第11話 悲愴
夜の帳が落ちあたりは静寂に包まれる。
昼間は太陽の光で白く輝く大理石の廊下は、夜になり淡い月光に微かな輝きを反射させていた。
淡く輝く廊下にルシカの濃い影が伸びる。
その影は彼の心を映し出すかのように悲しみの色を湛えていた。
はぁ…
今日何度目かという溜息をつく。
彼の手には、手つかずのままの冷えた夕食があった。
…乙の夕食である。
しかし彼女は一切夕食に手をつけなかった。それだけでなく、朝食も昼食も食べていないのである。
そう、もう丸一日何も口にしていない、水でさえも…。
少しでも食べてくださいと言っても食欲がないと口を閉ざし、せめて水だけでも飲んでほしいと懇願しても頑として口をつけなかった。そんな様子を見たルシカは、きっと何か理由があるのでは?と踏んではいたが、それがなんなのかは全く思いつかなかった。
頑なな様子の乙。
何かあるとは思うが、ルシカは何も聞けなかった。
―――私でよければ話してください。
―――お願いだから話して。
―――支えになりたいのだから………ねぇ、キノト。
そう言えたらどんなにいいか。
しかしルシカはその言葉を言ってはいけない。
私は神官。トトゥロ大神官長の命には逆らえない。
彼の言葉が蘇る…『事実のみを話し、無用な慰めや励ましなど一切無用』
………。
彼の端正な顔には常の甘やかさは微塵もなく、悲痛と苦渋に歪められていた。
唇をグッと引き結び、彼は乙の部屋を後にした。
ルシカが去った部屋。
寝室のベッドの端に腰かけ、ぼんやりと窓の外に見える大きな月を見上げる。
乙の漆黒の双眸に淡い光が反射する。
地球にいたときと同じような月がそこに見える。残念ながら星の位置は違うようで、星座はわからなかったが。それでもその星の瞬きは同じだった。
郷愁。
次々に思い出が浮き上がり乙の心を掠っていった。
―――もう1日経った。
この世界に来たのは昨晩のことだ。
その時の記憶はないが、目覚めたら朝だった。
そしてこの世界のことについて、トトゥロ大神官長という偉い人から色々聞かされた。
ルシカさんには自分から聞いた。
今思えば、自分から聞いたのにもかかわらず『もういい』って叫んでしまった。酷いことをした…。
午後には神殿の中庭に降りてぼんやりした。
そしたら不審青年が嵐のように過ぎ去って言った。誰だったんだろう。
ぼんやりと考える。
………お腹がすいた。
考えてみれば今日丸1日飲まず食わずだった。
最後に食べた記憶は、仏像展の帰りに公園で食べたサンドウィッチか。
………お腹がすいた。
でも、食べない。
どんなにお腹がすいても。
いや…食べられない。今の私には。
それは乙なりの決意でもあった。
『食べることは、生きること』―――昔どこかで聞いた言葉。
だから―――。
まだこの世界で“生きる”と決めていない乙は、食べられない。
元の世界に戻れないと言うなら、ここで生きるしかないのかもしれない。
でも…だからこそ、今だに心の整理すら済んでない自分は、そのまま流されてはいけない。物を食べればそのまま生きてしまう。
…だから食べない。
整理がつくまでは。納得するまでは。存在意義を見つけるまでは…
あぁ。見つかるのだろうか。
締め付けられる胸の痛みに思わず俯く。
その小さな背中は泣いているようにも見えるが、一滴の涙もこぼれてはいなかった。
ただ…目を虚ろに見開かせているのだった。
◆◆◆
朝が来た。
やわらかい朝の光が降り注ぎ、小鳥の囀る声がそこかしこから聞こえてくる。
乙は起きあがる。
いつの間にか寝てしまっていたようだ。
昨晩はずっと考え事をしていたが相変わらず頭の中はぐちゃぐちゃとしていた。
軽い頭痛がした。それに喉もひりひりと痛み、体は水を欲していた。
ちょうどルシカが朝食を運んできた。
そして酷く苦しげな表情をして、召し上がってくださいと懇願してきた。
…食べるわけにはいかない。
結局その日1日、何も口にすることはなかった。
◆◆◆
また、朝が来た。
曇天の空に太陽の光がさえぎられる。
薄暗い室内。
薄らと瞼を押し上げるが、目の前に霞がかかったように視界がはっきりしなかった。
昨日とは違い起きあがることができない。
身体を動かそうとするたびに、電流を流したかのような痛みが全身に走る。
口の中はからからで干からびているみたいだった。
ルシカが朝食を持ってくる。
「――――。」
彼が何かを言ったが聞き取れなかった。
乙が意識を手放したからだ。
…酷く、眠い。
そのまま眠りに就くのだった。
その夜。
彼の手には手つかずのままの冷えた夕食が握りしめられていた。
…乙の夕食である。
もう丸3日彼女は、朝食も昼食も夕食も何も食べていない。もちろん水も…。
朝からずっと寝たままだ。今もまだ寝むり続けている。
…ずっとこのままなのだろうか。このまま、何も食さず衰弱していくのだろうか。
それが…キノト、あなたの意思なのか?
蜂蜜色の瞳は、苦しげで切なげで…
ルシカは何もすることのできない自分に焦燥していた。
ギリッと唇を噛み締める。
いやな味が口の中に広がる。
―――自分の無力さの味がした。
愛しい人の支えになりたいのに…ルシカは何もすることができない。
切ないですね。
そして次、男その2が再登場します。