表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
漆黒の愛し子  作者: 花垣ゆえ
Ⅱ章 暗闇から光へ
26/48

第10話 闇の一族


午後の日差しは木漏れ日となって優しく降り注ぐ。

時折、さわやかな風が吹きサワサワと葉々を揺らしていった。

王宮の庭園はやわらかな時を刻んでいた。


乙は王宮の庭園にいる。

噴水の縁に腰かけて、物憂げな表情で水面を覗き込んでいるところだ。

その白くほっそりとした手を清らかな水に沈め、その冷たさを感じていた。

水を手に掬い、指の隙間からポタポタと滴らせドレスの袖が濡れることも気にせずに…何度も何度もそれを繰り返している。


ピチャン――…


水滴が落ち何重にも波紋を描き揺れる水面を見て、昨夜のことを思い出していた。




◆◆◆




昨夜、クロウリィは突然乙の寝室にやってきた。

得体の知れない妖しい気配を纏って…。


そして、乙を責めた。

だが、乙には全く身に覚えのないことだった。


次第に激しさを増す言葉。

恐ろしくて悲しくて、なぜそんな酷いことを言うのか理解できなくて…。

それでもなんとか反論した乙に、彼は言った。

耳元に唇を寄せ、ゾッとするほど冷たい口調で直に言葉を吹き込んだのだ。


『もう、ヤッたんだろ。ルシカ、ニース、それにミハ…』

『や、やめて!』

『…隠さなくてもいい』

『な、なにも…も、もうやめ…』

『―――…』

『!!!』


何もしてない、もうやめてと…震える声で精いっぱい否定した。

だが、それを聞くことはなく、クロウリィは囁くようにこう言ったのだ。



オレモナカマニイレテクレヨ



硬く、表情のない言葉で。

声もなく絶句してしまった乙を彼は荒々しくかき抱き、引きずるように寝台へ連れていき乱暴に投げ飛ばしたのだ。


…その後の、記憶はあやふやだった。

怖くて怖くて。

ギュッと目を閉じ、嗚咽をかみ殺していたから。




気付いて目を開けた時は、空が白み始め小鳥の鳴き声が窓から聞こえていた。

乙はきちんと夜着を身に着け、寝台にいつもと変わらずに寝ていたのだ。昨日のことはすべて夢だったのかと思った。

でも…鏡を見たときにそれが現実であることを思い知った。


…実は、泣く乙に寄り添い背を撫でていたクロウリィは、乙が眠りに就いた後で新しい夜着を着せ寝台の乱れを直したのだ。何事もなかったかのように。翌日、侍女が来が来たときに下手に勘ぐられないために…。

だから、乙は昨日のことを夢だったのでは?と思ったのだ。いつもと変わらない目覚めだったから。



しかし、鏡に映しだされるのは、首筋に残る赤い情痕。



それがキスマークだと気付いたときに、全身から力が抜けへたり込んだ。

カタカタと震える体を抱きながら。




◆◆◆




ひんやりと清らかな水に手を浸しながら考えていた。

なぜクロウリィはあんなことを…と。

考えても考えても答えは見つからなかった。

何か、気に障ることを言っただろうかと考えたが、やはりわからなかった。


はぁ、と軽く息をはく。

そして思った。

男性というものは、父や兄とは違うのだと。


もし誰かがこの言葉を聞いていたなら、何を今さらと呆れたに違いない。しかし、乙は今までずっと女子高で学んできて、また“男”が近寄ると双子の兄たちが乙の知らないところで排除していたため、男性という生き物の本質を知らなかったのだ。だからずっと、“男性=父や兄”という方程式が成り立っていたのだ。

さらに、この世界に来てからも周りにいるのは男性ばかりだったが、そのどの男性も皆紳士であり、神官であり…乙をそう言った対象で見るものは皆無だったのである。したがって、乙の中の方程式は崩れることがなかったのだ。


それが…。

昨夜、クロウリィはそれを見事に打ち砕いたのだ。

雄々しい男性の欲望を漲らせ、ギラギラとした双眸でもって乙を見たのだ。

そして欲望のままに触れたのだ。


乙にとっては初めてのことであった。

だから戸惑ったし、それがどういったことを意味しているのかもわからなかったのだ。

…今もわからないが。




乙がぼんやりしていると、いつの間にそこにいたのか乙の正面にだれかが立っていた。

え…?

乙もやっとその存在に気付き、水面を見ていた顔を上げると柔らかい笑みを浮かべたニースが立っていた。

そして、お疲れのようですね、私がいることに気がつかれないほどに…、と少しからかう様な声音で言った。

対する乙は、あ~…はは…と何とも気が抜けた返事をしたのだった。

その様子にニースは、ふふふと笑うと労わるように言った。


「ふふふ。昨日はお疲れさまでした」

「…はぃぃ。疲れましたよ、慣れないことをするのは緊張しますし…でも、色々な人と色々なことを話して、とっても楽しかったなぁ~」

「そうですか、それは良かったです。それに、多くの者と交流をもつことは貴方にとってもきっと良いことでしょうからね」

「ええ。勉強を教えてくださる先生たちも、良く言っています。“実際に己の目で見て聞くことで見聞が広がるんだ―!”って!」


乙は先生の口真似をしながら嬉しそうに言った。

ちなみに先生というのは、乙がこの世界のことや国のこと等を学ぶためにルドルフ国王が用意した教師たちのことである。乙は、良く学ぶ生徒であったため教師たちも「教えがいがある」と、乙のことをとても気に入っていた。


「ふふふ、そうでしたか。ちなみに今は、どのようなことを学んでいるのですか?」

「えぇと、最近はワーグナー国の周辺の国について、かな?」

「もう国内のことは、終わったのですね。キノトは、まじめで良い生徒のようですね」

「まじめ…プッ!そうかな~?…はは!」

「ふふふ。あぁ、では勉強の成果を私に披露してはくださいませんか?」

「披露…?…う~ん、それじゃあ、すこしだけね!」


乙はおもしろそうだ!とニコニコしながら、ニースに勉強の成果を披露した。


「ええと。まず、ワーグナー国から。…ワーグナー国は、中央大陸の東に位置していて30ある国の中で最も広大にして肥沃な大地をもっていて、また気候は一年中穏やかな春の陽気であることから、ワーグナー国は常春(とこはる)の国と言われている。そして、肥沃な大地と広大な土地であることから農業が盛んで、鉱物などの資源も豊富にある――」

「本当に良く学んでいますね」

「本当?じゃあ、次は隣国のルディアン!この国は、小さい国で領土はワーグナー国の3分の1しかない。だから、国を守るための軍事力は隣国の数倍もある、とも言われている。国の守りは堅固であり屈強な軍事国家として、ルディアン国の名声は大陸中に響き渡っていて、国が小さいことから商品の加工に力を入れている…」

「そうですね。あぁ…先ほど、軍事力は隣国の数倍もあるとも言われていると、言葉を濁したのはなぜですか?」

「それは、ルディアン国が隠しているからです。軍事力により他国を牽制しているため、実際は公表しているものよりも多いだろうといわれているからです」

「正解です。…それは教師が?」

「はい、そう言ってましたけど…私も、国の歳出歳入の資料などを見て、そうなんじゃないかって思いました。それに、税金も高いみたいだし…?用途を公共事業費とかに隠しているみたいだし…?」

「ふふふ。本当に聡いですね、キノトは…」


ニースは的確に答えを返してくる乙に感嘆していた。

きっと乙のことだから、今語るにおいて膨大な量の情報を知りつつあえて詳しくは語らず、簡単に要点だけを話しているのであろうと思われた。なぜなら、それを語る乙には全く迷いがないからだ。深く理解していなければ、こうも自信をもって話すことなどできないだろうから…。

ニースはもっと乙から色々と聞きたくて「…では、他には?」とキラキラとした笑みで聞いた。

しかし乙は、困ったように少し顔を曇らせていた。

ニースの要望には答えたいけれど…と、言ったような顔をしていた。


「え~…そうですね…。後は、ザウント国かな…?」

「では、よろしくお願いします」

「はい…でも、まだ学んでいる最中ですから…あまり詳しくは…」


不安げに言う乙にニースは、それでも構いませんから――と言った。

乙は少し考えるようにしながら、少しだけ…ともごもご口を濁しながら言った。


「…ザウント国は、ワーグナー国とルディアン国の南に位置する国で、海に面している国です。領土は大きいけれど、そのほとんどは砂に覆われている砂漠の国で、陸上と海上の交易がとても盛んであり他大陸との交流もある…て、こんな感じですね、今のところ…」


少し自信なさげに上目づかいでニースを見上げつつ乙は口を閉じた。

そんな様子の乙を見て(実際は目を閉じているので見てはいないが)、全てを聞き終えたニースは大変感心していた。乙の知識の深さと、教えられたことを全て鵜呑みにするだけでなく、気になったことがあると自ら調べ探究するという姿勢に。女性であるにも拘らず、これほどとは…と。

ニースは笑みを深くしながら乙を見た。


「よく、こんなに短期間で…本当に素晴らしいとしか言いようがありません」

「い…いいえ!まだまだですよ!ザウント国は、まだ途中で…これから、もっともっと学んでいこうと思ってるの」

「えぇ、頑張ってください。ですが、学びすぎて体調などを崩したりなさらないで下さいね」

「はぁ~い、わかりました!」


クスクスと2人は笑い合った。




その後も、他愛無い話をしつつ笑い合っていた。




◆◆◆




話しこんでいたら、いつの間にか王宮の庭園は日が傾き、夕焼けに染まりつつあった。



ニースはころころと鈴が鳴るように笑う乙を、愛おしむように見つめていた。

白磁のごとく滑らかな頬は、夕焼けに染まり橙色に光り輝いていた。


その美しくも妖しく、幻想的でもある乙の頬に、不意にそっと触れた。


「…!」


乙は突然伸びてきた手に、ピクッと体を震わせてしまった。

以前であれば、この様なこと(いきなり触れられたりすること)には全く反応などしなかったというのに…。


ニースはそんな乙の様子に気付いていないのか、今度は優しく包み込むように背に腕をまわし抱き締め、そのほっそりとした首筋に顔を埋めたのだった。

乙はニースのこの突然でかなり積極的な行動に驚き、グッと身を固くした。

何…?なんで…?

疑問が次々と生まれては消えていった。

乙は自身の胸が不用意にどくどくと脈打つのを聞いた。


こんな体の反応は初めてだった。

なぜ、こんなにも緊張してどくどくと胸が脈打つのか…わからなかった。


なにも反応せず固まってしまった乙に向けて、言葉を紡ぐ。


「…どうしたのですか、震えていらっしゃる」


その声は酷く甘く響き、ねっとりと耳に纏わりつくようだった。


「クスクスッ…。変だね、胸もこんなにどくどくいってる。…脈が速い」

「…えっ、あの…」


乙は戸惑い、声を出すも何と言ってよいのかわからず、口を閉ざした。

ニースは何も言わない乙の首筋に顔を埋めたまま、熱い息をふぅ―…と吐いた。


ぞわり…。

首筋にかかる艶めかしい吐息に、乙の肌が粟立った。その何とも言えぬ感覚に戸惑い、羞恥に顔を赤くした。

そして再び、乙の反応を楽しむかのようにねっとりとニースは問うた。


「…フッ。…ねぇ、どうかされました?顔が真っ赤」

「…」

「答えないの?…耳まで赤いのに。…赤い果実のように」

「…」

「ねぇ、食べたらおいしいかな」


そう言ってペロリと乙の耳を舐め上げた。

ヒッ!!!と、声にならぬ悲鳴を上げた乙の反応に満足そうに微笑んだ。



乙は、耳を舐められ昨日のことが否応もなく思い出された。


そして、怖いと感じた。


その恐怖から必死に逃げるように、カタカタと震える体を叱咤し、あらん限りの声で叫んだ。


「…っ!…や、やめ…やめて!…ニ、ニース!…ニース、ニース!!」


肺にある空気すべてを使って力いっぱいに叫んだが、喉から出た声はとても頼りなく囁くほどのものだった。

それでも必死に言い募った。


「…ス、ニース!…ど、どうしたの。な、なんで、こんなこと…」

「……」

「…お、おかしいよ。…ニース。あぁ、ニース!本当に、本当に、ニースなの!?」


いつものニースと違う。

だから乙は言った。

…本当に、ニースなの!?と。


すると、ニースは声を出さずにククッと喉を震わせるようにして笑った。

どこか満足したような雰囲気を出しつつ…。


ニースは抱き締めていた乙から一歩、二歩と離れた。


乙は離れたニースに安堵し、ふっと安心したように息を吐いた。

そして不安げに漆黒の双眸を揺らし、ニースを見た。


…え?


乙はニースを凝視した。

何度も目を瞬いて、それが現実なのかと確認するように。


乙が驚くのも無理はない。

なにせ、ニースの目が開いていたのだから。

ニースは目が見えないために、その瞳はずっと閉じられている。だから目を開けてこちらを見ているニースに驚いたのだ。

けれど、驚いたのはそれだけが理由ではなかった。

…瞳が、瞳に映しだす色が、仄暗い闇を湛えていたからだ。

底なしの闇に冷たく引きずり込まれる様な…。


驚く乙の様子をじっと見ていたニースは、満足そうに口の端をニッとあげた。

そして一言。



気付くの遅いよ。



と、言い終わるのが早いか、サッと後方に飛び退りながら衣の胸ぐらをつかみ、鮮やかに体を半転させた。

ふぁさ――…と、白地の絹のローブが空中で扇状に広がり、乙の視界からニースが一瞬消えた。

広がった衣の白い残像を目で追うように見ていると、それは一気に黒い塊の中に消えていった。


トンッ――と、軽く地面に着地した音が聞こえた。

ハッと我に返った乙の目に飛び込んできたのは、黒く跪く塊だった。


そしてそれは音を立てずに、むくりと立ちあがり乙を正面から見据えた。


その瞳に映し出される色は、仄暗い闇だった。


「!!!」


乙は驚きに目を見開いた。

先ほどまで白い衣を纏っていたニースが、一瞬ののちに黒い衣を纏っていたのだから。

しかも、そこに立っているのは…ニースではなかった。

知らない、男性だったのだから。


突然のことに驚き、呆然と言葉を失っている乙を見つめ、その男はうっすらと笑うように目を細めた。


「…そこまで驚くことかな?気付くの遅いし…というか、鈍すぎだね。キノト――…」


キノト――と酷く甘い声音で、ねっとりと言われた。

その妖しさにぴくりと体を振るわせ、乙は恐る恐るといったように尋ねた。


「………あ、…あ、なたは、いったい。…だ、れ?」


男は嬉しそうに口の端を上げ、少し頭を傾げた。


「僕?僕はね、君の護衛だよ。護衛」

「ごえい…?」

「そぅ。陛下に命ぜられて、ずっと君を陰で見守ってきたんだよ」


気付かなかった?と問われたが、乙は全くわからなかった。

まさか、陛下に言われて乙の護衛をしていたなど…。



実は、ルドルフ陛下は乙の負担にならないようにと、初めからずっとこの男(他にも数名)を乙の護衛として陰に控えさせていたのだ。考えてもみれば、神の次に尊いとされる乙の身辺警護が、護衛兼侍女の3人などと、こんなに少ないわけはなかった。ルドルフ陛下は秘密裏に優秀な数名を乙の護衛として配置させていたのだ。

そんなことになっていたとは露知らない乙であった。


「…し、知らなかった」

「知らなくて当然。僕を誰だと思っているの?闇の一族といわれる、王宮の暗部を取り仕切る一族の一番手だよ?」

「え?闇の一族?暗部?」


乙は知らない単語が出てきたため聞き返したが、知らなくてもいいよと簡単に返されてしまった。

相手がそれ以上言う気がないとわかり、先ほどから気になっていたことを聞いた。

…あなた、実はニース?と。

乙にしてみたら、先ほどまでニースと庭園で会話をしていたのだが、一瞬ののちに目の前にいる男性に代わってしまっていたため、かなり容姿は違っているのだが実はニースが変装?のようなものをしているのだろうかと思ったのだ。


その、のほほんとした乙の質問に一瞬男性は驚きに目を丸くさせ、プッと吹き出した。

まだ自分のことをニース神官長だと思っているのかと…。似ても似つかないだろうと…。



男性の容姿は、まさに闇のようだった。

すこしうねる髪は暗褐色で肩ほどまであり、瞳の色もまた暗褐色ではあるがその瞳の奥には仄暗い闇が垣間見える。

年齢は20代後半と思われ、肌の色は白く、ずっと日に当たっていなかったかのような病的な白さで、その身を覆うのは黒い衣で体の線も衣の合わせ目もわからない長衣だった。


男は優しそうな顔をくつくつと笑いに歪ませ、種明かしをした。


「僕はニース神官長ではないよ。ただ、化けていただけさ」

「化ける?…え?だって、顔がさっきまでは確かにニースだったよ?」

「じゃ、今は?」

「今は、全然違うけど…」

「くくっ…。知らない?“力”を使ったんだ」

「“力”って…なにそれ?」

「知らないのか?“力”っていうのは、至高神ホロより生まれいでた“木火土金水”の力の片鱗のことさ。…まぁ、詳しくは神官に聞くんだな。」

「……」


またしても、それ以上は言う気がないのか簡単に説明をして、口を閉ざしてしまった。

再びのことに、乙は少しムッとしたが、ルシカに聞こうかな…と考えつつ話を整理した。


えぇと。その“力”があるから、ニースに顔も姿もそっくりに変装できたってことだよね?てことは、この人はニースではないってことだね。

疑問が解決してすっきり!と、晴れ晴れとした顔の乙を見て男は、はぁ~とため息をついた。

…そんな顔してるから、男が群がってくるんだよ、と愚痴りながらいくらか真剣な目を乙に向けた。


「それはそうと…。君は少し――いや、かなり無防備すぎる」

「えぇ?」

「はぁ…。だから、もう少し慎重に行動してほしいな。いくら僕が護衛してるからと言って、守られる本人がもっと自覚もって行動してもらわないと。…ねぇ?」

「えっと…。わかった」

「本当に?…絶対わかってないと思うな」

「そんなことないよ」

「…まぁ、いいけど。…でも、昨日のことは流石にいただけないね」

「…!!!」


昨日のこと…と言われ、乙はビクッと体を揺らした。

目の前の男は知っているのだろうか?

ドキドキしながら凝視していると、男は不愉快そうに眉を寄せた。


「全く…。君からオスの匂いがして、気分が悪い。……君は僕のものなのに…」


最後のほうは声が小さく、乙には聞こえなかった。

はぁ…と深く溜息をつき男は乙に背を向けた。


「…じゃ、またね。僕は行くよ」

「え?」

「あぁ、そうだ。僕のことも、さっき話した内容も全て秘密だから。誰にも言ってはいけないよ。…それと、僕は常に君の陰にいる。何かあったら、すぐに呼ぶんだ。…わかった?」

「う、うん。わかった。…ありがとう」


戸惑いながらも乙は返事をしつつ、あ!と思った。

大事なことを聞いていなかったからだ。


…彼の名前を。


そう思っているうちに男はすたすたと歩いて行ってしまう。

まって!と追いすがり、黒い衣を掴んだ。

男は首だけ、乙を振り返り見おろした。その顔は、何?と乙に次の言葉を促していた。


「あ、あの。…名前、聞いてなかったから。呼ぶのに呼べないじゃない?」

「……」


男は乙が自分の名前を聞いてきたことに、驚いていた。そんなことを今まで聞かれたことがなかったからだ。

暗部にいる者たちは“個人”というものは重要視されていない。

だから暗部のものに用があるなら、ただ「おい」とか「闇」とかいえばそれを察して暗部は姿を見せるのだ。


この目の前にいる女は、名前がないと呼べないという。

個人など求められることはなかった、それなのに今この女は確かに“僕”を認識し必要としているのだから…。


言葉にならないほどの感動が身を襲う。

しかしそのことはおくびにも出さずに、しれっとした表情で言う。


…マースと。


乙が、マース?と問うと、彼は少し眩しそうに目を細め、乙の手をとった。

そっと包み込むように手を握り、ご入用の時はなんなりとお申し付け下さい――とニヤッと上目づかいに笑ったのだ。

その艶やかな笑みに、思わずポッと顔を赤くした乙は恥ずかしそうに俯いた。



その瞬間!



――ザッ!



という音とともに、目の前にいたマースが消えていた。


乙は一瞬のことに目を丸くし、キョロキョロと周りを見回すもマースはどこにもいなかった。

目を瞬かせ、夢じゃないよね?と確認している乙の顔に、日の落ちた黄昏の闇がそっと陰を作っていた。







一応、Ⅱ章にでてくる主要キャラはこれでそろいました。


彼は、4話の最後にちらっと出てきた、あれです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ