第26話 それぞれの思い
夜明け前。
あと一刻もすれば空は白み始める。
だが、未だに空は深い夜闇に覆われていた。
満月か…。
ルシカは神殿での夜通しの祈りを終え、そろそろ自室に引き上げようかと思いながら、窓に浮かぶ大きな月を見ていた。
少し疲れたように、はぁ…と息を吐く。
そして、先ほどから気になっていた、神殿の外へと視線を向けた。
人の気配があるのだ。それもよく知った者の…。
「以前にも、こんなことがあったな」
呟く言葉は、薄暗い闇の中に消えていった。
はぁ…と再び息を吐き、しょうがないなと扉へと歩き出した。
神殿の外へ――アイツがいる、ところへと…。
◆◆◆
カサリ。
下草を踏み分けて少し行くと、やはりアイツはいた。
眩いばかりの月光を全身に浴び、この世の祝福を余すことなく受けているように佇むアイツが…。
しかしその表情は暗く沈み、やつれているようにも見えた。
「クロウリィ…」
ルシカはそっと名を呼ぶが、俯いた顔が上がることはなかった。
「クロウリィ。何か用が、あったんじゃないのか」
「…」
再度尋ねるが、クロウリィは石像の様に固まりピクリとも動かなかった。
ルシカはその様子を見てそっと息を吐いた。
無理もないか、と内心で呟く。
小さい頃から共に過ごしてきた仲だからわかる。クロウリィが何を考え何に悩んでいるのかが、手に取るようにわかるのだ。
カサルア殿下の事で、悩んでいることが――
そう。
カサルア殿下が長年患ってきた“ご病気”が、回復に向かったということで、王宮は色々と騒がしくなった。
10歳の時に母親が死に、そのショックでカサルアが心に傷を負ったという事実を知るものは、王宮でも上層部の限られた者達だけだった。
公には、病弱で表にも顔を出せないほどと、公表されていた。
しかし、乙の犠牲により心の殻を破ったカサルアは、周囲が目をみはるほどの成長を遂げていた。
実際の25という年齢には未だ届かないものの、心も体も随分としっかりしてきた。
よって最近では、王宮を元気に闊歩するカサルアの姿を見られるようにもなった。
…そうなれば、貴族たちが黙っているはずがない。
今まで、第一王位継承者であるカサルアは病弱のため、その責務を全うできないのではないかと疑問視されてきた。しかし、第二王位継承者である“愚弟殿下”と揶揄されるクロウリィでは、不適格であるとも言われてきた。
病弱のカサルアか、愚弟のクロウリィか…。
次の王は誰になるのかと、頭を悩ませてきた。
それでも、病弱だがクロウリィの素行の悪さに比べたらまだまし…と、皆の意見はカサルアを押すものが大半だった。
それが、カサルアの病気回復によって一気に勢いを増したのだ。
『陛下!カサルア殿下のご尊顔を拝したく!』
『そうですとも』
『ご病気は、驚異的に回復なさっているとか…』
『今こそ、真の後継者をお決めいただき、我等家臣にお示しくださいませ!』
『陛下!』
『陛下!!』
そのため以前にも増して、クロウリィは皆に叩かれているのだ。
王子としての自覚がないだとか、もっと王族として誠意ある行動をしてほしいだとか…、ここぞとばかりに貴族からあれやこれやと言われていた。
…その全ては、カサルアのためにやってきたことだというのに。
その真意を知るものは目の前にいる、ルシカくらいのものかもしれない…。
ルシカは己の目の前で、暗く沈むクロウリィを見つめた。
顔に出すことはないが、クロウリィはカサルアの心が回復したことを誰よりも喜んでいたし、第一王位継承者として皆に敬われ傅かれることをだれよりも望んでいた。
これでやっとカサルアは、普通に生きることができると…。
では、なぜクロウリィはこんなにも沈んだ顔をしているのか?
ルシカにはその理由がわかっていた。
そして、こんな表情を見せられるのは自分だけだということも、ルシカにはわかっていた。
――辛い時に辛いと、心の内をさらけ出すことなど、王族にはできないのだから…。
ルシカはふと頭上で輝く満月を見上げた。
温度の無い冷たい月の光。
しかしどうして、降り注ぐ光はこうも優しいのか…。
柔らかい笑みを浮かべながら、ルシカは月を眺めた。
「そうだ。今回の事で、君に言っておきたい事がある。君に一番に話そう」
「…」
唐突に切り出すルシカの言葉に、クロウリィは全く反応を見せなかった。そのことに対して、ルシカは気にした様子もなく次に言葉を続けた。
「…私は。私は、決めたんだ。今のままでは何もできないと、自分には何の力もないと、わかったから」
今回の王宮での騒動。
ルシカは、乙に何もしてやれることがなかった。
乙が怪我をした時に、“力”を使って治癒を施すことすらできなかった――否、許されなかったのだ。
ただの第一神官では…。
言外に、そう言われたのだ。
お前は、神の愛し子たる御方に治療を施すだけの、身分には非ずと。
いくら若手の中で、飛びぬけて力に秀でていようとも。
その若さですでに、第一神官の位についていようとも。
そして、平素から乙と懇意にしていようとも。
全く相手にもされなかったのだ。
だからこそ、今のままではだめだと思ったのだ。
…何の力もない自分では、乙に関わることすらできないのだと…。
「あの時、私は何もできなかった。あれほど悔しかったことはない、あれほど己の不甲斐なさを感じたこともない…」
「…」
「だから、だから…、私は決めたんだ」
自由に動けるだけの、地位も力も欲しい。
「大切な人を守れるように、傍らにいられるように…」
もう、失敗したくない。
あんな思いをしたくない。
「だから、私は…」
――キノト専属の神官になることを、決めたんだ。神の愛し子たる、キノトの。
クロウリィは、ハッと顔を上げた。
驚愕に目を丸くしながら、月を見上げるルシカを凝視した。
「…キノトの、専属だと…?」
それは重大な告白だった。
ルシカの口から紡がれた言葉はとても静かであり、水面の波紋の様に緩やかだったが、その奥に潜むのは驚くほどの力強で…クロウリィは知らず背筋がゾクリとした。
そして、“本気なのか、コイツは!”と思った。
ゴクリと喉を鳴らしながら、クロウリィは問いかけた。
「ルシカ、お前、本気なのか。キノトの、専属の神官になるって…」
「あぁ、もちろん本気さ。…でなきゃこんなこと、口に出して言えるわけがない」
「だが、それは、なれるのか…専属になんて、それは、なれ――」
「なるんだよ」
ルシカはクロウリィの言葉を皆まで言わせず遮る。
「…何がなんでも、なるんだ。…そう、決めたんだから」
力強い言葉。
その姿はまるで、己の決意を誓っているかのようだった。
そんな生き生きとした様子のルシカを見ながら、クロウリィはどこか迷子の子供の様な気持ちになっていた。
それは、殺伐とした焦燥感。
いつでも、何でも、すぐに決めてしまうルシカの報告はすべて決まった後が常だった。
だから、クロウリィはいつもおいてけぼりをくらっていたのだ。
ルシカと友達になった時も、ルシカが神官になると決めた時も、そして今も…。
即断かつ固い意志。
だから、クロウリィが何と言おうとも、今までそれが翻ることはなかった。
…そしてそれが、幼い頃から羨ましくもあった。
遠い目をしながら、ルシカを見つめる。
すると、月を眺めていたルシカが、やっとクロウリィを見た。
今夜初めて出会う、はちみつ色の甘やかな瞳と晴れやかな空色の瞳。
ルシカの瞳がそっと柔らかく細められた。
「クロウリィ。私は、決めた。自分の進むべき道を…」
「…」
「だから、クロウリィ。君も、決めるんだ。自分の進むべき道を」
「…ッ!!」
クロウリィは、思わず顔を歪めた。
その顔は、自分に何をしろというのだと、泣きそうに困惑し、そして怒っている様なとても複雑な顔だった。
サ―…と風が2人の間を通り抜ける。
クロウリィの襟足だけ伸ばされた金糸の髪が、夜風に舞いあがる。
ルシカはその流れる髪をそっと掬い取ると、さらさらとした感触を楽しむかの様に、掌で遊ばせた。
「…なぁ、クロウリィ。…もう、大丈夫だ。大丈夫なんだ、カサルアは…」
「…」
囁く様に、言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。
「もう立派に、自分の足でしっかり立って、生きていける。クロウリィが、無理してかばう様な事を、しなくてもね」
「…」
「だから…」
ルシカはキュッと掌の髪を握りしめた。
「もう、この髪も切って良いんだ」
「…ッッ!!!」
先ほど、ルシカの告白を聞いた比ではないほど、クロウリィは驚いた。
まさか、知っているのだろうか…。
襟足だけずっと伸ばしてきた、髪の意味を…?
引き攣る頬を冷や汗が流れ落ちていった。
当時、クロウリィはカサルアが自らの殻に閉じこもってしまった時、何も助けることができなかったと自分を責めた。そして、せめてとばかりに神に祈った。
“カサルアが元気になりますように”と。
そして、願懸けとして髪を伸ばしてきたのだ。
何年も何年も――今の今までずっと…。
それは自分だけの秘密だと思ってきたのだが、目の前にいるルシカはそのことに気付いていたという。
…クロウリィの顔が引き攣るのも無理はなかった。
再び石像の様に固まってしまったクロウリィを見て、ルシカは軽く笑った。
知らないとでも思っていたのかと、面白そうに瞳を眇めながら。
「まったく。クロウリィの考えていることは、わかるよ。…君も、私のことがわかる様に、ね?」
「…なッ!?」
「だから、もう切っても良いんだ。そして、自分の道を進んで良いんだ…否、進まなければいけないんだ、これからは…」
終始優しく語りかけるルシカ。
そしてそのすべてが確信をついた言葉であった。
だからこそ、なのだ。
だからこそ、クロウリィは進むのを躊躇ってしまうのだ。
そんなことをしたら、きっと心の奥底にある自身の気持ちが、ひょっこりと出てきてしまう気がするから。
クロウリィはどうしたらよいのか分からなくなり、ギュッと強く瞳を閉じた。
――このまま、この気持ちに気付いてしまっていいのだろうか…。
――しかし、そうしたら、これからどうすればいい…。
苦悶に顔を歪ませ、クロウリィは俯いてしまった。
ルシカが言うほど、そう簡単には踏み出すことができないのだ。
クロウリィは、カサルアの幸せをずっと願ってきた。それも幼き頃からずっと…。しかしルシカは、今度は自分の道を進めというのだから、混乱するのも無理はなかった。
「…どうすれば、いい」
吐息混じりに吐きだされる言葉は、夜闇の中で孤独に彷徨った。
深く苦悶するその姿を、ルシカは静かに見つめることしかできなかった。
わかりにくかったので、改稿再アップしました。