第18話「親友よ」
モナルダは既に魔女としての力を失っている。感覚で分かる。シトリンが届けた薬をフランシーヌは既に服用して、新たな魔女となったのだ。しかし、それを知るのは限られた者のみ。まんがいちにも知られてはならないと黙してきた。
おかげで、ナイルズを含んだ大勢の兵士たちは誰もが彼女を『恐ろしい魔女』と信じて疑わない。彼らは、魔女が次に何を仕掛けてくるかと考えるだけで足が震え、武器を持っていながら抵抗する気力を削がれていた。
「ミズ・モナルダに道を開けてやれ。傷は深い。いくら不死身といえども、そうすぐには逃げられまいよ。わざわざ武器を握らねばならぬほどの状態なのであれば、我々は後で追えばいい」
ざわついていた者たちが、ナイルズの言葉に冷静さを取り戻す。それはそうだと頷いた。モナルダが何故動けているかは分からなかったが、所詮は重傷者だと納得する。────ほんの少しの間だけ。
「では失礼するよ。ゆっくり追えるならそうするといい」
しばらく銃を構えたまま、程々に距離を取ったら銃を捨てて走り出す。森から平原を目指すには一直線の道を駆け抜ける必要がある。兵士たちの「武器を捨てたぞ、追え!」と、叫ぶ声が背中に響く。
止まらない。止まれない。傷の痛みはない。小さな道具ひとつでどこまで保つかは分からない。だが走った。掛けた。銃声が響き、弾丸が頬を掠めても。胸を貫いても、彼女の速度は落ちなかった。
「この馬鹿共が、ろくに狙いもつけられんのか!」
「そう言わないでやって下さい、公爵閣下。彼らは訓練中です」
諫められて、ナイルズは腹立たしさを胸の中に押し込む。
「もういい。弾を込めるのにも時間が掛かるだろう。後は私が追う。貴様らは未だ見つかっていない村の連中を探せ!」
近くの厩舎から馬を奪う。周辺の調査から戻ってきた兵士のマスケット銃を持って、モナルダの後を追いかけた。人間の足では急いだところでたかが知れている、と安心しきっていたが、彼女の足は想像よりずっと速い。何かしらの魔法を使ったのか、とまだ見えぬ姿に歯を軋ませた。
それも数分も経てば話は変わる。暗闇の中でも差し込んだ月明かりにようやく姿を視認。瞬く間に差し迫って、彼女の前に出てから振り向いて銃を構えた。
「もうやめておきたまえ、モナルダ。苦しむのは辛かろう」
「だとしても、私は走らねばならないんだ。互いにそうだろ?」
「……かもしれん。生まれがそうであっただけで、嫌な話だ」
「撃て。それでも私は前に進むだろう。完全に血が空っぽになっても」
「私の知る君は、もっと傷の治りが早かった」
モナルダが動けばいつでも撃てるよう、引き金の傍に指を置く。
「さっきはああ言ったが、君のやった事を見て違和感に気付いていた。君は不死身ではない。痛みを忘れ、死を忘れ、ひとときの行いに命を懸けている。後、どれほど君は生きていられるのだね?」
モナルダは申し訳なくなった。彼の声が、ひどく震えていたから。
「分からない。三十分くらいかな。……徐々に感覚を取り戻すが、その頃には肉体の方が先に限界を迎える。ここまで、だろう。お前には迷惑を掛ける。本当にすまないと思っているよ、ナイルズ」
生まれたときからの付き合いだ。お互いの事をよく知る親友だ。泣いたときには慰めてもらったし、腹が立ったときには宥めてもらった。礼がしたいと呼べば、魔女はいつでも手土産を持って『一緒にお茶でも』と笑いかけてくれた。
そんな人間をナイルズは殺さねばならない。彼女の愛する人さえも。
「泣くなよ、坊。お前の選択は正しい。その背中に圧し掛かる重さに抗ってはいけない。お前は、お前のやるべき事をやりなさい。大勢の命を救うために多少の犠牲を払って、後ろ指を指されても仕方ないと諦めるんだ。それが責任だ」
銃を構える腕が降りる。ナイルズの視線と共に。
「思えば君とは五十年来の親友をやってきた。互いに良い事も悪い事も企んで、共に肩を並べて仕事をした。……その結末がこれだなんて、あんまりだ」
「分かっている。だが仕方ないじゃないか。────好きなんだろ?」
魔女ほど物知りはいない。特に友人に関しては。
ナイルズ・ミルフォードという男が、いかにフロランスを愛していたか。叶わない恋と分かっていても、若い頃から抱いた未だに抜けない恋心。彼女の味方をして当然だ。ましてや、その背中に何十、あるいは何百の命を背負っていれば。
虚空に向かって銃弾が放たれ、空へ弾が消えていく。
「十分だ。十分経てば追いかける。そして私は、君たちの命を容赦なく奪うだろう。別れを済ませてくると良い。ミズ……いや、モナルダ。先に逝ったとしても、すぐに会える。すぐに会いに行く。話はこれで終わりだ」
「ああ、わかった。また会ったときには、ゆっくりお茶でも」
土を蹴る音がして、モナルダが横切っていくのを見送った。馬から降りて、ポケットから火薬を包んだ紙と鉛玉を取り出す。
「────公爵閣下! 遅れました、魔女はどこへ!?」
「これはクリストバルくん。見た通り逃げられてしまった」
無様だな、とわざとらしく肩を竦めて、弾込めの作業をしながら。
「だが問題はない。流した血が点々と道を示してくれている。せめてもの情けに友人の後始末くらい、私にさせてはもらえないかね?」
「……そうですか。そういう事なのですね」
クリストバルは紳士な男だ。自身の忠義が何処にあるかを考え、魔女と公爵の関係を慮って、胸に手を当ててお辞儀をする。
「では閣下のご指示に従い、〝公爵指揮下にある兵は皆、事態の収拾につき先んじて帰還の準備を整えて待機〟とさせて頂きます」
「助かるよ、クリストバル。君と共に働けて光栄だった」
優しい声に、兵士長は自らを律するように首を横に振った。
「あなたと働ける我々こそが幸せ者でしょう。お待ちしております、閣下」