07 聖女、いかる
聖女のマノ(真野)はまた不機嫌だった。
騎士の群れが立ち去り、止めていた息をやっと大きく吐き出す。
「……もう」
彼らは独特の料理の臭いを全身から発していた。
二つ前の聖女が造ったカフェテリア、騎士らの社食でラーメンとチャーハンと餃子のセットを食べて来たのが丸分かり。
背に羽織ったマントの生地に油の臭いが染みついているし、口を開けば更なる悲劇が訪れる。
――息しないで。毛穴も閉じて。
同じ臭いを発する集団の中に交じっているから彼ら同士は気付かない。
周囲からすれば立派な公害だ。優しさなのか騎士が恐いのか知らないが誰も彼らに指摘しない。
マノは遠慮しない。明日にでもランチメニューから排除させてもらう。中華を食べたいなら金曜の夜食べればいい。翌日誰とも会わない前夜にだ。
ラーメン定食は「調味料」からバトンを引き継ぎ、料理の「レシピ」を増やした聖女の仕業だ。
二人連続で、料理をやりっぱなしにして後片付けをしていない。
食生活が変わった影響でこれまでに無かった病気が出てきた。
特に「レシピ」の聖女はスイーツ開発も好き放題にやってくれたから、虫歯患者が増えている。お砂糖ザクザク。当然だろう。
マノは呆れた。二人だけでなく一つ前の聖女マイカにも呆れた。
マイカは何をしていた。
――いや彼女は結構大雑把で、鈍感だったな。
自分が輝く事しか興味のないプリンセスの癖して女子力が案外低い。少なくとも食後きちんと歯を磨くタイプの女子では無かった。それか鼻炎だったか。
頼りにならない。ただ大雑把だったからこそ婚約者の死から立ち直るのは早かった筈だ。その点は、まあ良かったねと思わないでもない。
三人の聖女たちに呆れるのを止め、マノは決意した。
彼女たちのやらかしの後始末をする。
「歯磨き粉と携帯用歯磨きセットを作る。食後の歯磨きを徹底させる」
こうしてマノによる「予防医学」の道が開かれた。
マノは開発した歯磨きセットを無償で配った。とにかく定着させたかった。
更に彼女は美容と健康にも力を注いだ。肥満など以ての外だ。
マノの努力の甲斐あって国民たちの生活習慣はみるみる改善されていった。
忙しい合間を縫ってマノは王太子と結婚した。
王子様とのイチャイチャ新婚ライフ――なんてこの頃のマノにはすっかり眼中になかった。使命感に燃えていた。王太子は疎外感を味わっていた。
何年もすれ違う内に夫婦の仲は冷めつつあった。
子供も中々出来なかった。
ある年、王国西の辺境で野生動物の大量死が相次いだ。
「ペスト」がやって来た。
意外にも、王国ではトイレ事情はかなり早い段階から対応がなされていた。異世界には「水」を生じさせる魔法というのがあるので、魔物の心臓で水洗させていた便器に、聖女はあったかい便座を置くだけで良かった。
ただし下水整備はあくまでも都会だけの話で田舎は昔ながら。外の道にポイだ。
「――封じ込めして衛生管理徹底すれば大丈夫!」
授業や映画でペストを知るマノは使命感と共に西に出向く事を決めた。
大勢死者が出ている、ダメだ危険だ、と周囲は彼女を説得しようとした。
無駄だ。熱血聖女を止める事など誰にも出来ない。
周囲の反対を押し切ってマノは辺境に急行した。
マノのお陰で二つの町を壊滅に追い込んだ恐ろしい流行病は収束していった。
毎日患者と向き合い治療と看病に当たっていたマノは、――辺境で命を落とす。
対策は万全だった。彼女はハーブ&ビネガーを持ち込んでいた。
過信がいけなかった。過労で体力も免疫も低下していた。
病は異様に進行が速く、短時間で合併症を引き起こした。神官の闇の魔法は追い付かなかった。神官より強力なマノ自身の魔法は患者に使われガス欠。回復する暇もなかった。
病床の彼女は、しかし満足気な顔をしていた。
「私はやりきった――」が彼女の最期の言葉になった。
その通り彼女はやりきった。尊い命と引き換えに大勢の命を救った。享年二十六歳の若さだった。
これ以後、王国内でペストが大流行する事は無かった。
青空市場で食材の買い出しをしていると、赤ん坊を抱いた若い母親がマリンのもとに歩み寄って来た。
「聖女様、どうかこの子を抱いてあげてくださいまし」
護衛としてシオンが前に出ようとしたのでマリンは「いいんです」と彼を片手で押し留めて苦笑した。
怖いお兄さんが下がったところで感激する母親から赤ん坊を預かる。
お包みの中、小さな赤い顔がパチッと円らな瞳を開きマリンを見た。
きゃーあ、と笑う。
マリンは軽く赤ん坊を揺すって微笑んだ。
去年、従姉が産んだお包み姿の女の子を抱かせてもらった。
親戚の子はどうあやしても玩具を振っても無反応で、笑顔も無く、マリンに一切興味が無さそうだったのを思い出した。
聖女という名のニート生活、四週間目に突入。
外は小雨がぱらついていた。
生憎の天候にも拘らずドロシーは約束通りマリンの住み家を訪ねて来た。マリン手製のランチを食べに来てくれた。
食堂でオムカレーを食べ、リビングルームのテーブルに移動して食後のコーヒーを飲む。年の近い女子同士、話が尽きない。
ドロシーが柱時計を見上げた。
「もうこんな時間。すっかり長居してしまって」
マリンは彼女に長居してもらって全く構わないが、ドロシーはお茶の時間の後に習い事があるそうだ。聖女と違って公爵令嬢は暇じゃない。
「何のお稽古?」とマリンが問うと彼女は微笑んだ。
「ダンス。――夜会になんてもう出ていませんのにね」
マリンは言葉も無い。
王太子との婚約が解消されたドロシーの周囲から人々が去ったと聞いた。
公爵家の屋敷でも孤立していると言う。家族の誰もドロシーを顧みない。
責任を感じてマリンの眉尻が下がる。
「別に良いんです」とドロシーは笑った。
「貴女の所為じゃないんです。この王国はこういう仕組みってだけです。伝統であり文化なんですよ」
伝統は素敵だが消えてしまった方が良いものもある事をマリンは知っている。
批判の色をマリンの顔に見てドロシーは尚も笑った。
「こうして貴女とお友達になれたのだし、悪い事ばかりでもありませんわ」
「……ねえ、お稽古サボッちゃえば?」
「いけません。ダンスの先生にも生活があるのです。――近頃はメイド達と一緒になって散々陰口を叩いてくださりますけどね」
マリンは呆れた。
「ここ、住む? 部屋余ってるよ」
「とんでもないですわ」
「そりゃ貴族のお屋敷とは比べられない民家だろうけど」
「そういう意味ではなく、わたくしがここに通っている事はあまり大っぴらにしない方が良いと思うのです」
そういえば彼女、いつの間にか乗って来る馬車を変えている。
「どうして?」
「お互いの為になんとなく、です」
彼女の懸念は、全然納得がいかない。
淡い笑みを浮かべたドロシーは、不意に打ち明けた。
「わたくしは元々、殿下の婚約者ではありませんでしたの」
マリンは瞬く。
ちらりとマリンを見やってドロシーは続けた。
「本来の婚約者はわたくしの姉でした。姉は殿下と同い年です。けれどわたくしの方が相応しいとかで後になって変更されたのです」
「そんなコロコロ変えて良いの? 相応しいの意味も分からないね」
呆れるマリンに「仰る通り」と頷いたドロシーの声がカップの中に消える。
「わたくしの洗礼の後に変更が決まったそうです」
「三歳の時にする、プロファイラーの分析?」
首で頷いたドロシーにマリンは困惑の目を注いだ。
「まさか分析結果に王子の妃ってズバリ出たとか?」
「さあ。わたくしが聞かされているのは風と光の属性を持ち、王家に仕えるという情報だけですわ」
王家に仕える。意味が広いにも程がある。国民みんなだ。
石板の仕事に呆れるマリンを一瞥し、ドロシーはほぼ空にしたカップを見詰めた。
「洗礼後、両親はわたくしを殊更大事に扱いました。いえ洗礼前が冷たかった訳ではありませんがとことん甘やかすようになって。失敗や我が儘を咎める事はなく、欲しいものは無いかと常に聞き、そして明らかに姉よりわたくしを優遇したのです」
「……それはあれかな、王子の婚約者だから」
「悲しい事にそうだとしか思えません。けど、今こうして家族から距離を置いてみて段々と見えてきました。両親や使用人たちの異質さが。――彼らは王子の婚約者となった金の卵を甘やかしている、というより躾や教育を放棄しているみたいな感じだったのです」
確かに異質だ。マリンが頷くとドロシーも頷く。
「王子の婚約者に相応しいよう更に厳しい教育を施すのが普通でしょう。我が儘三昧を許した結果、もし愚かな真似を仕出かして家に恥を掻かせたらどうします。不自然です。子供の頃は周りの大人たちが自分をちやほやしてくれるのが嬉しくて気にもしていませんでしたけど――わたくしの育った環境は異常です」
愛も打算も感じられない。
異質で異常な公爵家を思い浮かべ、マリンもドロシーもしばらく沈黙した。
門柱でドロシーを見送り、家の中に引き返そうとしたマリンは傘持ちの警備員に徹しているシオンを振り返った。
「お茶に付き合ってください」
「いえ、職務規定で――」
「聖女の招待ですよ、聖騎士さん」
「…………」
顔の見えないシオンが脱力のような気配を漂わせ、マリンは軽く笑った。
キッチンのエスプレッソマシンでコーヒーを準備し、リビングルームの窓際のコーヒーテーブルに着かせたシオンに振る舞う。
マリンに付き合わされる内に彼はカプチーノを飲むようになってくれた。聖女マノの齎したミルクメニューが活躍してくれて何よりだ。
彼の向かい側の位置に座ったマリンは、テーブル上に残されたドロシーからの差し入れを手に取った。
号外――「南西戦線、延長!」とある。
長らく停滞していた戦線が延びたのはアレックスの命令らしい。
南西に向かった先にあるのだ。南島で失われたのと同じ高品質の――レモンが。
「レモン戦争……」
マリンが呟くと、シオンの肩が揺れた。
マリンは嘆息した。
「普通に相手国から輸入すればイイだけでしょうに」
戦争なんかして肝心のレモンの木が燃えてもいいのか。
低い声でシオンが言った。
「中々吹っ掛けて来る相手だったとか」
「殿下の好物と知って足元を見た訳ですね」
「それ故に殿下は、この際だから国ごと手に入れてしまおうとお考えになったようです」
「この際ってどの際なんでしょうね」
呆れ加減のマリンに、彼は告げた。
「貴女がいらっしゃる」
「え?」
「負ける筈が無いのです。聖女を擁している国家ですから」
唖然と、マリンはシオンを凝視した。
色々と言いたい事はあるが真っ先にこれが出た。
「――何だと思ってるの」
聖女を――人を戦争延長の担保にするとは。
マリンの言いたい事を察し、シオンは目線をカプチーノに落とした。
ここに来て初めてマリンは怒りを覚えた。
なんなの! と誰とはなしに言ってやりたい衝動が湧き、けれど目の前の静かな騎士を見て冷静さを取り戻した。
八つ当たりするのはお門違いだ。
シオンはマリンに八つ当たりしなかった。
感情の高波が引き、冷めてきた頭で考える。
なんとかして戦争を止めなくちゃ、という意志は湧かない。
イナゴ云々もレモン云々もマリンが何かした所為で起こった訳ではない。アレックスの好物がレモンである事もマリンの所為ではない。
マリンは関係ない。
そういう訳なので――何もしない。