銀の蜘蛛
目の前を信じられず三度瞬きをして、それでも変わらぬ景色に思わず頭を抱えてしまう。
「どこなんだよ、ここ……」
街の中の下水道ですらない、何一つとして見当も付かない場所。
いや、厳密に言えば一箇所だけ。正面彼方に小さく見える、大きな山だけは心当たりがある。
あれは恐らく聖山。大国デクールの中心にして、そのふもとに国の要たる王都ニースが置かれた本来俺がいるはずの場所だ。
それがどうしてあんなに遠くに見える? いや、そもそもあれは本当に聖山なのか?
まさかとは思うが、国外なのかここ? 似ているだけで、まったく違う場所だったりするのか。
……駄目だ、推測出来る材料がない。今は王都から遠い場所で納得しておくしかないだろう。
それにそれよりも考えなければいけないのは、この赤色の空についてだ。
夕暮れの茜とは根本から異なる、真っ赤で淀んだ血のような空色。
なんだこれ、こんなに空が赤く染まるなんて意味が分からない。それこそ生まれてから一度も経験がないし、誰からそういう気候があるなんて聞いたこともなかった。
「赤い空。……ふむ、儂にだって分かる。これは正常ではない、そうじゃろう?」
「ああ。夕方にしてもおかしい。まるで、違う世界にでも来たみたいだ」
違う世界。そうだ、まさにそうとしか思えない。
もしかして、これは夢? あの変な場所で目覚めてから今まで、全てが幻なのか……?
「これ、目の前を疑うでない。真実から目を逸らすのは簡単じゃが、それは解決には繋がらんぞ?」
「……ああ、悪い。ちょっと逃避してた。目の前には誠実に、そうだもんな」
エメルの叱責に昔ディード兄貴の言葉に教わった、冒険者に必要な心構えを思い出す。
そうだ。どんなに訳の分からない現象を前にしても、考えることを止めちゃいけない。そう教わってきたじゃないか。
大きく息を吸って、それから吐く。それを三回繰り返した後、空な方の手で軽く頬を叩く。
大丈夫、ちょっと瞬間の許容量を超えていただけ。……うん、落ち着いてきた。
「とりあえず進もう。村か集落でも見つけて、そっから情報を集めていかなきゃな」
「それでこそじゃ、主様」
ひとまずの方針を決め、とりあえずは聖山へ向かって真っ直ぐに歩き出す。
何もない大地。不安な俺に、ふわふわと脳天気に周囲へ目を輝かせるエメル。
……言うと調子に乗りそうだから言わないが、こいつに感謝しないとな。
こんな場所に一人で放り捨てられていたら、ここまで冷静に動けたか分からない。楽観的な阿呆セリスとは違っていろいろ考えちまうからな、俺は。
「ふんふーん♪ 外は広いのぉ~」
「……楽しそうでいいよな。こっちは不安だらけだってのに」
「記憶なしじゃからのう。外というのがどうにも新鮮なんじゃよ」
エメルはそう言いながら、ちょっと変な形の石を拾い上げてはくるくると手の中で遊ばせている。
……ところでお前、実体じゃないとか言う割に物持てるのか。どういう身体してんだ?
まあ精霊や妖精のことなどよく知らないし、それらに近いであろうこいつのことなど深く考えても無意味なのだろう。
調べるにしてもまずは帰ってから。快く請け負ってくれること間違いなしな専門家もいることだし、今は隅に置いておくのが吉だ。
にしても謎だ。記憶喪失と自称しているが、言葉は流暢だし完全に無知というわけではないように見える。
果たしてどこまでが本当なのやら。……ま、隠し事くらいは誰でもするしそれも後でいいか。
「のう主様! あれは何じゃ!? 獣か!?」
「……ん?」
それより今後を、具体的には人のいる場所が見つからなかった場合について考えようとしたのが。
その思考を遮る興奮した口調の問いに、またしてもため息を吐きながら顔を上げる。
エメルが指差していたのは一匹の獣。目を凝らしてようやく見える距離で、四足で地面を踏む大きな生物であった。
あれは……猪種か? こんな不毛の地で、どうやってあそこまで肥えたんだか。
恐らくこの辺りの固有種だろう。美味いか不味いか知らんが、まあ猪種なら食えないことはないだろ──。
「……嘘だろ?」
あいつを今日の夕食にしてやろうと、そう思った瞬間だった。
徐に動いていたはずの猪種がふと顔を上げ、次の瞬間にはこちら目掛けて突進を開始してくる。
気付かれた? 馬鹿な、俺の知っている猪種なら間違いなく気付けない距離なはず。
それに速い。速すぎる。とてもではないが、あいつらが出せる速度じゃないだろうこれは。
今にも迫る突撃に驚愕すれど、それでも余裕を持って回避しながら猪種の腹を斬りつける。
速度を殺しきれず、地面を削りながら滑り転がる猪種。
ま、どこまでいこうが所詮は猪種。俺も光の翼の一員として、こいつ一匹程度に不覚を取るわけにはいかないだろう。
「タフだ……何だあれ?」
のそりと立ち上がり、鼻をひくつかせながらこちらへ向いてくる猪種。
浅かったか。手応えは確かだったのだが、存外に頑丈な皮だったのかもな。
余計に苦しむことなく終わらせるべく構えようとして、獣の頭部に張り付く奇妙なものに首を傾げてしまう。
頭部から片目を覆う銀色の塊。鉄の兜……いや、小さな蜘蛛種?
俺の困惑と思考をよそに、再び迫り来る猪種。
その突進を紙一重で躱しながら、今度は本気で剣を振り、猪種の体を両断した。
「ほーう? 相変わらず見事な一太刀よのう……」
「そりゃどうも。ま、兄貴ならもっと上手くやれるんだけどな」
エメル賞賛に軽く返事をしつつ、軽く振って剣の血を払う。
褒められたのがどうにもむず痒いが、実際ディードの兄貴ならもっと鋭く切断出来るし、もっと精進しなきゃならない。
ま、これでもセリスよりかは上手いと自負してはいる。
あの阿呆がやるとぐちゃぐちゃにしちまって売れねえし、二人で駆け出しやってた頃なんてそれはもう苦労したっけなぁ。
何となく昔を懐かしみながら、倒れた猪種を解体するべく振り向こうとした。
その瞬間だった。背後から聞こえるはずのない音が、この耳へと入ってきたのは。
「なっ」
直ぐさま振り向きながら退がり、音の原因を目にして唖然としてしまう。
何故ならそこで動いていたのは、首を断ちきり、頭と胴を分け、確かに命を奪った獣の骸。
先ほど切ったはずの猪種であったはずのもの。
そのはずなのに。そうであるはずなのに、その頭蓋は地面を削ぐように蠢き、銀色の兜を輝かせながらこちら目掛けて飛びかかってきていた。
あ、あり得ない。だってこいつは、さっきこの手で殺して──。
「主様っ!」
理解出来ない現実。そしてあまりに悍ましい姿に動じ、剣を構えるのが遅れてしまう。
僅か一瞬にして、これ以上ないほど明確な隙。
だがそれこそが致命。動かぬはずの肉の塊が、進路上の俺の身体を突き飛ばそうとした。
「青火よ」
その寸前だった。猪種の頭蓋が、横から飛来した一筋の青光に弾き飛ばされたのは。
「なっ……」
何か起きたのかと確認すれば、青い炎が頭蓋、そしてその上で銀色の生き物を燃やしている。
甲高い金切り音を鳴らしながら苦しみ藻掻くその生き物。
あれが兜の正体。形的には蜘蛛種なのだが、あれは一体……?
「油断したな。最近の獣は銀蜘蛛を殺さなきゃ止まらない。それが常識ってもんだぜ?」
疑問と安堵、対応出来なかった不甲斐なさで剣を強く握りしめながら、銀色の何かの正体を探ろうと青い火へ近づこうとした、その瞬間だった。
光の飛んできた方角から聞こえた、どこか聞き覚えのある気がした男の声。
一瞬ディードの兄貴かと考えてしまったが、あの人がここにいるわけがないと首を振り、そちらへ顔を向け声の主を注視する。
「よう坊主。こんな果てんな軽装とは、死ぬ前のピクニックでもしていたかい?」
そこにいたのはボロ布のような灰色の外套で頭まで覆い、その端を風に靡かせた人の姿。
顔も身体も何一つ分からぬ、声で男だとかろうじて分かるだけの謎の人物が、どうにも兄貴を想起させる口調で、こちらを見ながら唇を上げていた。