第25話 終わる連鎖2
乙とカサルアはそっと抱きしめあっていた。
どのくらいそうしていたか。
相手がまるで自分の一部であるかのような、そんな気がしていた頃…コンコンと、扉をノックする音が聞こえてきた。
「キノト、怪我は――。おっと…、お邪魔だったかな…?」
柔らかく深みのある声に、からかう様な響きを乗せながら登場したのは…
「「ミハ!」」
2人はまるで図ったかのように、息ぴったりに驚きの声を上げると、ミハは口の端を上げて軽快な笑い声をあげた。
クククッと肩を震わせるように笑うので、ミハの朱い髪は陽光の光も相まって燃える炎の様に輝いて見えた。
カサルアはサッと乙から離れ、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしてミハを睨んだ。
「か、からかわないで…よ!」
「クククッ…。いえ、からかってなどいませんよ?…しかし、驚きました。カサルア殿下は、手がお早いようで…」
「な、な、なに言って!」
「いえ、言葉を間違えました。…大変仲がよろしいようなので。羨ましい限りです」
「~~~~!!何おぉぉお!!」
楽しげなやり取りが2人の間でテンポよく繰り広げられていく。
見ている分には楽しいが、完全に遊ばれているカサルアにとってはたまったものではなかった。
先ほどよりもさらに真っ赤に染まったカサルアの顔を見て、乙は助け船を出した。
「え~と、ミハ?ミハは、私のお見舞いに来てくれたんじゃないの?」
「ん?あぁ、そうだったそうだった」
「もう…」
「ハハ、そう怒らないでくれよ。…それで、傷の方は…。その様子を見る限りでは、良いようだな」
安堵したようにフッと微笑んだ。
「ええ、とっても。それに、ニースが毎日治癒をしてくれるから、治りも早いみたい」
「あぁ、ニースからも聞いている…“とても”治りが早いって」
「…ッ」
乙の胸がドキリッと音を立てた。
そう。
傷を負った日からニースが毎日の様に、乙の元を訪れては“力”を使って治癒をしているのだ。
毎日欠かさず、長い時間をかけて。
だが例え、優秀な神官長であるニースが毎日長い時間をかけて治癒を行ったとしても、ここまでの回復は驚くべきことだった。医師の見立てでは、“力”を使って1か月程で完治すると言っていたのだが、あれから1週間しかたっていないのにも拘らず、乙の背の傷は殆ど塞がっているのだ。
これには医師もニースも首を傾げていた。…いや、ニースはわかっていただろう。自分以外の誰かが、“力”を使って治癒をしていることに…。
それでも、ニースは何も言わずそっと穏やかに微笑むだけだった。
乙はその笑顔に申し訳なさを感じていたが、乙を治癒している“その誰か”から『内緒にしてほしい』と言われていたので、話すことはできなかったのだ。
乙はミハに曖昧に笑いながら、あの夜のことを思い出していた。
***
…あの夜。
背に深い傷を負った乙のもとを訪ねてきたマースは、何度も何度も謝罪した。
そしてマースは『キノトのために“力”を使いたいんだ。…キノトの、背の傷を、僕が治したいんだ』と、言った。その懇願する様な眼差しに驚きつつも乙が頷くと、どうしたことか、マースは涙してしまったのだ。
止め処なく流れる涙。
手の甲でごしごしと拭うものだから、真っ赤に目を腫らしていた。
いつまでも流れ続ける涙に困惑し、助けを求めるマースに、乙がそっと手を差し出すと、飛び付く様に掌を取った。
…顔に押し付け、何度も何度も口づけながら。
しばらく泣き続けるマースを見ていた乙だったが、徐々に胸が苦しくなってきた。
身体を丸くし、震え、涙を流すその姿を見て…。
だから、それは無意識だった。もう片方の掌をマースの頬に、そっと添えたのは…。
マースの涙にぬれる頬はヒヤリと冷たかった。
乙が包み込み温めるように撫でると、マースはハッとしたように顔を上げた。
乙の漆黒色の瞳とマースの暗褐色の瞳が緩やかに交差した。
その瞬間…。
ザッ!と勢いよく立ちあがったマースは、そのままの勢いで寝台に乗りあがり、乙を押し倒したのだ!
マースは乙の手首を取り、寝台に縫い付け、肢体を密着させ覆いかぶさるように体重をかけた。
はっと息を飲む乙。
乙は仰向けに力任せに押し倒され、傷ついた背に痛みが走り悲鳴を上げた。しかし、素早くマースがその悲鳴を飲みこむように、乙の唇を自身の唇で塞いだ。
乱暴に唇を合わせ、舌を絡め取る。
声も喘ぎも吐息すら奪う様に、強く激しく。
唇を合わせ月夜に照らされる2人は、さながら1つの生き物の様に蠢いていた。
真っ白のシーツの上に、乙の漆黒の髪が無造作に散らばり、その白い素肌は月光に映え青白く輝き、艶めかしくその存在を主張していた。対するマースも暗褐色のうねる髪に、日にあたったことがない様な病的な白さの肌が、夜陰にて強調されていた。
白と黒のコントラスト。
似た様な色彩の2人。
そして、唇で繋がった生き物。
背の痛みに悲鳴を上げていた乙だったが、少しずつマースの口づけに酔うかの様に、痛みよりも別に甘い痺れが身体を駆け巡っていくのを感じていた。
そんな乙の変化を察したマースは、そっと唇を離す。
すると、唇と唇との間に橋を架けるように、銀糸がツー…と繋がった。
マースは舌を出し、その糸を辿るように舐めとり、乱暴に貪ったためにぷくりと腫れた乙の唇に再び口づけた。
くちゅ…、という音とともに唇を離す。
乙は、はぁはぁ…と大きく胸を上下させ、疼く背の痛みに身を捩った。
――清らかであり艶めかしい
その姿を真上から見下ろし、マースは思わずゴクリと喉を鳴らした。
マースの仄暗い闇の様な瞳は、常ならば感情など感じられない様な色をしているが、今は獰猛でいてさらに暖炉の熾の様な静かな熱を孕んでいた。
相変わらずポタポタと乙の顔や首筋に、マースの涙が落ちていた。
時折落ちてくるその冷たい刺激に、乙は閉じていた瞳を薄く開く…。
すると目に飛び込んできたのは、仄暗い闇を宿した瞳で、その瞳からキラキラと輝く雫だった。
…まだ、泣いてる。
乙は驚きに目を見張りながら、顔を歪めて問いかけた。
――まだ、胸が痛いの?
マースははっと目を見開いた。
キノトは、どうして…。
なぜ、マースの性急ともいえる行動について言及するのではなく、涙するマースをまず先に気遣うのか…。
けれど、それが、それこそがキノトなんだ…。
マースは心の奥底から、乙に対する愛しさが込み上げてきた。
とてもとても熱い思いだった…。
それは、先ほどまで己の中で芽生え始めていた嗜虐的な心を追い出し、温かくいとおしむ心へと塗り変えていく様な、とても不思議な感覚だった。
スー…と音もなく上体を乙へ倒し、問いかける瞳を閉ざす様に、瞼の上に唇を落とす。
寝台に縫い付ける様にしていた手首を離し、乙の頬に手を添え、まるで壊れモノにでも触るように優しく包み込み、何度も何度も口づける。
頬に、額に、鼻に、そして唇に――
先ほどの乱暴さとは打って変わって、どこか神聖な儀式の様に、それは施されていく。
乙の顔中に口づけ、マースは少し身体を離す。両手を乙の体の下に入れ、慎重に痛みの少ない様に反転させた。その時、少し不安そうな表情をした乙を宥めるように、優しく口づけを落とす。
うつ伏せになった背中の夜着の隙間からは、白い包帯が見え隠れした。
マースは夜着を留めている背中の紐をほどき、乙の夜着を肌蹴させた。…すると、やはり上半身に包帯がぐるぐると巻かれてあり、薄っすらと深紅の血が滲んでいた。
痛ましい乙の姿に、マースは眼を細めた。
これが、神の子が負った、代償か…。
一生消えない、醜い傷跡…。
僕が付けた…。
マースは唇をグッと引き結んだ。
自身の力の続く限り、この傷をどうにか治癒したい…と。
流れ続ける涙が邪魔をして、視界がぼやけた。いつになったら止まるのかと呻きながら、手の甲でゴシゴシと目をこすり涙をぬぐった。
そして、集中するために深呼吸を繰り返す。
何度も息を吸って吐きだすたびに、少しずつ感覚が研ぎ澄まされていった。最後に、一際大きく息を吐きだすと、掌に力が満ちていくのがわかる。
マースは瞳を閉じ、おもむろに乙の背中に手を置いた。
冷たい手で、スッと素肌を撫でると、ビクッと乙の身体が反応した。
マースは乙の華奢な肩を撫で、優美な身体のラインを辿り、細い腰からまた上に撫で上げた。
包帯越しに、背骨に沿ってツー…と指先を這わせれば、くすぐったそうに身を捩った。
乙は枕に顔を埋め、クスクスと思わず出てしまう笑い声を堪えていた。
その様を見つつ、マースは乙の顔に手を伸ばし、口全体を覆う様に手を当てた。
何だろうと不思議がる乙は、次の瞬間ハッと息を飲み、叫びそうになった。しかし、顔を覆う様に手が当てられていたので悲鳴が口を出ることはなかった。
…何が起こったかというと。
マースが突然乙の体に巻かれていた包帯を、短剣で一気に切ってしまったのだ!
ハラリハラリと乙の身体から包帯がすべり落ち、乙の陶器の様な素肌に鋭利に切られた深い傷口が顔を出した。そこからは未だに血が滲み出していた。
「う…、ふぅ…ッ…はぁ…」
乙の呻く声がマースの掌から聞こえてきた。
「ごめん…痛かった?…でも、大丈夫。すぐ痛くなくなるから」
安心させるように囁き、乙の頭を撫でる。
そして視線を傷口に戻し、その上にもう片方の手を当てた。グッと力を込めれば、ひゅうっと喉が鳴る音が聞こえた。
じわじわと血が滲みだしてきたが、マースは構わず傷口をなぞるように手を動かす。
乙の荒い息遣いとマースの手に塞がれた口から呻き声が漏れ出す。
乙はされるがまま痛みに耐えていたが、少しずつ痛みとは異なる感覚が、背中から全身にかけて広がっていくのを感じた。それは温かく、じわじわと広がっていく不思議な感覚だった。
マースは額に汗を光らせながら治癒を施していく。
そして、ハッと鋭い息遣いをしたかと思うと、何と今度は傷の上に舌を這わせ始めたのだ!
再び鋭い痛みが乙の背中を駆け抜けた。
あまりの痛さに、乙は思わず口を覆うマースの手を噛んでしまった。
プツンッ…と歯が食い込み、皮が裂ける音がした。見る見るうちに、乙の口内に鉄錆の味が広がっていく。
それでも、マースは顔色一つ変えずに、舌を這わせ続けた。
治癒を行うために…。
蠢く舌は、傷口を這う様に、時に抉る様に…。
マースは血を舐めとり、口元を深紅に濡らしていく…。
ぴちゃ、ぴちゃ…
どこか艶やかさを持った水音が断続的に響く。
うぅ、…はぁ…あ…
そして同時に苦痛に呻く声も…。
だがしばらくすると、先ほどと同じ様に、痛みとは異なった温かい感覚と、そして疼き痺れる様な…何とももどかしい感覚が身体に広がっていった。
乙はその陶然とした感覚に意識を奪われ、どこかへ持って行かれる様な気がした。
はぁ…と熱い息を身体から吐き出す。
その顔は、とろんとしており酔った様に瞳を潤ませていた。
マースは乙のつるりとした頬を撫で、そっと唇を塞ぎ舌を割り入れた。
唾液を交換する様に、忙しなく口内を暴いていった。
――それは夜が明けるまで行われた。
そして、マースは去り際…
――明日も行くから…。
そう言って出ていったのだ。
***
あの日から、マースは人知れず毎夜訪れ、乙に“治癒”を施していった。
だからこそ、乙の傷跡は1週間しか経っていないというのに、殆ど塞がってしまっているのだ。
ミハの問う様な視線に乙は曖昧に笑い、急いで話題を変えた。
「そう言えば…、ミハの手に持っているのは何?なんだかいい香りがする」
「…ん?…あぁ、そうそう、忘れてた。ほらこれ、キノトにお土産だ」
ミハは苦笑しながら、手に持っていた白い紙袋を差し出した。
「なになに…?…あ!これ、パシュだ!パシュだわ!」
乙は嬉しそうに声を上げ、キラキラとした表情になった。
これを食べたのは、ミハと外出した時以来だった。
頬を上気させて嬉しがる乙をじーっと大人しく眺めていたカサルアだったが、とうとう我慢できなくなったのか、体を乗り出して袋の中を覗き込んできた。
「なぁに?これ、キノト。なぁに、これ?」
「これはね、パシュっていうお菓子なんだよ。甘くてね、と~ってもおいしいの」
「お菓子なの?これ?」
カサルアは初めて見たパシュに興味深々だった。
「そうだよ。中にクリームが入っていて、噛むと中から溢れてくるんだよ!とってもおいしいの」
「うん!おいしそう!」
ニコニコと笑い合う2人に、ミハが「それじゃぁ、お茶にでもしようか?」と提案すると、カサルアが「うん!じゃ、言いに行ってくる~!」と、勢い良く寝室を飛び出してしまった。
「…侍女を呼べばいいのに」
ミハがぼそっと突っ込むと、乙がフフッと笑った。
「確かに、そうだよね。…でも、少しずつ理解していけばいいんじゃないかな?色々なことを…」
「まぁな…。…それにしても、こうも変わるものなんだな…前とは比べ物にならない」
「うん」
そう。
カサルアの変化は劇的だった。
心が10歳で止まってしまったので、カサルアはずっと小さな子供の様な言動をしていた。しかし、止まっていた心の時間が動き出した途端に、その遅れた分を取り戻そうという様に急激に成長していた。
さらに、心に引っ張られる様に成長が遅れていた身体も、この1週間で少し逞しくなったようにも思えるのだ。
過去の呪縛から脱したカサルアは、これからどんどん成長していくことだろう。
「…カサルアは、一歩踏み出したんだよ。…勇気を出して」
「…そうか。…一歩を、な…」
「うん」
柔らかく微笑む乙。
それはまるで花がほころぶ様な美しい笑顔だった。
ミハはつられる様に笑い、眼を細めた。
「…えらかったな、キノト」
そう言って乙の頭を撫でた。
つやつやとした髪は、陽光に煌めきながらも、夜のしじまを思い出させた。
少し目じりを赤らめた乙は、微かに頷いた。
ミハはふっと笑いながら、顔を近づけ、唇を合わせようとすると――
「だぁぁあああ、めぇぇえええ――!!!」
力一杯制止する声が室内に響いた。
2人が驚いて扉の方を見ると、怒気も露わに顔を赤くするカサルアがいた。
「だめだったら、だめ――!!!キノトは、あげない――!!!」
突進する様に2人の間に割り込み、乙の体にギュウギュウと抱きついた。
必死に取られまいとするその様子に、ミハは軽快な笑い声をあげ、乙を取られた仕返しとばかりにニヤリと口の端を上げた。
「フフッ!…でもね、殿下…男の嫉妬は見苦しいですよ」
「むうぅぅ!…ち、ちがうもん!し、しっとじゃないもん!!」
ますます顔を赤くするカサルアだった。
元気一杯なカサルアを見て、乙はクスクスと笑った。
――本当によかった。
そう心の中で呟きながら、どうかこんな温かい日々が続きますように、と願った…。
どんなに激しく窓を叩くような雨でも…
冷たく凍えるようで、いつまでたっても止みそうになくとも…
しかし、いつかはきっと雨は上がる。
それはきっと晴れやかに、突き抜ける様な青空が、そっと笑って迎えてくれるのだ。
きっと、きっと…。
必ず、雨は上がるのだから…。
そう、もう雨は上がったのだ…。