第16話 決意
…クロウリィ!
乙は目を丸くしながら、突如として現れたクロウリィを呆然と見つめた。
クロウリィもまた乙をじっと見据えており、その咎める様な視線に思わず目をそらしてしまった。
以前、カサルアが発狂した際にクロウリィは言っていた。
『何も知らないくせに、知ったような顔をして!興味本位で顔を突っ込むな!』
その厳しい言葉を思い出し、後ろめたい気持ちになった。
乙が目を合わせずに俯いていると、クロウリィは固い表情のまま近付いてくる。
そのまま何も言わず、そっと乙の肩を抱き寄せ、膝裏をすくい取り抱きあげた。
!!!
急に抱きあげられ無言で、すたすたとどこかに運ばれていく乙。
クロウリィのあまりにも急な行動に驚き、抗議をしようと見上げた彼の横顔を見た瞬間、喉がひゅっとおかしな音を立てた。
何しろ彼の表情は、一切の感情を削ぎ落としたような、底冷えする冷徹なそれだったから…。
なまじ端正な顔立ちなだけに、その様な表情をされると畏怖すら抱く。
乙は身じろぎひとつせずに、大人しくクロウリィの腕に抱かれていた。
…迫力に圧倒され、声を出すことすらできなかったのだ。
しばらくすると、立派な造りの扉の前に着いた。
クロウリィは振り返らずに、ついてきた侍女たちに向かい「…俺が呼ぶまで、皆下がっていろ。…命令だ」と静かに言い、サッと扉の中に入って行った。
パタンッ…と扉が閉まり、乙はやっと降ろされるかと思いきや、クロウリィはそのまま歩き続ける。
乙は誰の部屋だろうと思っていると、その疑問が無意識のうちに声に出ていた。
あ!と思い慌てて口を噤んだが、出てしまった言葉を無しにすることはできない。何とも気まずい沈黙が続くと、頭上から「俺の」という声が降ってきた。
そう。
ここは、クロウリィの居室であった。
部屋はクロウリィの匂いに溢れ、乙はくらくらと眩暈にも似たものがした。
そのまま、何部屋も連なる居室を腕に抱かれたまま移動する。
そして漸くその腕から降ろされた先は…クロウリィの寝室のベッドの上であった。
そっと真新しいシーツの上に降ろされ、乙は顔を強張らせた。
どんよりとした空は雨をしとしとと降らせ、濁った重たい灰色の雲が広がっており、燭台の灯されていない室内は思った以上に薄暗い。
密室の光の少ない薄暗い部屋に2人きりでいるということに、息苦しさを感じた。
だからか――
何時かの夜が思い起こされた。
ベッドに押し倒され、血がにじむほど激しいキスをされ、身体を弄ばれた――男という存在をいやというほど感じた、あの夜の事を!
知らず強張った乙の表情を上から見下ろしていたクロウリィは、そっと息を吐くと静かに一歩身を引いた。
そして、懐からハンカチを取り出し乙に差し出すのだった。
「?」
目の前に無言で差し出されたハンカチに戸惑い、乙は恐る恐るクロウリィを見上げた。
「…ハンカチ?…何…?」
「これで拭け」
「…何を?」
「ついてる」
「…?」
「血が、ついてる」
「…」
説明することも煩わしいのか、単語で言うクロウリィとの会話を理解するのは難しかった。
しかし、苛立ちを抑えた様な声音に、詳しく聞き返す勇気は出なかった。
…こ、怖いよ、クロウリィ。
血がついてるって、私に?…でも、私、怪我してないのにな…。
と、心の中で呟いていると、いつまでたっても受け取らない乙に焦れたのか、頬にハンカチを押し当ててきた。
な、なに!?と乙が困惑している間にも、クロウリィはハンカチで何かを拭う様に頬を擦った。
何度か繰り返し、そのハンカチを見せると――そこには、本当に血がついていた。
乙は驚いてそれを見つめていると、クロウリィが吐息とともに「…カサルアの血か」と呟いた。
ハッ!として顔を上げた乙の頬に、不意にクロウリィの指先が触れた。
それは撫でるような、何かを確認するかのような優しいそれで――。
だが、それも一瞬の事。
すぐに手を引いてしまった。
そっと見上げたクロウリィの顔は、穏やかで労わる様な優しいものだった。
…が、乙と目が合うと瞬時に責める様な表情に変わってしまった。
「…全く。以前言った言葉を忘れたのか?俺は、忠告したはずだが?」
「わ、私は――」
「今回、怪我はなかったようだが…以前は怪我をしただろう?だからこそ、カサルアには関わるなと言ったんだ」
「怪我は…!私が…私の、責任だもの。…きっと私が、知らないうちに、カサルアの気に障る事を言ったんだと思う。だから、怪我をしたのは、私の責任で…カサルアは悪くないの!」
「だとしてもだ。前回も今回も、大事に至らなかったからいいものを…運が悪ければ、もっと酷い怪我を負ったかもしれないんだ!」
そのことをわかっているのか!と、怒気も露わなクロウリィに、乙はビクッと首を竦める。
乙の事を心配してくれているのはわかるが、先ほどとは打って変わってのこの表情。
「でも!でも、私はカサルアに――」
必死に言い募ろうとする乙の言葉を皆まで聞かず、途中で遮ってしまう。
「怪我だけじゃない、知りもしないで、カサルアの…この件について深く首を突っ込もうとするな!」
「…!」
「お前には、何ら関わりのないことだ!」
関わりのないこと。
いや、関わるな…とやんわりとだが、以前から周囲の人々に言われてきた。
身内の問題、王宮の問題だから関わるなと…。
…クロウリィの言いたい事はわかる。
カサルアは、世間一般には“病弱”なため公には姿を現さないのだと公表されている。
――本当の事は秘されているのだ。
隠すほどの“何かが”あるためだろう。
だからこそ、何も知らない素人が深く関わって良い問題ではないのだ。
でも…。
乙は、カサルアを助けたいと思った。
何かから逃れるように悲鳴を上げて泣きわめき、悲愴な姿を晒すカサルアをどうにかしたいと思ったのだ。例え、それがお節介なことでしかなかったとしても、このまま黙っていることなど到底できなかった。
…カサルアに、心から笑ってほしかったから。
自然と言葉が溢れ出していた。
「…私は、カサルアを助けたい。悲しみから、助けたいの」
凛とした声が部屋に響き渡る。
クロウリィは何も言わず、じっと乙を見つめる。
「…私は、私の世界に入ったものだけでも、守りたいの」
「…」
「私は無力で何もできないけれど。でも、でもね!自分の手の中にあるものだけでも、守りたいの。例え、私が傷ついたとしても。…だから、だからお願い――」
カサルアの事を教えて――
クロウリィの碧い瞳を見つめながら、真摯に言葉を紡ぐ。
交差する視線。
堪え切れず、先に目をそらしたのは、クロウリィであった。
はぁ…と疲れた様に溜息を吐いた。
そのまま崩れるように乙が座る寝台に腰かけた。
ギシッと軋む寝台。
俯きながら固まったように、クロウリィは床の一点を見つめていた。
何かを深く考えているようだが、その顔は終始無表情だった。
…どのくらいの時が経ったか。
雨脚が酷くなり、窓に叩きつけるバシバシという音が寂しく響いた。
寝台に腰かけたまま微動だにしなかったクロウリィは、徐に決意を秘めた瞳を乙に向けた。
そして、唇を動かし言葉を紡いだ。
本当に、知りたいのか――
真実を知る勇気があるのか――と。
乙は、口を引き結び頷いた。
漆黒色の瞳には、何を聞いても受け止めて見せるという強い意志が宿っていた。
思わずクロウリィは、眩しそうに目を細めるのだった。
そして一言乙の背後の暗闇に向けて呟いた。
「闇よ」
すると、部屋の隅の暗がりから何らかの気配が、ぶわっと溢れだした。
意識的に気配を露わしたそれは、暗闇の一部を切り取ったかのように音もなくこちらに近寄ってくる。
そして薄暗い室内の中で、人の輪郭だと判別できるギリギリのところで止まり膝をつき首を垂れた。
「お呼びでしょうか」
乙は、ハッと気付いた。
その人物がマースであることに…。
目を見開いた乙を眼の端で捉えつつもクロウリィは何も言わず、冷えた目で王宮の暗部を取り仕切る一族“闇の一族”であるその者に向かって命じた。
「闇よ。これからこの部屋に誰も近づけるな、もちろんこの部屋に闇が入る事も禁じる。…外に侍っている闇たちにもそう伝えよ」
「御意」
無駄な会話など一切ない。
マースは終始乙に意識を向けることなく、淡々と命令を受け、そのまま腰を折り後ろへ下がっていってしまった。
再び暗闇の一部と化すと、気配も何も感じられなくなった。
遠くで微かに扉が閉まる音だけが聞こえた。
シン――と静まり返る沈黙が肌に突き刺さる。
クロウリィは軽く息をつき、乙に向き直った。
互いに瞳を合わせる。
「これから話すのは、王宮がひた隠しにしている秘密だ。一生口を閉ざす誓いを立てることになる。…それでも、聞く気はあるのか」
最後に確認するように、乙に問いかけてきた。
乙は迷わずに、「はい」と一言告げる。
クロウリィは無言で頷く。
「わかった、話そう。…これは、今から15年前に起こった、悲劇だ――」
重い口を開き、そっと話し出す。
その瞳には、沈痛な色が翳っていた。