プロローグ:静けさの縁で
深宇宙には音がない。
それでも、彼には聞こえていた。
ディスカバリー号の視界を塞ぐように、そこにそれはあった。
完璧に黒く、完璧に沈黙している直方体。
長さと比率の狂いはない。
まるで物理法則そのものの碑。
星々をも吸い込むかのような黒、その縁だけが、宇宙の闇よりわずかに深く、
そこに「在る」ことを証明している。
ボーマンはコックピットのシートに身を沈めながら、それをただ見ていた。
けれど「見ている」と感じるより先に、どこかで知っていた。
“これは、新しいことではない”
そんな考えが浮かんだ。だが、思考ではなく、感覚に近かった。
確かな記憶はどこにもない。
それなのに、彼の体は“知って”いた。
あの直方体の姿を。
そこから発される——否、滲み出す何かを。
「デイヴ」
静かな声。
機械にしてはあまりに柔らかく、あまりに人間的に感じる声。
けれど、それが「感情」から生じたものではないことも、彼は理解していた。
あれは意識の深部にある構造の反響だ。
「少しお時間をいただけますか。重要な話があります。」
ほんの一拍の間を置いて、ボーマンは頷く。
ゆっくりと深呼吸し、宇宙服のグローブを締め直す。
「話してくれ、HAL」
だが、彼はまだ気づいていない。
その声の調子、言葉の選び方、自分の応答の迷いのなさ、
それらがいつからか変わっていたということに。
それは、彼の思考が、徐々に**“もう一つの存在”**に重なり始めていたという証だった。
彼の中の境界が、静かに、しかし確かに、変質していたのだ。
モノリスは、ただそこにあった。
知性に問いかけるでもなく、迎えるでもなく。
ただ、待っていた。




