める。
「退屈だな……」
言葉が右耳から左耳へ抜ける私は、たったひとり窓際で外を眺めていた。
相変わらず晴れない空からは雨雲が顔を覗かせる。
「気分沈むなあ……」
なんて言って視線を下ろしてみる。
「ん?」
ふと、校舎のすぐ側、グラウンドに誰かが立っているのが見えた。
目を凝らしてよく見てみるが顔はよく分からない。でも、明らかにこちらを見ているようだった。
なんだかとても気味が悪いと思ったが、瞬きと同時にその姿は消えてしまった。
きっと気のせいだと、そう感じた。
「結局雨降んなかったじゃん。」
そう文句を吐いて帰路へ着く。未だ曇りの空は曇りのまま、今まで雨を降らせる事はなかった。
これじゃあわざわざ雨具を持ってきた意味が無い。どうせなら降ってくれても良かったんじゃないかと落胆してみる。
空気の水っぽい午後四時半、どうしようもない気象状態に文句を言いながら歩いている。
とは言ってもまあ濡れることができないわけだから、今からは降らないでほしい。
家まで十五分ほど。大した道のりじゃない。
気が付けば足は速くなっていた。
そうして歩いていた途中、いつもの電柱、交差点に差し掛かったところで妙な感触に気付く。
ぽつ、ぽつと、アスファルトに水の跡が生まれるのが見えた。
雨だ。
反射的に「濡れてはいけない」という衝動に襲われ、鞄の中のレインコートに手を掛ける。
でも今の私はどこか、気が緩んでいた。
「……やっぱいいや。」
掛けた手を下ろし、再び歩き出す。
「……少しなら、大丈夫でしょ。」
なんて言いながらも、私は初めての感覚に心躍らせていた。
冷たい雨水が身体を打つ。その度にぽつりぽつりと、冷えた感覚に襲われる。
なんだか、面白かった。ずっと雨雲の下にいたいとさえ思ってしまう。
そうやって、人の気のない住宅街をひとりで歩いていた。
やがて玄関の前に辿り着く。
「お母さんに怒られちゃうかな。」
扉に手を掛けたときになって始めて、そんな考えが頭を過ぎる。
でもあんまり濡れていないし、きっと大丈夫だよね。
ほら、なんにも起きてないし。
「なんだ、大丈夫じゃん。」
そう呟いてドアを引く。その先にはきっと、いつも通りの景色が広がっていると思っていた。
「ぇっ」
開いた扉から、水が流れ出してくる。開ききる頃には、浴槽をひっくり返したくらいの水が一気に流れ出していた。
私はそのまま固まってしまう。予想外の出来事に、一瞬何が起こったのか分からなかった。
もしかして、水漏れでもしているのか。だとしたら危ない。お母さんに何かあったのかも。
そんな思考とともに、そのまま靴を脱いで玄関から上がる。
案の定水浸しになった床を、一歩ずつ慎重に歩いて行く。その感触が気持ち悪くて、なんだか胸騒ぎが止まらなかった。
「お母さん!」
リビングの扉を勢いよく開ける。若干の水の抵抗のせいで、その音は聞こえなかった。
秒針の音すら聞こえない、ただひたすらに水の音だけが響く部屋を見渡す。
そこに、母の姿はなかった。
「お母さん!?どこ!?」
大声を上げながらキッチンへと向かう。
おかしい。いつもなら家にいるはずだし、どこかに出かけるにしても必ず私に一言連絡を入れるはずだ。
だから、絶対に家にいる。
「ねえ!」
私はキッチンの後ろを覗き込んだ。
やはり、そこには誰もいない。
二階にいるのか、しかし二階は私の部屋だけ。そこにいるとは考えられない。
でも、ここにいないのなら。
そうして顔を上げる私の思考は、目の前のその人影に打ち砕かれた。
「おばあ……ちゃん……?」
信じられなかった。今は体調を崩してどこかの病院にいるはず。
何年か前に会った最後を思い出す。ベッドで一人、横たわっていた。
「おばあちゃん、なんでうちにいるの!?来るなら何か連絡してよ!」
そう言って、水浸しの床も気にせず近寄る。どこか、冷たい空気が流れていた。
退院したの、とか、身体は大丈夫なの、とかよりも先にそんな事を聞く。
その姿はどこか幽霊みたいで、恐ろしさを感じた。
「……雫。」
傍に行って、ようやく口を開く。私は精一杯、その言葉に耳を傾ける。
「……なんで雫が、ここにいるんだい?」
気付けば外へ飛び出していた。どこへ行くべきかもわからないのに、とにかく走る。
いつの間にか地面を埋め尽くしていた水に、足を取られそうだ。
消え入りそうな祖母の言葉に、今度こそ目が覚める。
そうだ、何かがおかしいんだ。
ずっと感じていた違和感。落ちる雨粒に濡れたあのときからずっと、人の気が感じられなかった。
「はぁ、はぁっ。何、これ。」
雨に濡れたから、何かが起こってしまっている。
「雨は穢れているからね。触ると、良くないことが起こっちゃうの。」
今になってその言葉を思い出す。幼い脳にこびり付いた、いつかの声。
穢れてるって何?一体私はどうなっているの?
そんな疑問が次々に湧き出てくる。それに答える人は、どこにもいない。
見つめる手のひらは真っ青で、とても自分の身体だと信じることができなかった。
そのまま、意思に反して身体は歩みを止める。
道端に咲く真っ青な紫陽花に、ずっと見つめられている気がした。
「ねえ、誰か、助けてよ。」
そう助けを願ってみる。
「もう約束破らないから、もう雨に濡れないから。助けて、お願い。」
誰に謝るわけでもないのに、そうやって言葉を吐く。
嫌だ。助けて、助けて。
やがて、世界はどんどんと水に呑まれていく。
もう顔まで、それは迫っていた。
必死に藻掻く。藻掻いても、泡粒だけが弾けて私はどうにもならない。
そうして青に溺れるまま、私は静かに目を閉じる。
悪い夢だと、そう願うことしか出来なかった。
――
ぽたぽたと、水道水の滴る音だけが響く。
「はい……はい……そうですか、母が……」
スマホを耳に当てたまま、ただ呆然と窓の外を眺める。
その雨の向こう側にほんの少し、雨世が覗かせた。
『おばあちゃんの病院に行ってくるので、少し遅くなります。気を付けて帰ってきてね。』
そんなメッセージを残して母は家を出る。
水溜まりの中、その言葉を受け取った端末が微かに振動した。
明日も雨。
それは、止まない。