第17話 壊れかけた心
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カサルアの母親はハンナといい、美しく聡明な女性であった。
また、家柄も申し分なくハンナの父親は当時の宰相でもあった。
彼女はルドルフ国王の正妻であり、国王からの愛情も深く第一王子となるカサルアを産むなど、公私ともに順調といえた。
彼女は、とても満ち足りた日々を送っていたのだ。
しかし、ある日事件が発覚した。
ハンナの父親が秘密裏に自らの政敵を闇に葬る為に、国王の下知であると巧妙に画策し、闇の一族を勝手に動かしたことが知れてしまったのだ。
闇の一族は代々、国王に忠誠を誓っているため、国王の命にのみ動く。
それは、ワーグナー国建国以来脈々と受け継がれてきた事柄であり、両者の間でなされる誓約によってそれは守られ、何人たりとも違えてはならないものだった。
また王宮の暗部に属するのが“闇の一族”だということを知っている者は、国の上層部でもごく一部であり、ほとんどの者は名すら知らないというのが現状だった。
その闇の一族を私的に動かしてしまったのだ。
宰相の悪事が闇の一族に露呈した際に、彼らは『なんたることか!』と猛烈と怒り狂い、宰相に制裁を与える決議を一族の中で採った。
それは“宰相の命を狩る”という大変重いものだった。
これほど重い罰が与えられるのには理由があった。
闇の一族は国王に仕えているのであり、それは代々の信頼の上で成り立っている。
それが、謀られたとはいえ闇の一族は国王との誓約を破ったこととなり、さらには信頼を傷付けるという事にまで発展してしまったのだ。…彼らが黙っているわけがない。
彼らは一族の決議と掟に従い、宰相を狩るべく動いた。
…が、
宰相は事が露呈し、もはや逃げ道がなくなったと知ると、自ら首を掻き切って果ててしまったのだ。
闇の一族に狩られるという不名誉を与えられるくらいならば、いっその事と…。
しかし、彼らの怒りは頂点に達していた。
『素直に一族に狩られればよいものを!小賢しくも我等の手から逃れようとは!』と。
当時、一族の中でも保守派と過激派というものがあり、もう少し穏便に事を進めるべきとしていた保守派の者たちもいた。けれども、今回“宰相が勝手に自害した”ということで過激派以上に激昂し『擁護してやっていたというに、何たることか!手加減なんぞいらぬわ!!』と過激派の意見に諸手を挙げて賛成したのだった。
それは“宰相の血族の者の手によって、血族の過ちを正す”というものだった。
つまりは、宰相の一人娘であるハンナが、宰相の代わりとしてその血を引き継ぐものを狩るということだ。
そしてその血を引き継ぐものというのは…ハンナの子、カサルアであった。
“闇の一族の者が宰相の代わりに、その血族の者を狩る”というのではなく、“宰相の血族の者が、その血族の者を狩る”ことを強いたのだ。
以前よりも、さらに重い罰を与えるために…。
またこの時、一連の騒動を一族の者以外で正確に把握していたのは、国王ただ一人だけであった。
全ては秘密裏に進められていたのだ。
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父親が自殺をしたという知らせを受け、ハンナは急ぎ生家の屋敷へと戻った。
棺桶に入れられた父親は、苦悶の末首を掻き切ったとは思えないほど、穏やかな表情をしていた。
見つかった際には、首から血が噴き出し全身が真っ赤に染まっていたという。
「お父様…。どうして…。そして、なぜ自害など…」
崩れるように棺桶に縋り、一人哀しみの涙を流した。
母親はあまりの事に気を失ったまま、今は寝台で臥しているという。
ハラハラと止むことのない涙を流していると、不意に背後から声をかけられた。
「王妃」
「!」
ハンナは驚き声のした方へ振り返った。
それというのも、「お父様と2人だけにして…」と侍女にはお願いしてあったため、この部屋にはハンナと死した父親しかいないはずなのだ。それなのに、自らを呼ぶ声が聞こえたのだから…驚かないはずはない。
誰です?と問えば、背後の暗闇から浮き出るように黒い衣を纏った3人の男たちが姿を露わした。
突然の侵入者に慄きつつも、ハンナは気丈に振る舞った。
「…だ、だれです?この様な、ところに。いったい、何の用ですか?」
「お初にお目にかかります。我等は、闇の一族の者でございます。貴女様はルドルフ国王の妃であられますれば、少しなりとも我ら一族のことは知っておられましょう」
「闇の…。それは確か、国王に仕えているという…?」
「左様でございます」
「…そのあなた方が、私に何の用ですか?」
国王に仕え、暗部を取り仕切るものだと…そう、国王からは聞いていた。
だが、その彼らが何の用だというのか。
ハンナは得体の知れないザワザワとした恐怖を感じていた。
「はい、実は貴方様に込み入ったお話があるのです」
「…話?…あ、後に、してはもらえませんか。…あなた方も見ておわかりのように、私の…私の父が亡くなったばかりなのです。…動揺もしており、冷静にあなた方の話とやらを聞く事が出来ないと、思います…」
俯きつつ父親に視線を向ける。
その瞳には沈痛な色が浮かんでいた。
気丈に振る舞ってはいるが、ハンナの心は父親の突然の死に直面し深い哀しみに大いに乱れ、王妃としての体面を果たすほどの精神力はもはや残っていなかった。
王妃ともなれば、何があったとしても人前で、みだりに我を忘れ乱れることなどできようはずもない。だからこそ今、侍女たちを遠ざけているのだ。
だが、黒い衣を纏った彼らはそれを鑑みることはなく、淡々と話を続けた。
「左様でございますか。しかし、我等は一族の者から貴方様に話を伝えるという任務をおびておりますゆえに。どうぞお聞きください」
「…少し待てませんか」
「待つことも可能ですが…。宜しいのですか。我らの話は、そこにおられる、屍と化し転がっている者の死に関することですが」
「…ッ!お父様の!?」
「左様でございます」
自害したお父様の死に関すること…。
ハンナは大いに動揺した。知りたいと願っていた事を、タイミング良く話に来たのだから。
目を大きく見開き彼らを凝視した。
ハンナの顔には、恐れと期待が入り混じっており、多少興奮もしていた。
…だからか。
ハンナは彼らが父親の事を『屍と化し転がっている者』と、侮辱したことに気付かなかった。
その言葉を理解していたら、少しは警戒しながら聞くことができただろう。彼らの話を聞いた後の彼女の受ける衝撃は、如何ほどのものか…それがありありと目に見えるようだった。
その事をわかっているのかいないのか、3人の男たちは無意識に薄っすらと、残忍な笑みをその顔に浮かばせていた。
…これから話すことが、楽しくてしょうがないとでもいう様に。
「では、お話しいたしましょう。死の原因と貴女様の役割について…」
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父親の死から30日が経ち、喪が明けたハンナは王宮に帰ってきていた。
しかし、以前とは比べ物にならないほどハンナは痩せ細り顔色が悪かった。
時折、遠くを見つめ涙ぐみ、俯く姿を侍女たちは目にしていた。
お父上様を亡くされた哀しみはいかほどかと…。
お労しや――と袖で涙を拭くのだった。
確かに、父親を失ったハンナは嘆き悲しんでいた。
しかしそれだけではない…。
ハンナは口をキュッと引き結び、湧き上がる恐れ、困惑、怒りといった様々な感情に耐えた。
そうしなければ身の内の感情が爆発してしまう様な気がしたから。
そっと目を閉じ、あの日闇の一族から言い渡された絶望を反芻していた。
『貴女様の父君は、我等を謀ったのです』
『その責めを負うのは当然の事。しかし、しかし――』
『そう、困ったことに、狡猾なる父君は我等の罰をお受けになることを拒否したのです』
『その様なことあってはならぬ…大罪もいいところ!』
『自害などと、何と甘い!』
『したがって我々は、今回我が一族を愚弄した罪も重ねて、もっと重き罰を与えることとしたのです』
『なぁに、簡単なことです』
『簡単です』
『宰相の血族の者の手によって、血族の過ちを正すというだけですから』
『血族の者が、血族の者を狩る…ただそれだけです。何も、一族を根絶やしにするというのではありませんから』
『そうです。父君の血を引く貴女様が、その血を引く貴女様の息子を狩ればよいのです』
『…お分かりになりませんか?』
『つまりは、貴女様がカサルア殿下を、殺せばよいのです』
『殺せばよい』
『殺せば』
『殺せ』
『殺せ――』
イヤァァアアア――――!!!
ハンナは思わず叫び声をあげた。
青い瞳にはうっすらと涙が滲んでいた。
私に出来る筈がない!愛しい我が子を殺すなんて!
ガタガタと震える体を抱きしめイヤイヤとばかりに、頭を振った。
出来る筈がないと!
しかし、ハンナはその選択肢しか残っていないことも知っていた。
あの後「そんなこと、無理です!」と涙ながらに訴えたが、いつまでも了承しないハンナの様子に黒い衣を纏った3人はそれまでの穏やかな様子を一変させた。
目を吊り上げ、怒りと憎しみを織り交ぜた様な顔を歪ませ、厳しい口調で言い放った。
『何と!この親ありてこの娘ありだ!』
『我等を愚弄するか!』
『これはもう決定されたことだ!もし従えぬと言うならば、我らとてもう容赦はせぬ!』
『あぁ、容赦などするものか!』
『了承しないとあらば、一族を根絶やしにしてくれる!』
『いや、そればかりではない!忌まわしき一族に仕えしものどもも、共に道連れにしてくれるわ!』
『数百はくだらぬ命を狩ってしんぜようぞ!』
『我等は手加減などせぬわ!』
ガンガンと響く3人の声。
彼らは本気だった。
ハンナが了承しないなら、本当に数百にも上る人々を殺すというのだ!
しかも、ハンナはその罰として一人だけ生き残らされるという…。
どちらに進んでも地獄。
いや、了承しない方が遥かに酷い。
しかしだからと言って、愛しい我が子を殺すことなどできない。
喪の最中ずっと考えていたが、答えなど出ない。
さらに、他言無用と口止めされているため、誰にも相談することができなかった。
…ハンナは少しずつ心を病んでいった。
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1週間に一度、闇の一族の者がハンナに「どうするのか」と聞きに来た。
もちろん答えなど出ない。
あれから3カ月たち、ハンナは病床に臥していた。
寝付きも悪く、夢見も悪い。
食欲もなく、時たま幻聴まで聞こえるほどで…。
病床のハンナをカサルアは毎日見舞っていたが、それにハンナが耐えられなくなってしまったのだ。
カサルアを見ると胸が痛い。苦しい。頭が割れそうだった。
だからここしばらくは、遠慮させていた。
けれど、会えなければ会えないでそれは悲しく、寝台で「カサルア、カサルア、どこにいるの?会いに来てはくれないの?」と取り乱す始末で…。
そんな様子のハンナを気遣って、侍女たちは以前ハンナが「カサルアに似ている、このサランの花が大好き」と言っていたのを思い出し、寝台からでも見える位置にその花を生けた。
ハンナもまた、殊の外嬉しがり愛しそうに見つめていた。
…しかし、ハンナの病状は悪くなる一方だった。
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それから3カ月たち、ハンナの病はさらに深刻化していた。
日常のほとんどを寝台で過ごし、覚醒と眠りを常に彷徨っていた。
起きているのか眠っているのかどちらともわからない状態で、突然叫び声をあげたり笑ったり泣いたりするのだ。また時には、夢遊病のように寝台から起き上がり、何事かを言いながら部屋をぐるぐると歩きまわるなどもした。
ハンナの心は壊れかけていた。
しかし、完全には壊れていなかった。
というのも、ハンナは時折正気に返ったように「カサルアはどこにいますか?」「元気にしていますか?」と、侍女たちに尋ねるからだ。
侍女たちは、この様な状態になってさえ、息子を想う母親の愛情というものの深さに胸を熱くするのだった。
だから、今度正気に返ったときには、きっとカサルア殿下をお連れしようと固く誓いあったのだった。
…どうか御心安らかになって下さいますようにと。
侍女たちの切なる願いだった。
次話もこの続きです。
壊れかけたハンナの心・・・板挟みになりながら、出した結論とは?