第21話 記憶の扉
「キノトはぁ~、まだ~?」
ケホケホと咳き込みながら侍女に問うカサルア。
「もうそろそろお見えになりますから、もう少しお待ちください」
「う~、はやく~。…あいたいよ、キノトにあいたいよぉ…」
熱で顔を真っ赤にしながら、カサルアが弱々しく懇願する。
すると、タイミング良く「キノト様がお見えになりました」と、侍女の声が室内に響きわたった。
微かな衣ずれとともに現れたのは、淡い黄色のシンプルなドレスに身を包んだ乙だった。
ふんわりと微笑む乙にカサルアはいてもたってもいられず、寝台から起き上がり一目散に飛び付いた。
「キノト―!あいたかったの―!」
がっしりと抱きつき、甘えるように顔を乙の首筋に擦りつけた。
カサルアがカゼをひいたというので、乙は心配していたが、思ったよりも元気そうな様子にいくらか安堵した。しかし、服越しに感じる体温は、常よりも熱かった。
「カゼなんだから、じっとしていないと、治らないよ」
「う~ん、だって~」
「だってじゃないでしょう?ほら、寝台に戻って」
「…むぅぅ。いや―!キノトとあそぶのぉ―!」
イヤイヤと幼子の様にぐずるカサルアの背を、乙はそっと撫でた。
「だめだよ、寝てないと…。側に付いていてあげるから、ね?」
「いや―!キノトとあそぶぅ―!」
ますますぐずりだし、乙を「離すもんか」という様に、ぎゅっと抱きしめ、顔を首筋に埋めるのだった。
「困ったな~」と、乙が天井を仰ぎ見た時、ひたりと首筋に熱く柔らかい何かが触れたのがわかった。
「…ッ!!」
突然のことに乙は、ビクッと体を震わせた。
何?今の…、と混乱していると、再びその感触が首筋を襲った。
ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ…
今度は、はっきりと水音までした。
ギョッとした乙は、その原因であろうカサルアを力一杯押しのけた――つもりであったが、乙の細腕では首筋から顔を離させるほどの威力しかなかった。
驚いて目を丸くしている乙に、カサルアはへらりと笑ってみせた。
その口元は、唾液でテラテラと濡れていた。開いた口からは、真っ赤な舌先が見えた。
カサルアが、首筋を、な、舐めた…!?
そうとわかった瞬間、乙はカッと熟れた果実のように真っ赤になってしまった。
そんな乙へ追い打ちをかけるように、カサルアは乙をぎゅっと抱きしめ、頬ずりをするのだった。
まるで、猫が体を擦りつける様な仕草で…。
すりすりと繰り返し頬ずりをしながら、再びほっそりとした首筋に顔を埋めた。
そしてはぁ~と、満足げに熱い息を吐く。
首筋にかかる感覚に、乙の肌がザワザワと粟立つ。
なに、これ…。
びりびりとした甘い痺れが身体を襲った。
不思議な感覚に戸惑っている乙をよそに、何を思ったのか、今度は犬のようにクンクンと匂いをかぎはじめたのだ。
「…ッ!!!」
再びギョッとした乙は制止の声を上げようと思い口を開いたが、それは言葉にならなかった。
なぜなら、乙が言うより先に、カサルアがとんでもないことを言ってのけたから。
「キノト、いいにおい~」
うれしそうににっこりと笑いながら言うカサルアの言葉に、乙は先ほどよりもさらに顔を赤く染めた。
「なんてこと言うの~!」と、内心滂沱の涙を流しながら。
そんなことはお構いなしに、「う~ん、いいにおい~。キノトはぁ、あまいにおいがするの―」と言って、クンクンと匂いをかぎ続けるのだった。
乙は先ほどから妙に過激すぎるカサルアの行動に戸惑っていた。
それに、乙の心臓はドクドクと脈打ち、壊れてしまうのではないかというくらい激しかった。
だから何とか距離を取ろうと、ぐっと身を引いたのだが、それを咎めるかのように突然乙の白い首筋に、カプッと噛みついてきたのだ。
「ッ!!!」
息をのむ乙。
サ―と血の気が引いていくのが、傍目にもわかるほどだった。
カサルアのそれが、いくら甘噛みだとしても、人間の本能として急所である首筋をいきなり噛まれたら、誰でも恐怖せずにはいられない。
側に控えている侍女たちからすれば、2人はずっと親しげに抱擁しているように見えた。そのため、「仲がよろしいわ~」と微笑みすら浮かべていたのだ。
しかし、突然緊張し青褪めた乙を見て、何やら様子がおかしいと思ったのだ。
「…あの、キノト様?どうかなさい――」
ましたか?という言葉をカサルアが遮るように声を上げた。
「うぅぅ…。だめぇ―!キノト―!」
「「「!」」」
突然の大声に、驚く乙と侍女たち。
「イヤ―ぁあああ!はなれたくないの―!」
カサルアは、ケホケホと咳き込み、首筋に顔を埋めながら必死に訴えた。
先ほどよりも熱が上がったのか、とろけてしまいそうな程、熱い身体だった。
乙は困った様に側に控えるサオを見れば、頷きながら近寄ってきた。
「カサルア様、お辛いでしょうから、寝台にお戻りください。キノト様にも、カゼがうつってしまいますよ」
「いやぁ―!キノト、かぜ、いやぁ―!」
「ですから、カサルア様。寝台へ、お戻りを…」
「イヤ―ぁあああ!!」
何とか説得を試みるが、イヤイヤと首を振るのだった。
しかし、立っているのが辛くなってきたのか、荒い呼吸を振り返しながら、少しずつ乙に凭れかかってきた。
身体にかかる体重を乙は支えきれずに、少しよろめく。
慌ててサオが手を差し出すが、突然カサルアは「だめぇええ――!」と叫び、乙の手を引いてあっという間に寝台へ連れて行ってしまった。
それはまるで、好きなおもちゃを取り上げられそうになった、子供の様な仕草だった。
――ポスンッ――
スプリングのきいた寝台へ、背中から跳ねるように着地した乙。
バウンドするその身体の上に、カサルアが覆いかぶさる。
乙はそのほっそりとした身体で、カサルアの全身を受け止める様な姿勢になった。
密着する身体。
熱い熱い身体。
乙の胸に顔を埋めるカサルア。
今、どのような表情をしているのかはわからない。
しかし、ぜぇ、ぜぇ、と辛そうに上下する背中は、とても寂しそうに見えた。
乙は何も言わず、そっと背中を撫でるのだった。
…心と体が一致していないカサルア。そのため、心は10歳の時に止まってしまった。
しかし、いくら心が止まってしまったとしても、体は成長を止めなかった。
心と体は繋がっているから…。
そのため、体は少しずつ成長していくが、それは酷く遅いものだった。
だからこそ、心と体のバランスが悪く、心も体も弱かった。
些細なことで体調を悪くするし、心を病んだ。
それに今も苦しんでいる。
――体に、心に。
今も辛そうに耐えている。
――過去に、現在に。
いつかは、そのバランスを正さなければいけない。
そう、生きるためには――。
時折、ケホケホと咳き込むが、先ほどよりも落ち着いてきたようだ。
しかし覆いかぶさるように乙の上に乗っているカサルアは、何かを考えているのか、水を打ったように静かだった。
その異様な静けさに、乙は肌が震える思いがした。
すると、カサルアが耳元でポツリと呟いた。
「キノト…あまい、におい…」
乙は、まだ言うの?と、少し顔が赤くなった。
しかし、先ほどとは言葉の持つ響きが違うことに気付いた。
「…ほんとに、いいにおい。…あまい、におい」
「…」
「あまいね…。キノトはねぇ、おはなみたいなのぉ…」
「花…?」
「でもね、あのときはちがったの…あまくないし、おはなじゃなかったの…」
何かを思い出す様に、少しずつ言葉を紡いでいく。
「あのときは、へんなにおいがしたの。…あまくなかったの。おはなでもなかったのぉ…」
「カサルア…、あの時っていつのこと?私の事…?」
困惑したように問う乙。
自分のことを言っているのだろうか、それとも違う誰かのことだろうか…と考えてみたが、よくわからなかった。
「でもね、ぼくはぁ、わらったよ。だって、ひさしぶりにあったんだもん」
「…カサルア?」
「だからね、だから…、わらって、たくしゃんおはなししたの。おはなし…」
「…」
乙の問いかけは応じず、独り言のように話し続けた。
…熱に浮かされているように。
「おべんきょうのおはなしに、けんじゅつのおはなしに…。あとね、あとはね…、クロウとあそんだおはなしとかねぇ。いっぱい、いっぱい、したのぉ」
「…そぅ」
「だからね、ぼくのことは、しんぱいしにゃくていいかりゃって…」
「…うん」
「わらったの、ぼくは…。わらったんだ!」
カサルアの落ち着いていた呼吸が、話すごとに荒くなっていった。
「わらったの…、でも、でも…!いつもとちがうの、いつもと!おはなみたいだったのに、ちがうの!」
「…」
「それが、それが、イヤだったの!!」
感情が高ぶり、声を震わせた。
はぁ…、はぁ…、はぁ…、と苦しそうな呼吸とともに、起き上がるカサルア。
「あれは、ほんとうに、そうだったのかなぁ…。あれが、ほんとうに――」
どこか遠くを見る様に、スッと目を細める。
――おかあさまだったのかな。
ぼんやりと焦点の合っていない目で呟いた。
長くなってしまったので、半分を次話にまわしました。
次回、衝撃的な展開に・・・!!