転生者?聖女?悪役令嬢の私が全部始末してあげる~シャッテンベルク家の完全犯罪~
マリシア・フォン・シャッテンベルク──シャッテンベルク公爵家の令嬢にして、王太子の婚約者。齢十六にして、その美貌と才知は既に宮廷の語り草となっている。
プラチナブロンドの髪が陽光を受けて絹のように輝き、深いサファイアブルーの瞳は見る者を魅了する。磁器のように白い肌と、薔薇色に染まる唇。背筋を伸ばした優雅な立ち姿は、まさに貴族の中の貴族としての品格を物語っている。
古典文学から政治経済まで、あらゆる分野に精通し、五ヶ国語を流暢に操る。音楽や絵画の才能も一級品で、社交界での会話は常に知的で洗練されている。その若さでこれほどの教養を身につけているとは、と年上の貴族たちも舌を巻くほどだ。
宮廷の誰もが彼女の美しさと聡明さに心を奪われ、未来の王妃として、これ以上ないほど理想的な女性だと賞賛する。
しかし──その美しい瞳の奥底に宿る冷たい光を、誰一人として気づくことはない。
この冷酷な手段を躊躇なく使うようになったのは、幼い頃に王太子との婚約が決まった時からだった。シャッテンベルク家に生まれた時点で、マリシアは既に暗部組織の存在を知り、冷酷さを身につけていた。しかし、それまでは「将来使うかもしれない知識」として学んでいただけだった。婚約という現実が、彼女の中で何かを変えた。自分の地位を脅かす存在は、どんな手段を使ってでも排除する──その決意が固まった瞬間だったのだ。
ある午後、宮廷の回廊でマリシアが目にしたのは、一人の伯爵令嬢が王太子に親しげに話しかけている光景だった。王太子も警戒心を解き、穏やかな表情で応じている。しかし、マリシアの鋭い観察眼は見逃さなかった──その令嬢の瞳に宿る計算高い光を。微笑みの奥に隠された野心を。
その夜、マリシアは密かに連絡を取った──シャッテンベルク家が代々秘密裏に維持してきた暗部組織「影の刃」へと。マリシアはリスクを感じたらすぐ行動して潰す。
表向きは由緒正しい公爵家として知られるシャッテンベルク家だが、その裏では独自の諜報網を築き上げていた。商会や貿易組織を隠れ蓑に、各地に情報収集の拠点を配置し、必要に応じて「問題解決」も行う。この組織の存在は、王室はおろか、他の貴族たちも一切知らない。
シャッテンベルク家の表の顔は完璧すぎるほど清廉潔白。慈善事業に熱心で、領民思いの善良な公爵家として評判も高い。だからこそ、誰も裏の顔を疑うことはないのだ。
マリシアは幼い頃から、この二重性を父から叩き込まれていた。昼は完璧な令嬢として、夜は冷酷な支配者として。
「例の伯爵令嬢が住む街の一区画に、『黒い贈り物』を届けて」
数日後、その街の一角で奇怪な疫病が発生した。感染者の肌は徐々に黒く変色し、やがて息絶える。医師たちは原因を特定できぬまま、街の一区画が完全に死滅した。
当然、あの伯爵令嬢も──。
宮廷は大騒ぎとなった。しかし、マリシアの眼には冷静な計算が宿っていた。シャッテンベルク家が数百年に渡って完璧に築き上げてきた手法──個人の排除を、自然災害や疫病という「偶然の悲劇」に偽装する技術。歴史の教科書には決して記されることのない、影からこの国を操ってきた一族の真骨頂であった。
「この様な悲劇が起こるなんて…私にできることがあれば、何でもお手伝いさせていただきます」
マリシアは他の令嬢たちと共に、心配そうな表情を浮かべながら救援物資の準備を提案していた。その美しい瞳には、深い慈悲の光が宿っているように見えた。
これもまた、代々受け継がれてきた「シャッテンベルク流」の完璧な演技であった。
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数日後、宮廷にひらりと現れたのは、男爵家の令嬢ロザリンド・ハートフィールドだった。ピンクブロンドの髪が陽光に揺れ、薄紅色の瞳には夢見がちな光が宿っている。華奢な体つきに愛らしい顔立ちは、まるで絵本から抜け出してきたお姫様のようだった。
しかし、その可憐な外見とは裏腹に、ロザリンドの内面は複雑だった。彼女は異世界から転生してきた存在であり、前世でゲームや小説として、この世界の物語を知っていたのだ。だからこそ、マリシアが物語における「悪役令嬢」であることも承知していた。
本来なら、その知識を活かして距離を置くべきだった。だが、ロザリンドは致命的な勘違いをしていた──自分こそが、この物語の「主人公」だと思い込んでしまったのだ。
「私が来たからには、きっと世界を正しい方向に導けるはず…!」
頭の中でそんな妄想を膨らませながら、ロザリンドは宮廷の社交界に足を踏み入れた。そして運命の糸に導かれるかのように、マリシアに近づいてしまったのである。
ある日の午後、王太子が読書をしていた図書室で、ロザリンドは意を決して声をかけた。
「殿下、お話があります」
「何かね、ロザリンド嬢」
王太子は穏やかに微笑みかけた。ロザリンドは一瞬躊躇したが、正義感に駆られて口を開いた。
「マリシア様のことなのですが…あの方は、とても危険な方なのです」
王太子の眉がわずかに寄った。
「危険?マリシアが?それはどういう意味かね」
「あの方は…悪役なのです。きっと殿下を利用しようと企んでいるに違いありません!」
ロザリンドの声は興奮で震えていた。王太子は困惑した表情を浮かべる。
「そんなはずはないだろう。マリシアは幼い頃から知っているが、聡明で心優しい女性だ。君は何か誤解をしているのではないかね?」
その時、図書室の扉が静かに開き、マリシアが優雅に姿を現した。
「失礼いたします、殿下。お邪魔でしたでしょうか?」
「いや、丁度良かった。ロザリンド嬢が君について奇妙なことを言っているのだが…」
マリシアは驚いたような表情を浮かべ、ロザリンドを見つめた。
「私について?一体どのようなことを…?」
「あ、あの…」ロザリンドは急に自信を失い、言葉を詰まらせた。マリシアの澄んだ瞳を見つめていると、自分の主張がいかに荒唐無稽に聞こえるかを理解したのだ。
「私に身に覚えのないことでしたら、きちんとご説明いただけませんでしょうか?」
マリシアの声は柔らかく、しかし毅然としていた。完璧な令嬢の仮面に、一点の曇りもない。
「い、いえ…その…」
ロザリンドは顔を赤らめ、すごすごと図書室から立ち去った。王太子は首を振りながら、マリシアに謝罪の言葉をかけた。
その夜、マリシアは自室でロザリンドのことを考えていた。
(あの女、一体何者なの?)
普通なら単なる嫉妬や妄想として片付けるところだが、マリシアの直感が警告を発していた。ロザリンドの言葉には、まるで自分の正体を知っているかのような響きがあった。
(もしかして、あの男爵家は何かを知っているのかもしれない)
マリシアの瞳に、冷たい光が宿った。だが、すぐに冷静さを取り戻す。
(いえ、焦ってはいけない。もしあの女が本当に何かを知っているなら、情報源を突き止めなければ。単純に排除するだけでは、根本的な解決にならない)
マリシアの頭脳は冷徹に計算を始めた。
(情報がどこから漏れたのか、他に知っている者はいないのか、どの程度まで知られているのか──全てを把握してから行動しなければ。もし内部に裏切り者がいるなら、そちらの方が深刻な問題になる)
(まずは情報源を特定する。そして完全に封じ込めてから、リスクの芽を摘み取る。それが正しい順序ね)
リスクの芽は、早めに摘み取らねばならない。しかし、その前に情報戦を制する必要があった。
数日後、マリシアは再び「影の刃」に連絡を取った。
「ハートフィールド男爵家に阿片を流通させて。ただし、一気に廃人化させるのではなく、段階的に依存させなさい」
マリシアの指示は冷静かつ計算高かった。
「まず父親から始めて。商談という名目で接触し、『高級な東方の薬草』として阿片を紹介するの。徐々に量を増やして依存状態にした後、娘がなぜあのような発言をしたのか、どこから情報を得たのか探りを入れなさい」
「承知いたしました。では、阿片への依存が深まった頃合いを見て?」
「そうね。阿片で判断力が鈍った状態で、さりげなく娘の発言の根拠を探るの。もし外部からの情報漏洩なら、そのルートも徹底的に潰さなければならない」
数日後、ハートフィールド男爵のもとに、とある商人が訪れた。上質な絹や香辛料を扱う貿易商として知られる男だったが、その正体は「影の刃」の工作員だった。
「男爵様、東方の珍しい薬草はいかがでしょうか。疲労回復に効果があると評判でして…」
男爵に差し出されたのは、上質な阿片を巧妙に調合した「薬草」だった。最初は本当に疲労が取れるように感じられるが、徐々に依存性が高まっていく恐ろしい代物である。
こうして、ハートフィールド家への阿片による侵食が静かに始まった。
阿片依存が進んだハートフィールド男爵から得られた情報により、「影の刃」の工作員はロザリンドを密かに拉致し、慎重に尋問を開始した。ロザリンドにも軽い阿片を投与し、意識を混濁させた状態で情報を引き出した。
「お嬢様、王太子殿下に奇妙なことを申し上げたそうですね。マリシア様が危険だと…一体なぜそのようなことを?」
「どなたかから何か聞いたのですか?そのような考えに至った理由は?」
阿片で朦朧とした意識の中、ロザリンドは支離滅裂に答えた。
「ゲーム…小説で…前世で読んだの…異世界転生…マリシアは悪役令嬢で…」
工作員は困惑した表情を浮かべた。
「前世?ゲーム?お嬢様、それは一体…?」
「物語を知ってるの…この世界は…私が主人公だから…運命を変えるの…」
「他に誰かから情報を得ましたか?協力者は?何か証拠でも?」
「いない…私だけ…私だけが真実を知ってる…」
数時間の尋問を経ても、得られるのは意味不明な戯言ばかりだった。工作員は結論づけた──この令嬢の頭の中にある世間知らずの妄想以外に、具体的な情報源は存在しない。
「お嬢様、ロザリンド嬢以外に関係者は存在しないようです。単独での妄想的発言と判断されます」
マリシアは冷静に頷いた。
「そう。それなら計画通り進めなさい。男爵家ごと、全て片付けて」
数日後、ハートフィールド男爵家で悲劇が起こった。長期間の阿片依存により、男爵は錯乱状態になり、最後は自ら命を絶った。ロザリンドも、阿片の過剰摂取により息絶えていた。
「なんと恐ろしい…男爵が阿片に手を染めていたとは」
「一家心中なんて、あまりに悲惨すぎる」
「やはり最近の下級貴族は堕落している」
宮廷では、ハートフィールド家の阿片中毒による一家心中として事件が処理された。誰も裏に潜む真実を疑うことはない。
マリシアは他の令嬢たちと共に、悲しげな表情を浮かべながら弔いの準備を手伝っていた。
「このような悲劇が二度と起こらないよう、私たちも気をつけなければいけませんね」
その美しい瞳には、深い悲しみが宿っているように見えた。
またしても完璧な演技だった。そして誰も知らない──あの夢見がちな転生者の警告が、永遠に闇に葬り去られたことを。今回もマリシアの完全勝利で幕を閉じたのである。
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数ヶ月後、王都に一人の少女が現れた。セレスティア──元は辺境の小さな村の平民だったが、神から直接啓示を受けた本物の聖女だった。
金色に輝く髪と、天空のように澄んだ青い瞳。その清楚な美しさもさることながら、彼女が持つ奇跡の力は本物だった。病人を癒し、作物を豊穣にし、神の言葉を人々に伝える。王室も教会も、この新たな聖女の出現に色めき立った。
マリシアは最初、この聖女を脅威だとは思わなかった。むしろ好機だと考えていた。
(愚民を操る道具として使えそうね。平民出身なら、適当におだてれば手駒にできるでしょう)
しかし、その考えは大きく覆されることになる。
ある宮廷の祝宴で、マリシアとセレスティアが初めて顔を合わせた。マリシアは いつもの完璧な微笑みを浮かべて近づいた。
「初めまして、セレスティア様。お噂はかねがね──」
だが、セレスティアがマリシアを見た瞬間、聖女の顔は真っ青になった。美しい瞳に恐怖の色が浮かび、体が小刻みに震え始める。
「あ…ああ…」
セレスティアの口からは、かすれた声しか出なかった。神の眼を通して、彼女はマリシアの魂に纏わりつく無数の罪を見てしまったのだ。疫病で殺された人々の怨念、阿片で苦しんだ家族の慟哭、そして闇に葬られた数多の命──全てが見えていた。
マリシアは瞬時に理解した。
(この聖女は本物だわ。私の正体がバレた)
完璧な仮面を保ちながらも、マリシアの心の奥底では新たな計算が始まっていた。
その夜、マリシアは密かに行動を開始した。
「『影の刃』に指示を出して。セレスティアに関する噂を流しなさい。直接的な攻撃ではなく、じわじわと彼女の聖性を蝕んでいくのよ」
「具体的には?」
「三段階で進めるわ。第一に、『聖女の奇跡には代償がある』という噂。彼女が癒した病人の家族が事故に遭った、奇跡が起きた村で不作が続いた、などとね。次に、『聖女は特定の貴族や商人から多額の寄付を受け、贅沢な暮らしをしている』という金銭的な醜聞。最後に、最も効果的なものとして、『彼女の力は神ではなく、悪魔から与えられたものではないか』という恐怖を煽る噂。酒場の噂話、子供たちの間で流行る不吉な歌、街角の落書き…あらゆる手段を使って、民衆の心に疑念の種を植え付けなさい」
マリシアの巧妙なプロパガンダは、蜘蛛の巣のように王都中に張り巡らされた。
「聖女様に触れられた赤ん坊が、その後すぐに熱を出したらしいわよ…」
「彼女が祈りを捧げた畑だけ、虫が湧いたんだとさ」
「『金色の聖女は悪魔の手先、奇跡の裏には血の涙』なんて歌が流行ってるらしいぜ」
噂は人々の不安を煽り、聖女への眼差しは尊敬から疑いへ、そして恐怖へと変わっていった。庇護者であるべき教会も、民衆の不満を恐れて次第に彼女と距離を置き始める。
ついに、ある日の街角で事件が起こった。セレスティアが病人に手を差し伸べた時、民衆が彼女に石を投げつけたのだ。
「悪魔の手先め!」
「お前のせいで不幸が起きるんだ!」
石礫が聖女の身体に当たり、純白の衣が血に染まった。セレスティアは泣きながら逃げ去った。
孤立無援の中、セレスティアは毎晩祈りを捧げた。
「神様…なぜですか…なぜ人々は私を信じてくれないのですか。なぜあなたは沈黙しているのですか…」
民衆の憎悪と神の沈黙に、彼女の純粋な信仰は日に日に蝕まれていった。「私の力は、本当に人々を不幸にしているのかもしれない」という絶望的な考えが頭をよぎる。
そしてある夜、ついに神の声は完全に途絶えた。神との繋がりを失った彼女の瞳からは神聖な光が消え、奇跡の力も完全に失われた。ただの無力な少女がそこには残された。
力がなくなった聖女は、もはや誰からも顧みられなくなった。王宮からも教会からも見放され、王都の片隅にある寂れた修道院に追いやられた。
数週間後、セレスティアが修道院の塔から身を投げて死んだ、という知らせが王都を駆け巡った。
「偽りの聖女の末路か…」
「神に見放されたのだな」
民衆は噂が真実であったと確信し、すぐに彼女の存在を忘れていった。
もちろん、これはマリシアが仕組んだ「悲劇」だった。絶望しきったセレスティアに「影の刃」が接触し、自ら死を選ぶように巧妙に誘導したのだ。
宮廷では、マリシアが誰よりも悲しんでみせた。
「なんて痛ましいことでしょう…。私にも何かできたかもしれないのに…」
その慈愛に満ちた表情の裏で、マリシアは静かに微笑んでいた。
(神の眼さえ潰してしまえば、もう私を暴く者はいない)
またしても、マリシアの完全勝利だった。そして誰も知らない──神に愛された聖女が、一人の令嬢の手によって絶望の淵に突き落とされ、その生涯を終えたことを。
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数ヶ月後の初夏、王都に一人の麗人が降り立った。エリザベート・フォン・オストライヒ──隣国アルトハイム帝国の第四皇女である。
燃えるような赤毛を優雅に結い上げ、エメラルドグリーンの瞳には野心の炎が宿っている。豊満な体つきと大胆な衣装は、この国の控えめな貴族女性たちとは明らかに一線を画していた。皇女という地位に相応しい威厳を纏いながらも、どこか焦燥感を隠せずにいる。
帝国の皇女とはいえ、エリザベートは十二人の皇子皇女の中では末席に位置していた。十七歳という年齢は決して遅くないものの、兄姉たちが既に政治的な縁組を済ませる中、彼女だけが未だ独身のまま取り残されていた。帝国内では、もはや有力な結婚相手は残っていない。
エリザベートの計算は単純だった。格下の公爵令嬢を退け、自分が王太子妃の座に就く。十七歳という年齢で未だ結婚の見込みが立たない焦燥感、帝国内で末席に位置する自分の将来への不安──それらを一気に解決できる絶好の機会だった。
王妃という地位は絶対的なもの。一国の王妃として君臨すれば、生涯安泰の身分が保証される。それに比べれば、帝国で末席の皇女として過ごす将来など、何の魅力もなかった。
「あの公爵令嬢を退かせて、私が王太子妃になる。それだけのことよ」
エリザベートは胸の内で呟いた。皇女である自分と、単なる公爵家の令嬢──格の違いは明白なはずだった。
宮廷での歓迎の宴で、エリザベートは堂々と王太子に近づいた。
「王太子殿下、お初にお目にかかります。私はアルトハイム帝国第四皇女、エリザベートと申します」
深々と頭を下げながらも、その視線は挑発的だった。王太子は礼儀正しく応じたが、その横に立つマリシアの存在を無視するかのような態度を取る。
「こちらは私の婚約者、マリシア・フォン・シャッテンベルクです」と王太子が紹介すると、エリザベートは表面的な微笑みを浮かべただけで、明らかに軽視した態度を示した。
「ええ、お美しい方ですこと。でも、隣国との友好関係を深めることも、王室にとって大切なことではないでしょうか?」
その夜、マリシアは静かに思考を巡らせていた。
(皇女の野心は明白。そして、彼女は私を単なる「格下の公爵令嬢」だと見くびっている。これは興味深い状況ね)
だが、今回は今までと状況が異なっていた。相手は隣国の皇女──つまり、外交問題に発展する可能性がある。単純な「事故」や「疫病」では処理できない相手だった。
マリシアの美しい瞳に、いつもの冷たい計算が宿った。だが今回は状況が異なる。
(直接手を出すわけにはいかない。帝国の皇女を「事故」で処理すれば、それを口実に戦争を仕掛けられる可能性がある)
マリシアは慎重に情報収集を開始した。「影の刃」の諜報網は既に帝国内部にも根を張っており、興味深い情報がもたらされた。
「お嬢様、アルトハイム帝国の内情について報告があります」
「話して」
「この三年間、帝国は歴史的な大凶作に見舞われています。さらに皇室の子弟が十二人もおり、維持費が国家予算を圧迫。国民の間では『無駄飯食いの皇族ども』という不満が高まっています」
マリシアの唇が、わずかに弧を描いた。
「それは興味深いわね。他には?」
「農村部では餓死者も出始めており、都市部では食糧価格の高騰で暴動寸前の状況です。しかし皇室は相変わらず豪奢な生活を続けており、国民の憎悪は頂点に達しています」
(これは好機ね)
マリシアの頭脳は瞬時に計算を完了した。
「『影の刃』の帝国支部に指令を出しなさい。国民に革命の火種を与えるのよ」
「具体的には?」
「まず農村部にプロパガンダ要員を送り込む。『皇室が贅沢をやめれば、我々に食糧が回ってくる』という考えを植え付けなさい。都市部では『皇族一人の維持費で何百家族が養えるか』という具体的な数字を流布する。そして最も重要なのは──武器の調達ルートを密かに提供することよ」
「承知いたしました」
数ヶ月後、アルトハイム帝国で民衆蜂起が勃発した。飢えた農民と怒れる市民が王宮に押し寄せ、皇族たちは次々と処刑台に送られた。
最初は「帝国で騒動が起きている」という曖昧な情報が王都に届いた。次第に「民衆蜂起が拡大している」「王宮が包囲されている」という具体的な報告が相次いだ。
そして、ついに決定的な知らせが届いた。
「アルトハイム帝国皇帝陛下が…処刑されました。皇族方も…ほとんどが…」
宮廷はざわめいた。予想されていたとはいえ、隣国の王朝が完全に崩壊するという現実は重い。
エリザベートは青ざめた顔で震えていた。父も母も、兄姉たちも──すべて民衆の手によって処刑されたという現実を受け入れることができずにいた。
「嘘…嘘でしょう…?こんなことって…」
亡国の皇女となったエリザベートは、茫然自失の状態だった。昨日まで皇女として君臨していた世界が、一夜にして崩れ去ったのだ。
(完璧ね)
マリシアは内心で満足していた。エリザベートはもはや「隣国の皇女」ではない。ただの「亡国の逃亡者」に過ぎない。
王太子との結婚など、夢物語に変わった。故郷に帰れば反乱軍に捕らえられ、間違いなく処刑される。この国で保護を求めるしか生きる道はない。
しかし、この国も帝国の混乱に巻き込まれることを恐れていた。
「難民の流入を防がなければ」
「革命の思想が伝染しないよう、国境警備を強化せよ」
「帝国との貿易も一時停止だ」
政府は帝国の混乱の余波への対策で手一杯となり、一人の亡国皇女など誰も関心を示さなくなった。
エリザベートは宮廷の片隅で、ただ呆然と立ち尽くしていた。美しい衣装も意味を失い、皇女としての威厳も消え失せている。
「殿下…私は…私はどうすれば…」
王太子は困惑しながらも、人道的な配慮から答えた。
「とりあえず、客人として滞在していただこう」
王太子の言葉は人道的な配慮に基づいたものだった。亡国の皇女を見捨てるわけにもいかず、最低限の保護は与える必要がある。しかし、それ以上でもそれ以下でもなかった。
マリシアは完璧な慈悲の表情を浮かべて、エリザベートに近づいた。
「エリザベート様、このような状況で本当にお気の毒です。何かお手伝いできることがあれば…」
その美しい瞳には、深い同情が宿っているように見えた。だが内心では、冷たい勝利の喜びが渦巻いていた。
(これで私の地位を脅かす者はいなくなった。今回は一つの帝国を動かして目的を達成するなんて、我ながら見事な采配だった)
亡国の皇女は、もはや何の脅威でもない。ただの哀れな逃亡者として、この国の片隅でひっそりと生きていくしかないのだから。
またしても、マリシアの完全勝利だった。そして誰も知らない──王太子妃の座を狙う皇女を排除するために、一つの帝国が滅ぼされたことを。