第9話 願い
う―ん。
瑞々しい薔薇色の唇から、愛らしい声が漏れる。
ルシカはそっと気付かれぬように、悩ましげな吐息をもらし少女から身体を離す。
胸の中に閉じ込め勢いよく床に転がったためか、少女の漆黒に輝く長い髪が彼に絡みついている。
少女の白磁のごとく白い身体に染まるのは、夜闇を切り取ったような漆黒色の髪と双眸。
闇から生れし至高神ホロの躰は、漆黒色。
そのため漆黒色は神の色彩であり、只人である人間の身には決して現れることのない色。
それほどまでに尊い色をその身に染める少女。
神官であれば…神に仕える神官であるからこそ、目を奪われてやまない色。
神官がその色彩を帯びた少女をその瞳に映したのなら…
どれほどの感動に心が痺れるか―――きっとこの少女はわからないであろう。
いや、わからなくてもいいと、ルシカは思う。
そして自らの存在価値も尊さも、わからなくていい。
自らの価値の尊さに押しつぶされるくらいなら、そのまま何も知らないでわからないままでいい。
何も知らぬあなたでいいと思う。
…苦しむくらいなら。
それに…私があなたを守りますから。
だから、何も私に聞かないでください。
聞かれたら私は答えなければいけない。答えれば、あなたは知ることになる。知ることになれば、きっと苦悩する。だからそうなったら…今の私はあなたを支えることも守ることもできない。
そう。今の私はトトゥロ大神官長の命で動いているのだから。彼の人の命には逆らえない。
『真実のみを口にすること』との命を。
これは暗に少女を励ますだとか勇気づけるだとか、話を聞くことさえも禁じているのである。
だからきっと相談にも乗ってくれないそっけない私は、あなたにとって私は疎ましい存在、憎き存在となってしまうだろう…。
だから。
あぁ、だからお願いです。
私に何も聞かないで―――聞かないでください!
――――――私の、愛しいひと……。
床に倒れている少女の身体を抱きあげ寝室から移動し、隣の部屋へと向かう。
ルシカはソファーに少女を降ろし、無言で朝食の準備を行う。
…んっ。
少女――もとい乙は、だんだんと目を回した頭が正常に戻りつつあった。
目を何度も瞬かせ、ようやく周囲を確認することができた。
朝食の準備を終え、相向かいのソファーに浅く腰掛けこちらを見る青年と目が合った。
その青年は曇天を思わせる灰色の髪に、濃いとろりとした蜂蜜色の双眸をしていた。
…目を覚ました時に見た人だ。と思った瞬間、その青年の口からとんでもない言葉が漏れた。
「あなたは、自殺するつもりだったのですか」
「!」
乙は“自殺”という単語が出てきたことに驚き、またその怒気を孕む強い言葉に目を真ん丸くしてしまった。
青年の瞳を覗き込むと酷く悲しげに、そして真剣な色を湛えていることに気付いた。
―――自殺だと、本気で言っているの…?
「…ち、違います。そんなことはしません」
「では…ではなぜ窓から身を乗り出し、飛び降りようと?」
そう言ってルシカはますます悲しげな色を瞳に濃く湛えた。
「ちちち違うよ―――」と乙は内心焦り、自らの行動を振り返ってみたら…彼が言うこともなんとなくわかる気がしたのだった。
乙は窓枠から足をかけ身を乗り出していたのだから。
それでも…乙がいたのは2階の部屋で飛び降りても死ぬことはないのだが、それを自殺と勘違いするとは…
…心配されている?
そう思うとほんの少し、胸の中にある不安が薄くなったような気がしたし、とてもうれしかった。
彼の蜂蜜色の双眸を見つめ、乙は正直に答えた。安心させるように。
「飛び降りようとしたのではなく、まして自殺なんてしようとは思っていませんよ?私はただ、話がしたかっただけです。あの…。外にいる植物たちと。彼らと話して、理解したかったんです。…トトゥロ大神官長さんから聞いたことが…本当なのか。確認したかったんです。彼らは決してウソはつかないから…疑うつもりはなかったんですが、それに少し身を乗り出し過ぎましたね」…心配をおかけしましたとやわらかく微笑んだ。
少しばつが悪そうに。
ルシカはそんな乙の話を聞き、自殺ではなかったということに安堵すると同時に青ざめた。
少女の自殺を止めるべくして行った決死の行為は無意味であったというそれに。怪我はなかったが、目を回させてしまった…それに寝室はめちゃめちゃだ。
あぁ…何ということを。
乙はいきなり青ざめてしまったルシカの表情を見て「これはまさか…あの時のことを悔やんでいるのだろうか」と思った。
実際には、誤解を生むような行為をしてしまった私がそもそも悪いのだから、彼が気に病むことはないのだけれど…真面目そうな彼は後悔するのだろうなと思い、彼が謝罪などの言葉を言う前に慌てて言った。
「あの!さっきは、ありがとうございます。あなたは…自殺しようとする私を必死に止めようとしてくれたんですよね。いえ、あの。…誤解させるようなことをした私が悪いんですから―――」
―――だから謝らないでください。
きっぱりと言う乙。
その様子を見たルシカは、内心驚いていた。
まさかルシカが青ざめた内容をいち早く察しただけでなく、「気に病むことはないのだ」とも言うのだから!
そんな少女の聡明さと心の温かさに心がふるえたのだった。
あぁ…なんて……。
ルシカはその端正な甘い顔立ちにやわらかい笑みをたたえ「…わかりました」と呟き、今の今まで名乗りを忘れていたことに気付いた。
こんなところは上官であるトトゥロと良く似ているのだった。
「―――紹介が、随分と遅くなってしまいました…申し訳ありません。改めまして、私はワーグナー国の中央神殿に仕えております、第一神官のルシカと申します。当分の間は私があなたのお世話をさせていただくこととなりましたので、何かございましたら遠慮なくおっしゃってください」
それに応えるように乙も言う。
「…ルシカさん。……わかりました。これからよろしくお願いします。私も遅くなりましたが…私の名前は速水乙です。速水が姓で、名が乙です」
紹介を終え、それぞれが相手の名前の響きを確かめ合う。
…キノトというのか…変わった名だが。あなたらしい名です―――
とルシカが思っていた矢先、少女には決して聞かれたくないことを聞かれてしまった。
「…ルシカさん教えてください。この世界について、私について―――」
「!!!」
ルシカの胸がキリキリと痛んだ。何も聞かないでほしいとあれほど願ったというのに!!!
私には何もできないのだから!
しかしそのような動揺は一切顔には表わさずに…彼は何の事でもないように言う。
何を知りたいのですかと。
乙は長い漆黒の睫毛を僅かに下げながら聞く。
私の“愛し子”としての立場について。そして…
―――私は元の世界に戻れるのですか?
ルシカ思わず心の声出ちゃいましたね。…神官なのに。
願いというタイトル。だれの願いでしょうかね…
次、ルシカの言う”あの男”出てきます!
はい。男その2です。どんな人か楽しみ~ワクワク