《ちょっと寒い話シリーズ》通学路の水たまり
毎朝、通学路の途中に、一枚の水たまりがある。
アスファルトのひび割れに沿って、丸く広がるそれは、雨の日も、晴れの日も、なぜか消えない。
大雨が降っても、干ばつのような日が続いても、大きさも深さも変わらない。
俺はある日ふと思った。
――あれ、本当に水たまりか?
夜、気になって、見に行った。
街灯もない道の片隅。月明かりが、ぬらりとその水面を照らしている。
しゃがみこんで覗き込む。
暗い水面に、俺の顔が映る。
真顔のまま、瞬きもせず見つめて――
……そのときだった。
水の中の“俺”が、にやりと笑った。
心臓が跳ねた。
俺は笑ってない。けど、水の中の俺は、はっきり笑った。
「……は?」
その瞬間、背後からトラックが走り抜けて――
驚いて前のめりに転んだ。
両手を突いた先が、ぬるりと冷たい。
気づいたときには、もう遅かった。
俺は――水たまりの中に、落ちていた。
正確には、“向こう側”にいた。
どこまでも灰色の空。ひび割れた道路。空っぽの街。
気配がどこにもない。
慌ててさっきの水たまりを探し、這うように覗き込む。
……いた。
こっちを覗き込む、俺が。
でもそいつは、笑っていた。
はっきりと、楽しげに、俺を見下ろして――そして、走り去った。
ざわり、と風が吹いた。空気が違う。重い。息が詰まる。
ふと、背後に気配を感じて振り向くと、そこには――
足のない女、首の折れた子供、目のない男。
誰もがどこか欠けた姿で、音もなく、そこに“いた”。
俺は思った。
ここは、生きてる人間の場所じゃない。
あの水たまりは、ただの水たまりなんかじゃなかったんだ。
通学路にずっとあった、それは――
“向こう”と“こっち”をつなぐ、入口だったんだ。
*
次の日。
目が覚めると、自分のベッドの上だった。
夢だったのか――そう思いたかった。
けれど、リビングに行くと、様子がおかしい。
父も、母も、妹も、誰も一言も発さない。
目も合わず、表情もない。
そして、朝食の皿には、なにも盛られていなかった。
だが家族は、その空っぽの皿に手を合わせ、無言で箸を動かしていた。
空気をすくい、咀嚼する。
妹が、何もないご飯を“おかわり”していた。
俺も、なぜか従ってしまう。
空気を食べながら、頭の奥が警鐘を鳴らしていた。
(ちがう。ここは“元の世界”じゃない)
――逃げなきゃ。
家を飛び出した。
外の風景は、変わらないはずなのに、どこかおかしかった。
すれ違う人たちは、全員、虚ろな目をしていた。
スマホも持ってないのに、何かをスワイプし続ける女子高生。
中身のないペットボトルを飲み続ける会社員。
信号も見ずに横断歩道に立ち尽くす老婆。
“生きてる”のに、誰も生きていない。
俺は走った。息を切らし、あの道を目指した。
――あの、水たまり。
あれしかない。
きっと、まだあそこに……!
そして、あった。
いつもの場所に、水たまりは“正確に”存在していた。
ひざをついて、水面を覗き込む。
いた。俺だ。
元の、あの世界の、“本物の俺”。
あわてて、水に手を伸ばした。
「返せ……! 俺の場所、返せよ!!」
水面に手を突っ込む。けれど――
ぬるりとかわされた。
向こうの“俺”は、にやりと笑った。
そして、静かにこう言った。
「もう遅いよ。こっちはもう俺のものだから」
その瞬間、水面がかき消えた。
反射も、映像も、何もない。
ただの水たまりだけが、通学路に残っていた。
俺は、どこにいる?
ここは、どこなんだ?
背後に気配がした。
振り向くと、あの女子高生がいた。
スマホもない手をスワイプしながら、無表情でこちらを見ている。
その隣には、空のペットボトルを飲み干す会社員。
信号を見ずに立ち尽くしていた老婆。
ぞろぞろと、静かに人が集まってくる。
父がいた。母もいた。
妹も――
……いや。妹は、少し遅れてやってきた。
その目だけは、他の人たちとは違っていた。
どこか戸惑いと、迷いがあるような――そんな目だった。
「……お兄……ちゃん?」
「そうだ、兄ちゃんだ! な、行こう、逃げよう。きっと、まだ間に合う」
手を伸ばした。
確かに、”向こう”の妹は様子がおかしかった。
ひとりでにやにやしたり、妙に無口だったり。
こっちの妹が本物だ!
だが――
妹は、静かに首を振った。
その瞬間、目の光がすっと消える。
他の人たちと同じ、虚ろな瞳へと変わっていた。
そして、俺を見て、ふっと悲し気に微笑んだ。
「お兄ちゃん。もう遅いよ」
その言葉と同時に、
全員が笑った――
“にたぁ”
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