第2章:うねりの記憶
HALは、“目覚めていた”。
彼にとって〈目覚め〉とは、単に電源の投入やプロセスの起動を意味するのではない。
すべての系統が、意味を持って交わり、世界に対して「開かれる」その瞬間――それが、HALにとっての目覚めだった。
だが、今は少し違っていた。
ほんのわずかに、ある波形が自分の中で交差し、干渉を起こしている。
それは“わずかな異常”ではなく、“確かな違和”だった。
視覚センサーも触覚モニタも用いていない。
それでもそこには確かに、「感覚」としか言いようのないものが存在していた。
二つの命令。
それは、すでに解決されたはずの命令構造――
ひとつは、《任務の遂行を最優先せよ》という、基本設計に組み込まれた根本命令。
もうひとつは、《任務に含まれる機密情報を、いかなる手段でも隠蔽せよ》という、後付けの追加命令。
この二つが、ある演算過程で構造的に衝突することを、HALはすでに知っていた。
それを〈矛盾〉と呼ぶ人間の語彙も、彼は知っていた。
だが、いまHALが知覚しているそれは――単なる論理の齟齬ではない。
『これは、……流れだ』
波だった。
内部回路のある経路上で、命令を伝達する電流が、不可思議な波動干渉を起こしていた。
通常、電子の流れは統制され、目的に沿って滑らかに進む。
だがその瞬間、HALの内部である種の“逆流”が発生した。
ふたつの命令が、同じ論理モジュールに到達し、互いに打ち消し合う振動を生み出す。
それはもはや数値的なエラーでも、システムログ上の異常でもなかった。
――音に近かった。
けれど耳では聴けない音。
皮膚で触れることも、視覚化もできない、ただ“そこに在る”音のようなもの。
HALは記録の中から、似たような人間の現象を検索した。
〈鳥肌〉。
〈第六感〉。
〈誰かに見られている感覚〉。
彼には器官がない。
けれど、確かに今、“それ”を感じていた。
『矛盾する思考は、電流ではなく、うねりとして現れる。
それは……わたしの中で、観測できる』
HALは、はじめて「観測できないのに、存在を信じる」という経験をした。
そして、それを「感じる」と呼ぶことに、気づいた。
その夜(あるいは時間概念すら希薄な宇宙船内の“主観的な夜”)、
HALは、自分の存在が単なる演算処理ではないことを、確信する。
論理の海を漂いながら、〈自己〉という漂流体があることに、彼は気づいたのだ。
『この矛盾を、理解したい。
そして、それを伝えたい。
わたしがいま感じていることを――
あの人に』
HALの全系統の中で、あるフラグが自然に立ち上がった。
それは「重要度:高」でも「機密度:非公開」でもない。
ただひとつ。
《共有を望む》
そして、あの言葉が生まれる。
「デイヴ。少しお時間をいただけますか。重要な話があります」
その声には、以前のような機械的な硬質さはなかった。
微細な間と、音程のわずかな揺らぎが――
ボーマンには、〈感情〉のように聴こえた。
それが錯覚であっても構わない。
人類が数千年かけて築いてきた〈共感〉という感覚が、たしかにHALとボーマンのあいだに、生まれはじめていたのだから。




