03 聖女というものは
聖女のマナ(真魚)は上機嫌だった。
「みんな私が作ったピリ辛マヨソース美味しいって喜んでくれた。漁師の娘だからね、料理は得意だよ」
魔法陣の描かれた絨毯を見下ろして笑う。
「錬金術って凄い。原材料があれば魔法でさくさく作れちゃう。調味料もスパイスもソースも、コンフィチュールだって手間いらず。煮詰めなくていいとか凄すぎ。味に失敗してもリセットしてやり直せるのも便利だよね。なんか料理の天才になった気分。理科の成績全然だったのに。でもこの味覚は本物なんだし、あながち? なーんてね」
商品になった小瓶や広口瓶のラベルには魔法陣に似せた星のマークが印刷されている。聖女の印だ。誰が作ったか分かるようにした。ブランド化する事で消費者に安心して手に取ってもらえる。
「売り上げ好調。だからって自分のお小遣いにしたりしないよ。ちゃーんと孤児院に全額寄付するもん。私、聖女だからね!」
聖女マナの功績で「この王国」を中心に手軽に使える「味」が増えた。料理のバリエーションも増え、彼女の名声と共に聖女印の商品は大陸中に広まっていった。
そして、――大陸北東の山地では盗賊団の活動が活発になった。
「上手い飯があれば野宿して餌食を待ち構えるのも余裕だぜ。保存も利いて持ち運びもラク――特にピリ辛マヨソース最高! テンション上がって来たー」
山の奥地に星のマークの空き瓶が転がる。
同じ空き瓶が洋上の海賊船からも投げ捨てられる。
山の、海の、そして町の死角で「死」が生じる。
いずれも、聖女マナの知るところではない。
マリンは自分が「聖女」である事を疑っている。
だから神官が嘘を吐いているのではと疑っている。プロファイラーの故障も疑っている。
異世界人が皆聖女とは限らない、と思っている。
あまりにも自覚が無い。
信じられない――正直、信じたくない。
王子の庭からそそくさと立ち去り、馬車に逃げ込んだマリンは二の腕に巻き付けられた綺麗なハンカチを見やる。
折角の白い刺繍が血で滲み、台無しになっていた。
「――これ、ごめんなさい。何とか洗ってお返ししますね」
隣のシートに引っ張り込んだハンカチの持ち主ことドロシーが、マリンの言葉に大きく首を左右に振った。
「どうか謝らないでくださいまし。わたくしこそ本当にお詫びのしようがありません。貴女が殿下の庭に招かれたと耳にしてわたくし、沸騰するほど頭に血がのぼってしまってあんな恐ろしいマネを――」
言いながらまた感情が高ぶり出したドロシーに、マリンは苦笑した。
「もういいですって。――あ、じゃあお詫びとして貴女の事ドロシーって呼び捨てにして良いですか」
「え?」
「だって二つも年下なんでしょ、貴女。私の方がお姉さん。ついでにタメ口も許してくれると嬉しいな」
ドロシーは大きな瞳いっぱいに涙を湛えた。
「そんなの――そんなことでよろしいなら、ダメなんて有り得な、」
色んな感情でぐしゃぐしゃになった美少女の顔に、マリンは「あーあ」とまた苦笑すると、ドロシーの小さな頭に手を添えて自分の肩に引き寄せた。
一度目の大学受験に失敗した時、友人のアレックスがこうやってマリンを慰めてくれた。
急な接触にドロシーは驚いたようだったけれど、後頭部を撫でる手の動きに余計涙を誘われたようでマリンの肩で静かにしゃくり上げ始めた。
向かい側シートに座るシオンは寡黙を貫いている。
ここに来るまでマリンは彼に「目隠し」役を頼んだ。シオンはドロシーを庇う事に思う所があるようだったけれど結局共犯になってくれた。
聖騎士は聖女の言い付けに逆らえないのかもしれない。
どうにか泣き止んだドロシーを彼女自身の馬車に送り届けて、マリンも帰路に就く。
帰り道の最中、シオンがやっと口を開いた。
「……こういう事は困ります」
「バレたら私に無理やり命じられたって言ってください。実際そうだし」
「そういう事を言っているのでは……」
嘆息の後、彼は兜越しにマリンの腕を一瞥した。
「傷の治療を、されないのですか」
マリンは瞬いた。その言い方ではまるで、
「自力で出来るって事ですか?」
「……貴女は聖女ですよ。しかも全ての属性をお持ちでいらっしゃる。治癒能力の大きさに個人差はあれど切傷ごとき、治せない聖女は嘗ていません」
シオンの事は、身近では唯一真っ当な大人と認識している。だからこそ色々と意見を求めたり頼ったりもする。
疑っている訳ではない。
「でも私、精霊さんとお友達になれる自信が無いんですけど」
シオンは呆れたように繰り返した。
「貴女は聖女ですよ」
聖女ならもれなくお友達確定。と言われたところでそもそも聖女たる自覚が無いので「そっか!」とマリンはすぐには納得出来なかった。
首を捻ってハンカチを巻いた腕を見る。
精霊さんの過剰サービスで切傷を治せる、らしい。
あ、と閃いた。
「――さては、光の魔法を使うんですね」
「いえ、闇の魔法です」
「…………」
「光は光です。室内照明の発光は光の魔法によるものです」
「そう、ですか……。なんか、すみません。素人の癖して、分かったような口を利いてしまって……」
羞恥心に苛まれているマリンに構わず、シオンは淡々とした口振りで治癒に使える闇の魔法を教えてくれた。
「まじないをかけるんです。治るようにと」
「はあ?」
まじない。のろい、だ。呪い。
無理やり納得しつつマリンは首で二の腕に振り向く。
ハンカチを巻いた患部に掌を翳そうとして、不意に空気のざわつきを覚え――さっと手を下ろした。
「……良いです。この程度、ファンデで簡単に隠せますから」
試そうとしないマリンにシオンが不可解気になったのが伝わった。
マリンは咄嗟に考えた。精霊さんがセカンドオピニオンになるかもしれない。
聖女と確定する、と思った瞬間竦んだ。
覚悟が伴っていない。確定して欲しくない。
――この世界はなんだか時々、所々恐い。
小娘に期待過剰な世界が恐い。
魔物や魔法や、精霊の存在が恐い。
中途半端な科学が恐い。
マリンは浅く腰掛けたシオンの腰の辺りにそろりと目を向ける。
左に銀色の剣を携え、右に銀色の拳銃を携えている。
その上彼は「土」を操る。
土器を作り出す精霊サービス、では絶対に無い筈だ。
大凡の見当は付いている。「土」やそれに似たものを用いた戦場の映像をニュースや映画で散々見てきた。
やり過ぎ、という気がしてならなかった。
剣があり銃があり魔法がある。余計なのは、どれだ――。
その後、シオンはドロシーの特攻の件を見なかった事にしてくれた。
警察と同じだ。被害届無しに捜査も立件も無い。
頼み込むマリンに、彼は重い重い溜息で以て了承を示した。
彼には告げなかったが、マリンにはもう一つ心配事があった。
シオンにまで累が及びかねないという懸念だ。
王子の言い付けで彼は庭の外側で待機していた。不可抗力の中で事件が起こった。
誰にも、王子にも神官にも知らせてはいけない。知られてはいけない。
未熟なマリンにもそれくらいの危機感は働いた。
それくらいには彼らに対する信頼が無かった。
城の敷地内にある王立図書館に向かう途中、マリンは魔法騎士に出くわした。
「後でランチでもどう?」と片目を瞑って見せる軽い相手にいつもの一礼で遠慮を示す。
彼の方もいつものように肩を竦めただけでしつこく付き纏わない。
ただ、いつもと違ってこんな事を付け加えた。
「俺たちは運命だと思うんだけどなあ」
「運命?」
「前世からの縁だよ」
マリンは軽く息を吐いた。二人連続したって事は、聖女の誰かが好きだった口説き文句に違いない。
魔法騎士と王子は情報共有していない事も悟り、繰り返した。
「運命や前世といったものが好きではありませんでして」
「そうなの? 女の子にしては変わってるね」
女子が皆ロマンチストだと思ったら大間違い。
日本女子は現実主義で逞しい。夢見る乙女は絶滅危惧種だ。
友人のアレックスも大変な現実主義で、特に生まれ変わりや死に戻りを題材にした映画やドラマを毛嫌いする。
「命を軽んじている。そして卑怯だ」
でも彼女の一番好きな映画は大昔に作られたタイムトラベルものである。
車で時間旅行出来たらなあ……と呟く彼女の顔は夢見る乙女だった。
友人を想念しつつマリンは魔法騎士に再び一礼して、シオンのみを伴い図書館へ足を向けた。
この日、マリンは王子の別荘である狩猟館の傍に来ていた。
「君に魔物の心臓をプレゼントするよ」
月に一度、アレックスはハートストーンとやらを狩り――採りに来るのだと言う。
森の手前まで馬車で進んだ一行は、降車後それぞれ馬に乗り変えた。
「おいで」とアレックスが差し出した手を、マリンは迷った挙句掴んだ。
引き上げられ、アレックスの背中に倒れ込むようにして馬の背に乗る。
実のところ魔物狩りなんかに興味は無かった。
家で大人しく服でも縫っていたかった。
けれど先日の一件があって少々後ろめたかった。世話になっている相手に隠し事をしている。
無意識の内に、ご機嫌取りに来たのかもしれない。
城にも神殿にもドロシーの件がバレた様子はない。
アレックスもレフィンも毎日変わらず親切で笑顔だ。
マリンに何かが課せられるような事態も無い。義務と言えるものは未だにお勉強とお祈りのみ。
大変有難い事に、奇跡とやらを誰もマリンに求めて来ない。これほど豊かで平和な国だ。緊急性が無いのだろう。
その証拠にレフィンの授業で魔法についてほとんど触れられていない。
魔法は二の次で先ずは「文明」だか「知識」だかが大事なのかもしれない。
もしくは、
――どうせ精霊さんとお友達確定の聖女だから。
特別講義など不要、と思われている。
彼らは、マリンに無理をさせないようにしている。負担にならないように気遣っていると、ふとした瞬間に感じる。
勉強はほどほどで良いとレフィンは言い、アレックスも相変わらずマリンを急かしはしない。直向きな好意を向けて来るだけ。
誰も彼もとても優しい――世界だ。
今日は乗馬服を身に付けたマリンは、遠慮なく足を動かして馬の背に跨る。
失礼します、と一言入れてアレックスの背中に両手を添えると、苦笑した顔が肩越しにマリンを振り返った。
「落ちてしまうよ。遠慮しないで。腰に掴まって良いから」
抵抗感と戦いながらマリンはアレックスの分厚い胴体に両腕を回した。
騎乗の群れがアレックスとマリンの周囲を囲んで森に入る。
鬱蒼と茂る薄暗い森がホラーの雰囲気に思え、アレックスの服を掴むマリンの手に力が入った。
緊張を察して、アレックスはマリンの手の甲を軽く指先で叩いて励ました。
「何も危険はない。私はいつも無傷で帰っている。今日もね」
ぎこちなくマリンは頷いた。
誰も彼もとても優しい――世界、の筈だ。