第2話 噂
王宮にある花の庭園。
そこで、フィリアと乙が2人だけのお茶会に興じていた。
フィリアは、ミハやニースの親戚にあたり社交界でも“麗しの美女”と呼ばれるほど、有名な御婦人である。
華やかな容姿に、豊かな胸とくびれた腰。
老若男女問わず皆が見惚れる、迫力の美女である。
見ているだけで眼福である。
乙はにこにこと微笑みながら、紅茶を口に含んだ。
幸せだな…、とほっこりしながら。
「それで?聞いたわよ~!噂!私は、絶対キノトのことだと思ったわ~。社交界ではもうすごい噂になっているのよ」
フィリアは赤茶色の瞳を楽しそうに細めた。
「噂って…。特に、何もしてないよ?」
乙は最近の自分の行動を思い出してみるが、これといって思い当たる節はなかった。
だから、不思議そうに首を傾げた。
「もう、キノトったら。勿体ぶっちゃって!2人の殿下、つまりクロウリィ殿下とシド殿下が、女性を取り合ったっていう、あの噂よ!」
「!」
ケホケホッ…!
思わずむせてしまった乙である。
「え?な、何?…ケホッ。…じょ、女性を取り合うって、私じゃないよ?きっと…」
ハンカチで口元を押さえながら、何とか乙は否定した。
だがフィリアは、絶対そうよ!と譲らなかった。
「むぅ…。しらを切る気ね?」
「違うよ?それに、そういう場面には、遭遇してないと思うし」
「あ、今思うって言ったわね!やっぱり!何かは、あったんでしょう!」
キリキリ白状なさいな、とフィリアはにっこりと笑った。
そう、にっこりと。
「…」
美女の笑顔は、迫力がある。
乙は冷や汗をかきながら、えっと…と逡巡した。
「…取り合ってないけど。…けど、ね?この前のシド王子の歓迎パーティーで、2人に…会いました」
乙は思わず敬語口調になりつつ、その時のあらましを話したのだった。
乙の話を聞き終えたフィリアは、なぜか満足そうにうなずいていた。
「やっぱりね~!クロウリィ殿下が今さら他の女性に気うつりするとは思えなかったし、そうなったら“取り合った女性”っていうのはキノトしかあり得ないし、でもそうなると今度はシド殿下がどういう意図を持っていたのかっていうのが気にもなるわね~。あ、まさか!シド殿下もまさかまさか――!!!」
フィリアは、納得するようにぶつぶつと独り言――それにしては声が大きい――を早口でまくしたてた。
「フィ、フィリア?落ち着いて?」
乙は止めなければ、永遠に呟いていそうなフィリアを慌てて制止した。
ちなみに、フィリアに庭園でのあらましを話した時に、シドの『トトゥロの娘?どこが?』と疑われたことについては話さなかった。
乙がフィリアを信頼していても、話していいことと悪いことがあるのは、乙にもわかっていたから…。
しかし、結果的にフィリアを信頼していないことになるのではないかと問われたら、乙は何と答えていいかわからなかった。
フィリアへの後ろめたい気持ちが、乙の表情を暗くする。
それでも、乙は気持ちを切り替えてフィリアに尋ねた。
「でも、なんで変な噂になっちゃうのかな。事実とは違うのに」
「んん?キノトにはまだわからないか。それはね、ここが王宮だからよ」
「え?」
フィリアは扇子で口元を隠した。
「王宮では色々な噂が飛び交うわ。嘘も真実も関係なく…」
そう、ここは王宮。
光ばかりの花々しい場所ではない。
光りあるところには必ず闇がある様に、一瞬でも気を抜くことが許されない世界だ。
その中では、真実も虚偽も冗談も、まことしやかに貴族たちの口の上を滑っていく。
上手い者などは、嘘をも自らの糧にしてしまうのだから…。
今回の一件も、まさにそれだ。
クロウリィとシドの姿を庭園で見た者がいたのだろう。
そしてその者は、そのことを面白可笑しく脚色したのだろう。
――2人が女性を取り合っていたぞ!と。
また、夜の庭園は、男女の逢瀬に使われることが多い。
したがって、2人の王子が庭園にいる=女性とあいびき=取り合った。
そんな図式が成りたったのだろう。
また、クロウリィは女性関係が華やかだったこともあり、結果その噂は真実味も増したのだ。
フィリアは、困ったわね~と苦笑した。
「まぁ、そういった噂はごまんと出てくるものだし、すぐに違う噂が話題に上るから、そんなに神経質になることもないけど」
「そうなの?」
「ええ。貴族は移り気なのよ~」
何でもない様に言うフィリアに、乙は少しだけ気持ちが軽くなった。
「それにね、なんてったって、シド殿下だもの!今まで自国にさえ姿を見せなかった人物が、それが突然の元敵国への留学でしょ?…そこら辺を歩くだけでも、色々と噂が立ちそうだわ」
フィリアはうんざりするように、うへ~と舌を出した。
「…確かに。歩くだけで噂になるなんて、大変そう…」
乙ももし自分だったらと考えたら、めまいがしそうだなと思った。
好奇の目で見られるのは、辛いものだ。
う~ん、と唸っていた乙だったが、「あ、そういえば」と何かを思いついたように顔をあげた。
「ねぇ、フィリア。そもそもシド王子ってどんな人なの?」
「どんな人、かぁ…。う~ん」
フィリアは焼き菓子を頬張りながら記憶を探ってみるが、めぼしいものは何もなかった。
王族ともなれば、噂の一つや二つ流れていてもよさそうなものだが、シドに限っては何もないのだ。
――秘された王子。
――掌中の珠。
――そして、精霊の加護持ち。
一般貴族であるフィリアにはその程度の、情報とも言えない様なものしか、知らなかった。
「…全く知らないのよね、人物像とかもなにもかも。ごめんね」
「ううん、謝らないで!」
突然聞いたこちらが悪いのだから、と乙は苦笑した。
「あ、でもそうね。シド殿下の姉君が、ザウント国の国王に嫁いでいるわよ」
「ザウント国…」
乙は目を瞠った。
ザウント国は、ワーグナー国とルディアン国が戦争をした時に和平調停を取りまとめた国である。
そして彼の国には、100年前に精霊の愛し子が、王族に生まれた国でもあるのだ。
――精霊の加護を持った人物の姉が、精霊の愛し子の子孫の元へ嫁いだ。
乙は、胸が不自然に脈打った。
この符号は一体…。
乙はやはり、シドに会って色々話をしてみたいと思った。
はぁ、と息を吐きだした。
するとフィリアはその様子に目を丸くした。
「ちょっと、キノトったら。…何だか、悩める恋する乙女の溜息よ、そ―れ―」
「え!違うよ、そんなんじゃないよ」
「ええ~?顔だって真っ赤じゃない!」
鈴を鳴らしたようにコロコロと、笑うフィリア。
からかわれた乙は、もう…と、ほほの熱を冷ますように手でおおった。
(違うもの、そういう会いたいじゃなくて…)
心の中でぽつりとつぶやいた。
(それに、そういう意味での会いたいって言うのは、もっとこう…恋してるっていう感じなんじゃないのかな?)
漠然とそう思いながら、乙は「だから違う」と思った。
この思いは、もっと心の深いところが求める様なものだから…。
(だから違うの…)
そう思った瞬間、なぜなのか…クロウリィの顔が横切った。
乙は驚いたが、それ以上深く考えることはしなかった。
なぜなら、クロウリィのことを考えると、その隣に寄り添う美しい女性の姿が目に浮かぶから…。
「…ッ」
乙は己の心を覆い隠すように、そっと紅茶を口に含んだ。
冷たくなった紅茶は、自身の心を冷静にさせるようだった。