第18話 壊れた心
怖い表現箇所があります。
ご注意を・・・
***
ハンナの侍女に連れられて、カサルアは廊下を歩いていた。
その足取りは軽く、駆け出したいのを必死で抑えているようだった。
「ねぇ、おかあさまにあえる?ほんとうに、あえる?」
近くにいる侍女たちにウキウキしながら尋ねていた。
もう、母親とは6カ月近く会っていない。
病だから会えないと言われ、泣きながらも会いたいのを我慢してきた。
10歳の子供にとってそれがどんなに辛いことであったか…。
キラキラとした笑顔を振りまきながら、寝室の扉をくぐった。
「おか―さま――!」
大好きな母親の姿を見つけ、寝台に駆け寄った。
ハンナは優しい笑みを浮かべ飛び付くカサルアを抱きしめたのだった。
おかあさま!
カサルアは嬉しくて顔をすりすりさせながら思いっきり甘えた。
しかし、カサルアは違和感を覚えそっと身体を離した。
…以前の母親とは違うのだ。
柔らかく甘い香りのした母親は、痩せ細り病人特有のすえた臭いがした。それに、輝くばかりの金色の巻き毛は、今は見る影もなく輝きを失い乱れていた。
…花のように美しく慈愛に満ちた母親は、そこにはいなかった。
病気ですっかり変わり果ててしまった母親の姿に、カサルアはショックを受けていた。
それでも、母親に会えたことには変わりなく、泣きそうになりながらも懸命に笑った。
「おかあさま、きょうはきぶんがいいの?ぼく、とってもあいたかった。おかあさまにあえて、とっても、とってもうれしいよ!」
「私も。カサルアに会えてとっても嬉しいわ」
「ほんとう?」
「えぇ。さあさあ、良く顔を見せて頂戴な。愛しい我が子の顔を…」
痩せ細った指でカサルアの頬を包み込む。
すると「あぁ、自分の子供なんだ」とハンナは妙に安心した。
でも…、どうして泣きそうな顔をしているのかしら?とハンナは首を傾げた。
私と会えて嬉しくないのかしら?と。
カサルアは、母親に会えなかった間に起きた出来事を沢山話して聞かせた。
勉強がどこまで進んだか、剣術も乗馬も以前よりもどんなにか上手くなったか、異母弟のクロウリィと毎日のように遊んでいるとか…。
楽しい毎日を送っているのだと、自分の事は心配しなくてもよいと、顔を歪めながらも笑って見せた。
息子の話を聞いていたハンナは、どこか心がスッと冷えていくのが分かった。
…この子はどうして笑っていられるのかしら、と。
私はこんなにも苦しいのに。
…苦しい?なぜ、私はこんなにも苦しいの?なぜ?
あぁ、そうだわ。
私は……
この子がいるからこんなにも苦しいの。
そうよ、そう。
この子がいなくなれば、私はこんなにも苦しい思いをしなくて済むの。
そうよ。…なんだ、簡単なことじゃないの。
この子を、私の息子を…。
突然、ハンナの記憶がぶわっと蘇ってきた。
『貴女様の父君は、我等を謀ったのです』
『その責めを負うのは当然の事』
『宰相の血族の者の手によって、血族の過ちを正すというだけですから』
『そうです。父君の血を引く貴女様が、その血を引く貴女様の息子を狩ればよいのです』
『つまりは、貴女様がカサルア殿下を、殺せばよいのです』
『殺せばよい』
『これはもう決定されたことだ!もし従えぬと言うならば、我らとてもう容赦はせぬ!』
『了承しないとあらば、一族を根絶やしにしてくれる!』
『いや、そればかりではない!忌まわしき一族に仕えしものどもも、共に道連れにしてくれるわ!』
『数百はくだらぬ命を狩ってしんぜようぞ!』
『我等は手加減などせぬわ!』
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ―――!!
イヤァァァアアアアアア―――!!
ハンナは耳を閉じ、髪を振り乱しながら叫び出した。
驚いたカサルアはただ呆然と母親を見上げた。
叫び声を聞いた侍女たちが集まり、ハンナを宥めようとするが、腕をめちゃくちゃに振り回しながら「触らないで!!」と拒絶した。
母親の尋常ではない姿を目の当たりにし、咄嗟におかあさま!とカサルアがハンナに縋りつく。
しかしハンナは「来るな!」と声を上げ、怯えたようにカサルアを突き飛ばした。
ハンナは、恐慌状態に陥っていた。
そのまま逃げるように、部屋の隅にある化粧台へと走っていった。
侍女たちは、「早く医者を!」「だれか――!だれか――!」「ハンナ様、落ち着いてください!」と、バタバタと駆け回り声を上げていた。…皆が、この事態に対応できていないでいた。
数名の侍女がハンナを取り囲み、宥めようと声をかけていたが、一人がハンナの肩に手をかけた瞬間――「触るな――!」と叫び声をあげ、どこにそんな力があったのか…力の限り突き飛ばしたのだった。
すると突き飛ばされた侍女が、キャ――!と叫び「痛い痛い!イヤ――」と突き飛ばされたにしては尋常でないほどの声をあげて、苦しみ出した。
皆がその様子に驚き、倒れ込んだ侍女を見ると…白いブラウスが真っ赤な血に染まっていたのだ。
!!!
そして突然、クスクスクス…と場違いなほど、陽気な笑い声が響いた。
皆が、その方向に顔をめぐらすと、ハンナが血濡れの短剣をもって笑っていたのだ。
唖然として静まり返る室内。
ハンナは何が面白いのか、さらに声をあげて笑った。
そして一歩一歩、踏みしめるように歩いた。
…カサルアのもとに。
ハンナの青い瞳は爛々と輝き、口元は笑みの形に弧を描いていた。
それはさながら、獲物を前に舌舐めずりする獣を思わせた。
誰も身じろぎ一つしない…いや、できなかった。
カラカラと笑うハンナは、呆然と立ち尽くすカサルアを見下ろした。
ぐっと顔を近づけると、怯えた様に身体を震わせた。
途端にハンナからは笑みが消え、憎しみに歪んだ顔になった。
「カサルア!お前が、お前がいるせいで、私は!」
カタカタと震える小さな体を掴み、怒声を浴びせる。
「お前のせいだ!こんなにも苦しいのは、お前が生きているからだ!…私が何をしたというのだ。なぜ私が代わりに父の罰を受けなければいけない!なぜこんなにも、私は悩まなくてはいけない!なぜなぜなぜなぜ――!」
バサバサと髪を振り乱し、無意識のうちにカサルアの首を絞めあげる。
容赦ない力がカサルアを襲う。
息が詰まり何とか身を捩って必死に抵抗を試みるが、痩せ衰えたとはいえ大人の力には敵わない。
侍女たちも、悲鳴を上げつつ「どうかお静まり下さい!」と説得を試みるのだが、狂気に支配されているハンナには全く届かない。また、短刀を手に持っているため容易に近づくことさえもできなかった。
「もう終わりだ!終わりにしてやる!私は、私はこの苦しみから解放されるんだ!」
高らかに宣言し、首を絞められもがくカサルアに、鋭利に輝く短剣を向ける。
キラリと冷たく光るそれ。
「お前さえ、お前さえ生まれてこなければ――!!!」
絶叫が室内に木霊する。
ハンナは短刀を勢いよく振り上げ、カサルアを刺すべく腕を降ろす。
もう駄目だと、皆が思った次の瞬間――!
ガキィィィイイインンン!
短剣を持つハンナの腕に何かが当たり、凶器がその手から弾かれた。
その衝撃で、カサルアを絞めあげていた手も緩み、カサルアが床に崩れ落ちた。
解放され、苦しそうにゲホゲホと咳き込んでいる。
いったい誰が!?と、皆が振り返った先にいたのは、まだ小さな子供――クロウリィだった。
彼はたまたま騒ぎを聞きつけ、何事かと駆けつけた先でカサルアが首を絞められ苦しがっているのを見た。そして、侍女たちの制止を振り切り、カサルアを助けるために咄嗟に手近にあった花瓶を投げつけたのだ。
…それは奇しくも、サランの花が活けられた花瓶だった。
ハンナは花瓶の水をかぶり、顔からぽたぽたと水滴を滴らせていた。
焦点の定まらない視線の先には、床に無残に花を散らせた、淡く黄色いサランの花があった。
…カ…サ…ルア……?
ぼんやりと床に蹲るカサルアを見ると、その瞳は怯え化け物でも見るかのようにハンナを見詰めていた。
その時、ハンナは悟った。
あぁ、私はカサルアを殺そうとしたのだと。
…私は、母親失格だと。
そっと手のひらを見ると、その手が酷く穢れているように見えた。
ハンナはクスクス笑いながら、後ろに飛ばされた短剣を静かに拾った。
そして、もう一度カサルアを見ると…ハンナが再び短剣を握ったことで、一気に青褪めガクガクと震えだしていた。
ハンナは自嘲気味に笑い、私は本当に母親失格だなと思うのだった。
そして――
カサルア…と呟く。
ハンナの声は小さくて、誰にも聞こえはしなかったが…。
カサルア…。
こんな母親で、ごめんなさい。
私はもう、どうすることもできない。
…ごめんなさい。
誰にも聞こえないほど、小さな小さな声で言う。
最後に、ハンナはふわりと微笑むと、短剣を自らの首に添える。
そして、勢いよく引き抜くと――
ザッ――と血飛沫が宙に舞い、赤い雨を降らせる。
ドサリッと倒れたハンナの首からは、ドポドポと血が流れ出した。
赤黒い血が緋色の絨毯を色濃く染めた。
イヤァァァアアアア―――!!!
カサルアは、血を吐く様に絶叫した。
目の前で、母親が首を掻き切って自害してしまった…。
どうして、なんで?
疑問の言葉が頭の中を駆け巡った。
子供の心に容易には受け入れられない事実。
カサルアは、事切れたかのように気を失ってしまった。
クロウリィはその意識のない小さな体を抱きしめた。
強く強く。
目の前には真っ赤な血の海が広がっていた。
***
「…目の前で、…死んだ?」
乙は呆然と呟いた。
その問いにクロウリィは、あぁ…とだけ答える。
あまりの事に何も考えられず、青褪めた顔をしている乙を見ながら、事の顛末を話した。
「あの後、カサルアは、気を失ったまま3日間意識が戻らなかった。気がついた時には…あの日の事は、何も覚えていなかった。何もだ。…母親が自分を殺そうとしたことも、目の前で自害したことも、何もかも忘れていた。…カサルアの記憶は、母親が病に伏しているところで止まってしまっていたんだ――」
無理もないが…と言ったクロウリィは痛ましそうに目を細めた。
「だが、それだけでは終わらない。…また、“自害”してしまったんだ。闇の一族の罰を受けるべき者が、再び…。そのことに、奴らは烈火のごとく怒り出した」
「そんな!ハンナさんは亡くなってしまったのに!まだ、足りないというの?」
「そうだ。けれど、奴らも一族の決議と掟に従っている。それが再び破られてしまったからには、奴らの怒りも相当で…ある意味後にも引けなくなってしまったんだ。だから、今度は、宣言通り…宰相の一族やそれに仕えし者たちを狩ろうとした」
「……」
まさか、まだ命を狩ろうと言うの…?
乙は絶句した。
しかし、クロウリィは幾分か表情を柔らかくさせ「でも、そうはならなかった」と言った。
「『これ以上の悲劇はもう沢山だ』と、陛下が待ったをかけたんだ。…自らの王妃がその対象となるとわかっていたとしても、口を出すことすらできなかった。けど、今度ばかりは口を挟んだ。…それに、これ以上の騒動になったら、いくらなんでも多くの者に知られてしまい、王家の信用は地に落ちてしまうから…」
そう。
ルドルフ国王は、何とか事態を収拾させるために無理やり介入したのだ。
その結果、何とか闇の一族を宥め、一連の騒動については皆に口を閉ざさせた。
それは、この王家の醜聞を外に流さないようにするためと、ハンナの名誉を守る為だった。
…“我が子を殺そうとした末に自害した王妃”と、罵られないように。
だからハンナは、病死とされた。
そして、心が止まってしまったカサルアは、病弱とされ王宮で療養しているのだとされた。
「…これが、王宮がひた隠しにしている秘密であり、15年前に起こった悲劇だ――」
クロウリィはそう締め括った。
この話はあまりにも残酷で、なんと悲哀に満ちたものであるか――。
…カサルアの発作は、きっとあの日の事に繋がる何かを見聞きした際に起こるのだろう。
もしかしたら、断片的に思い出されるのかもしれない。
乙はそう思っていた。
だから、こんなにも辛い場面を思い出し、必死に逃げようとしているのだ…カサルアは!
しかし、でも…と乙は思う。
哀しみを避けているだけでは何もそこからは生まれない。
辛い過去を乗り越えてこそ、救われるのだと…。
そっと目を閉じてカサルアを想う。
私には、何ができるだろうかと。
その横顔を見ながらクロウリィの顔が少し歪む。
実は、乙には言っていないもう一つの事柄があるからだ。
それは、闇の一族が王の命に従う時に、言った言葉だ――
『陛下がそこまでおっしゃるのなら、我等は引きます…ですが』
『我等はその血族の子に、いつの日にか罪を償っていただきたいと考えております』
『いつになってもかまいません』
『しかし、条件付きで…』
『それは…』
――我らが、邪魔だと感じた時に“カサルア”殿下を狩ります。
そう言って、残忍に笑う男たち。
その顔を見て背筋が凍ったのを今でも覚えている。
…ということは、カサルアは、いつ殺されるとも知れないのだ。
何と言っても、彼らが邪魔だと感じた時に殺されるのだから。
だからこそ、カサルアは王宮に閉じ込められるように生活させられているのだ。
目立った行動をとらないようにするために…カサルアを生かすために。
しかし、最近乙が関わりだして、内心びくびくしているのだ。
乙が関わる事で日常が破られ、奴らがこの機会に何か仕掛けてくるのではないかと…。
だからクロウリィは、キツイ言葉を言ってカサルアから離れる様に乙に言った。
でも、少しだけ期待してもいるのだ。
新しい風は何かを変えてくれるのではないかと。
…ほんの少しだけだが。
激しく窓を叩く雨。
今は冷たく凍えるようで、いつまでたっても止みそうにない。
しかし、いつかはきっと上がる。
それはきっと晴れやかに、突き抜ける様な青空が、そっと笑って迎えてくれる。
きっと、きっと…。
室内に響く雨音を聞く。
身の内に響くその音を聞きながら、2人は無言で俯いていた。
ハンナは最後正気にかえりました。
乙はこの後どうするのでしょうか・・・?
カサルアは?
クロウリィは?