第22話 記憶
流血します。ご注意ください。
――おかあさまだったのかな。
そう、ぽつりとカサルアが呟いた。
乙や侍女たちは一斉に息をのんだ。
カサルアが“おかあさま”と言った、その言葉に…!
まさか!と思ったのだ。先ほどからうわ言の様に話していたことが、カサルアの母親であるハンナ王妃の事であったとは、誰も想像だにしていなかったから…。
サオは驚愕に目を見開いて、カサルアに近寄っていった。
「…カ、カサルア、様…。あ、あの時とは、まさか…、ハンナ様が――」
ハンナ様が、ご自害なさった時のこと…。そう言おうとして、グッと口をつぐんだ。
カサルアに対しあの日の事は、全てタブーだからだ。
つらい記憶を心の中に封じ込めてしまったカサルアは、あの日に繋がる何かを感じると、記憶が混乱し感情が爆発してしまうのだ。
だから、侍女たちはそうならない様に細心の注意をしてきたが、今の様に自ら思いだしてしまったことに対しては、どうすることもできない。いやむしろ、自ら思いだすという事は、今まで一度としてなかったことなのだ!
緊張に包まれる室内。
カサルアの荒い呼吸音が不規則に木霊する。
「ほんとに、おかあさまだったのかな?…だったら、なんで、どうして、僕に“触らないで”って、“来るな”って!どうして、突き飛ばしたりしたの!!」
「カサルア!落ち着いて!」
「あぁ…、あ、アァッ――!“お前がいるせいで”って――!!」
“お前が生きているせいで”って――!!
両手で頭を抱え込み、金色の髪を振り乱す。
目は血走り、大声で叫ぶように声を荒げる。
途中からカサルアの口調が幼児のそれから、普通の話し方になっていた。
乙は何とか落ち着かせようするが、カサルアが馬乗りになっているため、ほとんど身動きが取れない。
それでも「カサルアしっかりして!」と、何とか手を伸ばす。
すると、カサルアはその手を叩き払い、叫び声をあげた。
「イヤ――!!止めてッ!!おかあさま―――!!」
怯えたように青褪めるカサルア。
そして事もあろうに、乙の首を――手に掛けたのだ!!
「!!!」
グッと細い指が首に巻き付く。
上から体重をかけ、乙のほっそりとした首に徐々に指が食い込んでいく。
側にいた侍女たちが、悲鳴を上げ、場が騒然となる。
どこかで陶器の割れる音がしたが、乙の耳には入ってこなかった。
苦しい…。
頭に血が溜まりぐつぐつと沸騰する。
視界が赤くぼやけていく。
「ハァ、ハァ…。ハハッ!!苦しい?苦しいでしょう?」
「……ゥ」
「お母様!首を絞められるのはね、とっても苦しいんだよ!!」
カサルアは、ハハハと空虚に笑う。
その瞳は熱に溺れ、狂喜に彩られていた。
「…カ…サル、……ア……」
乙は何とか声を絞り出すが、その声はカサルアには全く届いていない。
先ほどよりも体重をかけ、首を絞めあげる。
ぐうぅ…。
薄れそうになる意識の中。
乙は顔にぽつぽつと、冷たい何かが落ちてくるのを感じた。
何だろうと、目をあけると、カサルアの目から落ちてきているのだとわかった。
涙が…。
カサルアのまん丸に見開いたその瞳から、止まることなく涙が溢れていた。
乙は思った。
カサルアは、過去と現在を混同してしまっているのだと。
過去のあの日、母親に首を絞められて殺されそうになった時のことを…。
大好きな母親に、殺されそうになった時のことを…。
乙はそっと手を伸ばし、カサルアの頬に触れた。
哀しい涙が幾筋も流れていた。
「カ…サ……ル…ア…」
両手で優しく顔を包み込む。
ビクッとカサルアが身体を震わせた。
すると先ほどとは違った反応を見せた。
過去を見ていた瞳は、徐々に焦点をあわせていき、本来の色を取り戻していく。
表情も常のように、穏やかなものへと変化していく。
劇的な変化。
まるで、夢から覚めたかのように、パチパチと目を瞬いた。
「あ…、キ…ノ…ト…?」
そう呟いた次の瞬間――。
ドンッッ――!!
体と体がぶつかる様な衝撃音。
それと同時に、乙の首を絞めていた戒めが無くなり、一気に肺に新鮮な空気が流れ込んできた。
ゲホゲホと身体を丸めて咳き込む。
全身に酸素が行き渡るのが脈打つ血管からわかるくらいに、ドクドクと激しい激流となって身体を襲った。
乙は涙目になりながら、薄っすらと目を開いた。
すると、黒い何かが視界いっぱいに広がっていた。
それは乙を覗き込むようにしており、薄目を開けた乙へあからさまに呆れた様な吐息をもらした。
「はぁ…、全く…。大丈夫?キノト。言ったでしょ、何かあったらすぐに呼んでって。僕は、君の陰だからって…。それに、こうも言ったよね。あのガキには気を付けろって…」
飄々とした口調で言いながら、咳き込む乙の背を優しく撫でる。
乙は涙に歪む視界で、闇の様な衣と髪と…そして、瞳を見た。
「…マー…ス…」
掠れる声で、闇の一族の一番手であり、乙の護衛をも務める彼の人の名を呼んだ。
すると、嬉しそうに目を細めた。
そう。
馬乗りになって首を絞められていた乙を助けたのは、マースだったのだ。
なので、マースから体当たりを受けたカサルアは、床に叩き落とされていた。
マースは白いシーツの上に広がる、漆黒の髪を手に取った。
そっと唇に持っていき、静かに口づけを落とす。
「キノト…、君は優しすぎるよ。どうして、抵抗しなかったのさぁ…」
囁くように言うマースの表情は苦悶に満ちていた。
乙は口を開くが、首を絞められていたせいか、声を出せなかった。
その様子にますます苦しそうに顔を歪める。
そして、乙の首筋にそっと目を落とすと――マースが目を見開いた。
乙の白く陶器の様に滑らかな首筋に、赤黒く鬱血した醜い痕が残っていたからだ。
…そしてそれは、くっきりと、指の形をしていた。
スッ―…と、マースの表情に温度がなくなる。
全身に、仄暗く冷たい闇を纏っていく。
乙は驚いてマースの闇色の衣を掴むが、マースが立ち上がった拍子にするりと手から抜けてしまった。
気配なく佇むマース。
その闇色の冷たい瞳は、少し離れたところで呆然と立ち尽くすカサルアを捉えていた。
「…カサルア殿下。15年前の、闇の一族との約定を覚えておいでか?」
「…」
固い口調で話すマース。
カサルアは何の反応も見せない。
「私は、闇の一族の者。決議と掟に従う」
「…」
「今こそ、15年前の、その約定を…成就させる」
「…」
乙は、坦々と感情なく述べるマースの言葉の意味がわからないでいた。
しかし話の流れから推測するに、悪い方向に向かっているのだけはわかった。
「…貴方は、目障りで邪魔だ…」
マースの地を這う様な声が響く。
「…闇の一族の一番手である、この私が、貴方を――」
狩る――!!
カッ――と、眼光を光らせた。
あっという間の出来事だった。
マースは、獲物に狙いを定める獣の如く姿勢を低くし、カサルアの元へと一気に距離を縮める。
そして、流れるような無駄のない動作で、衣の中に隠し持っていた短剣を頭上に翳した。
ご覚悟を――!!
マースが叫び、短剣を握る手に力を込めた。
それが、まさに振り下ろされる瞬間――!!
ふぁさ…、と闇夜を切り取ったかのような漆黒が、マースの視界に入りこむ。
全てがスローモーションのように見えた。
漆黒……の…髪?
ハッ!!と、絶句するマース。
そう。何を隠そう、マースとカサルアの間に飛び込んできたのは、乙だったのだ!!
乙はマースに背を向け、カサルアをその胸に抱き込んだ。
クソッ――!!
マースが気付いた時にはすでに遅く、銀色の鋭利な切っ先が、乙の背を目掛けて振り下ろされていた。
勢いがついたそれを、だれも止めることはできない。
それでも、何とか軌道をそらそうと、マースは手首を捻るが――
ザシュッ――……。
衣と肉を切り裂く音が、悲しく響く。
「!!!」
声にならぬ乙の叫び声が空気を震わせる。
反った身体の背後に、真っ赤な花弁が大輪の花を咲かせた。
――血飛沫だ。
乙はカサルアを胸に抱いたまま、崩れるように絨毯へと倒れ込んだ。
「「「キャャァァアアア――――!!!」」」
侍女の数多の叫び声と怒号が室内に響く。
カサルアはカタカタと小刻みに震えていた。
「…あぁ、…あ。…キ…ノト、…な、なん…で…?」
自分の身代わりになる様な事をしたのか…。
未だに乙の腕に抱かれてるカサルアは、そっと顔をあげて乙を見た。
目が合うと、何と乙は…ふわりと微笑んだのだ。
「――あ…」
その瞬間、カサルアの頭の中でずっと閉じ込めていた記憶が、一気に脳内に溢れだした。
――あの日。お見舞いに行ったカサルアに、柔らかく微笑んだ母親の姿。
――突然叫び声をあげて、カサルアを突き飛ばした母親。
――憎しみに彩られた表情で『お前さえ生まれてこなければ』と呪いの言葉を吐いた母親。
――カサルアの首を絞め、短剣で突き刺そうとした母親。
そして…。
――最後にふわりと頬笑み、短剣で自らの首を掻き切って自害をした、血まみれの母親。
忘れたくて蓋をしていた記憶。
衝撃的な映像に頭が付いていかない。
しかし、一部の冷静な思考回路で、わかったことがあった。
お母様は、すでに、死んでいる…。
過去の再現の様な今の光景。
ガンガンと内側から金槌で叩かれている様な、鋭い痛みで目の前が霞んでいく。
カサルアは青褪めながら、意識を失ってしまった乙を掻き抱いた。
その背中からは止め処なく、温かい血が流れ出ていた。
…ご、ごめんなさい、キノト。
こんな僕を…!!
カサルアは目を瞑りながら、懺悔するように胸の中で囁いた。
キノト…。
ごめん……。
ごめんね……。
僕が、現実を、受け入れていたら…。
こんなことには…。
自然と涙が溢れてきた。
それは洪水のように頬から流れ落ち、真っ赤な血の中へ落ちていった。
「キノト…、キノト。……キノト――――ッ!!!!」
カサルアは叫んだ。
喉が潰れるほどに…。
その慟哭は、王宮を揺るがすほどだった。
きのとちゃんの命はいかに・・・?