第12話 吐露
目に映るのは、漆黒の闇。
眠る意識が、ふっと浮上する。
重い瞼を押し上げて、暗い夜闇をぼんやりと見つめる。
………夜になった…んだ。
そう。乙は朝に目覚めてから起き上がることなく、そのまま引き摺られるように意識が闇に落ちてしまったのだ。
だから、一日中眠り続けていたことになる。
そっと身体を起こそうと身じろぐと、全身に電流が流れたような鋭い痛みが襲った。
「!!!」
美しい顔を苦痛に歪める。それでも唇を噛み締め、我慢して起き上がる。
…その痛みが、乙には悲鳴に聞こえた。
全身を襲うその痛みが、もう3日間何も口にしていない身体が告げる…最後のシグナルのように。
空腹感を通り越した胃はもう何も訴えてはこなかったが、水分を取っていないために喉はカラカラで身体が干からびているようだった。そして僅かに動くだけでも、全身に電流が流れたような痛みが襲った。
シーツから裸足を抜き取り、床に降り立つ。
身体がビリビリと痛んだが、かまわずに隣室のバルコニーへと移動する。
しんと静まりかえる闇夜は暗く、明りは天から降り注ぐ欠けた月の光だけである。
淡く白い清廉な光に導かれるように、バルコニーの端までゆっくりと移動する。
冷たい夜の風が乙の身体を撫でる。
白い肌は徐々に体温をなくし、青白く変化していった。
その陶器のごとくすべらかな青白い肌を淡い月光が包み込む。まるで乙自身が発光しているかのようだった。
漆黒の双眸は空に浮かぶ欠けた月をその瞳に映しだし、瞳と同じ漆黒色の髪は夜闇と同化するかのように妖しく揺れていた。
凄然たる美。
もはやこの世のものとは思えぬほど。
神々しくもあり儚くもあり、妖艶でもあり清廉でもあり…
そしてその瞳に宿るのは、切望だった。
ほそい腕を空に向かって突き出す。
…帰して。
かすれた声で呟く。乙の悲痛な心の叫びであった。
………つ!!!
求めるように突き上げていた手を降ろし、自身を抱え込んだ。強く。強く。
固く瞳を閉じる。痛みを我慢するように。
…どれほどそうしていただろうか。
先ほどから乙を見上げる一対の目があることに全く気付いていなかった。
そしてそれはしばらくすると、乙がいるバルコニーの近くに生える木に苦も無く登り、あっという間に2階のそのバルコニーに降り立った。
カツン―――ブーツのかかとが高らかに鳴る。
乙は気付かない。
そのことに内心苦笑しながら、背を向ける乙に近づく。
「…よう。お譲ちゃん」
乙に向けて明るく声をかける。その瞬間、ビクッと肩を震わせ声がした方へ半身を捻ると、その人物とひたりと目が合う。漆黒の双眸と碧い双眸が見つめ合う。
だれ…?
乙は僅かに思案し記憶を手繰り寄せる。
以前にもこうやって見つめあった記憶が…?そこではっと気付く。
「………昼間の?」
呟くと、「正解」と嬉しそうに青年は破顔した。
そう。この人物こそ、一昨日神殿の庭園で出会った青年なのである。
秀麗な顔は少年のように破顔し、碧い瞳は夜闇の中にあっても快晴の突き抜ける空を思い起こさせ、太陽の光を集めた襟足の長い金糸の髪は淡い月の光に照らされ光り輝いていた。
白いシャツはボタンが3つ外され、無駄なく鍛え上げられ引き締まった身体が見え隠れしていた。
乙はなぜここに青年がいるのか、その疑問を口に出そうとすると、それを遮るように彼が話しだした。
「…弱ってるな。何かあったか?
あんまり根を詰めんなっていったろ?お譲ちゃん。…ガキは……笑ってろよな」
またニカッと破顔した。
その晴れやかな笑顔を見て、乙の中で何かにひびが入った。
そしてそれは、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
「―――ッ」
その衝撃に耐えきれずに身体が膝から地面に崩れ落ちる。
パシッ。
すんでのところで青年が乙の身体を胸に抱き込む。
カタカタと小刻みに震えるか細い身体を感じ、さらに強く抱きしめる。安心しろとでも言うように。
しばらくすると、青年の胸の中に抱かれていた乙は再び震えだした。
―――泣いているのだ。
この世界に来てから不安と緊張とで押しつぶされそうな日々を過ごしていた。しかし決して泣くことはなかった。泣けばすっきりしたかもしれないが、涙は一滴も出なかった。それなのに、今大粒の涙がとめどなく溢れだしていた。何かが壊れたかのように、ポロポロ、ポロポロ…
なぜなのか…
良くわからない。
でも、青年の晴れやかな笑顔がきっかけとなったのは確か。
乙は青年の胸の中で縋りつくように泣きじゃくった。
震える背中をなだめるように、青年は大きな手で優しくさすった。何度も何度も…。
すると乙は、心の中に渦巻いていた気持ちを吐きだした。
少しずつ。
自分にわからせるように…
わ…私、わかってた。全部。全部…。
この世界に何で来たかも。
全部全部。
んっ…ひっく。うぅ………。
も、もも…もし、この世界に私を連れてきたのが、だれかわかってたら…
連れてくる意味があって私を連れてきたんだから。な、何か理由があったからなんだっよ。
理由があって連れてこられたなら………私は説明聞いてさ。それで納得とかもできたと思う。
―――怒ると思うけど。でも必要とされてるって。
この世界に存在する意味も見つけられるから…。
…でも、違う。本当はそうじゃない。
だ、だれも私を連れてきてない…。だれも。なのに、私はここにいる…。
それじゃあ、存在する意味がないよね…それは、必要がないってことで…。
それに―――それに、それに!
私の家族。
私の家族は何かおかしかった。今考えると…皆は知ってたんだよ。そう、私が違う世界に行くのを…。
そうじゃなきゃ…あの朝、何で『行っておいで』とか『怪我しないで、がんばれ』とか。
知ってたから、言ったんだよぉ―――。
う…うぅ。ん……ひぅっ…。
なんで?
ど、ど、どうして。言ってくれなかったの???止めてくれなかったの???
わ…わた…しって…
―――いらない子だったの???
―――捨てたの???
あぁ…あ…うぅ。
ううん。ううん。ち違う、違うの………。
だれも何も悪くない。何にも…だって。
本当は…。
本当は本当は、全部…
―――私のせい。
私が選んだこと。
知ってる。知ってるんだ。全部、全部、全部全部全部全部全部全部全部全部全部!!!
私がこの世界に来たのは…
―――あの人に会いたかったから。…あの人に!
ずっと。ずっと、ずぅ―――と、会いたかった。あの人のもとに行きたかった。
だから…あの人のいる世界に来た。
だから、あの時。あの人の手をとった。つかんだ。
そう…だから私は今、ここにいる。
誰のせいでもない………。
…家族だってそう。
優しい家族だもん。私が、行くか行かないか、それを選べるように。
心のままに選べるように…何も言わなかった。
そう。私の意思を尊重してくれたんだよ…自由に、ね。
だから…逆。逆なの。わ…わ…たしが。
―――家族を捨てた。
捨てたんだよ。
私が。
私は、あの人のもとに行きたかった。
あの人に逢えた瞬間、わかった。一度も会ったことなんてなかった。けど…わかった。私たちはずっと、離されてた。一緒にいるのが普通なのに…。
………やっと逢えた。
もう。離れたくなかった。絶対に。
だから…私はこの世界に来た。あの人のいる世界に…。
―――ただのわがまま。
はぁぁぁ…。
わかってるよ。
だから、私には…この世界に存在する意味はないって。
だって、ただのわがままで来たんだから…。
…でも、でも見つけるよ。
きっと。存在する意味を…。そうしないと、皆に申し訳ないもん…。
だから―――精一杯、生きるよ。
生きるよ。
――――――自分らしく。
嗚咽を噛み殺し、乙は自らの心の内を吐露した。
「…ずっと、わかっていたこと」と。
しかしそのことを受け入れてしまうには、辛すぎた。
いきなり違う世界にきて…さらに自らの“神の愛し子”という尊さにも!
だから、見えないふりをした。誰も頼ることのできないこの世界で。
…そうすることでしかできなかったのだ。
しかし、会って間もない青年の笑顔を見て、心の中にあったつかえが取れたような気がした。
なぜだかは分からない…。
青年は乙が吐露する間ずっと「…うん、うん」と促すように、ただやさしく聞いていた。
何も聞かずに、ただただ聞いていた。
そんな乙は泣きつかれ、しゃべり疲れ…いつしか眠ってしまった。
青年の温かな胸の中で。
おもむろに乙を抱き上げ青年は歩き出す。寝室へ。
広いベッドの上に優しく降ろす。
白いシーツに漆黒の髪が流れ、その上に輝く金の髪が落ちる。
漆黒の夜闇の中に浮かぶ月のようであった。
青年は、吐息がかかるほど間近に乙を見下ろす。
乙は目を赤く腫らし泣き疲れた顔をしていたが、その表情はとても穏やかだった。
じっと見つめる。
………―――――。
青年は乙の額に口づける。そして言葉を紡ぐ。加護の言葉を。
「…御光があらんことを」
そして付け加えるように…
「…漆黒の愛し子に」
そう言い終わると、踵を返し寝室を後にした。
夜空には、淡く輝く月が見守るように浮かんでいた。
きのとがこの世界に来た理由がわかりました。
苦しいことを認めるのはつらいことです。頭では分かっていたことですが、心が追いつかなかった…ということです。
次でⅠ章は終り。