11 聖女、危機一髪
突然の衝撃に、マリンは両眼を見開いた。
ほとんど何も見えない。真っ暗。夜。ベッドの上。
夢の最中に叩き起こされた。
何が起こっている。
パニック寸前の頭をフル回転させ、周囲の状況を見ようとして身動きが取れない事に遅く気付く。辛うじて手足首は動くけれど肘膝関節が重い。
上から抑え付けられている。
「――君が悪い」低い声を聞いた瞬間、マリンは蒼褪めた。
アレックスだ。友人じゃなくて他人の方。王太子のアレックス。
目が闇に慣れて来た。薄っすらと男の肩から首にかけての輪郭が見える。
声を出そうとして、猿ぐつわみたく口元に押し付けられた腕にも気付く。息苦しい筈だ。そして顎が痛い。
とにかく足掻いて藻掻く。
侵入者ことアレックスは暴れるマリンに覆いかぶさったまま囁き声で言い付けた。
「優しい紳士でいたかったがこうなっては仕方がない。夫婦の契りを交わしてしまおう。気持ちのいい事を二人ですれば君も喜んで私のものになるだろう」
マリンは絶句し、硬直した。
体の上でアレックスが何やら動き始める。
身を捩って抵抗しながらマリンは考え、探った。何か無いか。知らせる手段でも武器でも何でもいい。何か。
――何かの精霊。
どれでも好きに使えるのだろうけれど使う気が一切無い似非聖女のマリンは、こんな時にも拘らず「だからか!」と閃きを得た。
――昼間、未だに魔法が使えないと文官たちに話した。
見舞いもしない、つれない聖女に対して暴挙に出た王子の動機は判明した。今なら制圧が容易いと見なされた。毒入りケーキを口にした王子が思った以上に元気である事も判明した。何の足しにもならない情報だ。
「マリン――」実はケーキなんて食べてないんじゃない、と疑いたくなるほど元気溌溂の王子の眼光が胸元からマリンを上目遣いにした。
「とても可愛らしい下着だね。次は明るいところで見せて欲しいな」
マリンからして異世界の下着事情はあんまりだったので、ナイトブラ機能を兼ね備えたランジェリーを手縫いしたのだが今はどうでもいい。
どうでもいいが――珍しい下着に興奮する王子は隙を見せた。
手首を抑え付ける王子の握力が僅かに緩む。
思い切り引っ手繰るようにして上腕を振り解いたマリンは、透かさず自由になった肘を振った。
王子の眉間に綺麗にヒット。痛みに怯んだ王子の上半身が浮いた。
重しがどいて可動域が広がったところで、足を振り上げて王子の脇腹に容赦のない一撃。ベッドから蹴り落としてやった。
どしん、と王子は肩から床に転がった。
いい感じに騒音を立ててくれたので、階下で寝泊まり中のシオンへダイレクトに異常が伝わった。
即座に飛び込んで来たシオンは部屋の明かりを点け、痛みに呻く王子とベッドの上で満身創痍のマリンを発見する。
状況を察するや、床の王子を見下ろして怒りを露わにした。
「この、下種が――!」
そういえば彼は元から王家に忠誠心など無い人だったな、とマリンは乱れた下着とネグリジェを整えながら他人事のように考える。
何はともあれ形勢逆転だ。
シオンは聖女の寝室に忍び込んだ王子を遠慮なく殴り付け、縄でふん縛り、王子の後ろ襟を掴んでゴミ出しの体で一階に引き摺って行く。
玄関の外に出ると門柱の両脇を固める当直騎士らの前にゴミを放り投げ、命じた。
「見ての通り侵入者を捕らえた。このまま連行しろ」
当直らは侵入者の正体を知り飛び上がった。
朝食の席で「あらそんな事が」とのんびり言い、ドロシーは一口分に千切ったチョコマーブルのパンを口に入れる。
マリンが大変な目に遭っている最中、彼女は廊下を挟んで向かい側の部屋でぐうすか寝ていた。シオンが駆け込んで騒ぎになった後もぐうすか寝ていた。
「わたくし一度寝ると朝まで目が覚めませんの」
「……健康で何よりだよ」
嘆息したマリンはテーブルの斜め前に座るシオンに目を向けた。
「シオンさんは徹夜でしょう。もっと遅く起きてくださいよ。それか二度寝」
シオンは首を左右に振った。
「三日三晩眠らずとも平気です。元来それ程睡眠を取らなくていい性質です」
「常人とは鍛え方が違うんですね。でもお昼寝はお勧めしますよ」
「お気持ちだけ」
また嘆息したマリンの横顔にドロシーの目が向いた。
「マリン様もあまりお休みになっていないのでしょう。今日のお店の納品、わたくしだけで行って参りましょうか」
「ぜひお願い。――お宅の馬車はタダで使わせてもらっても大丈夫なんだよね?」
「ええ勿論。父は聖女マリン様に媚び始めていますわ。家を出る前わたくしにも粗相のないようにと釘を刺してきましたもの」
「大人の社会は色々あるよね」
「とっとと逃げ出そうとしてたのに娘の所為でとんだ足止め食らいましたものね」
ドロシーは家を笑い飛ばし、一口大のパンを口に放った。
「ホームベーカリー、うちのパン職人より遥かに腕が良いですわ」
「聖女マノに乾杯」
マリンは後から知らされたのだが、王太子アレックスの侵入経路は裏口だったらしい。当直見張りは表門だけ。文字通り裏を掻いて来た。
小さな庭に出る裏口ドアには鍵穴にピッキングの痕跡が見られ、土の上には王子の他に二人分の足跡が残されていたと言う。王子の手下だか誰だかが調達した空き巣のプロフェッショナルのものと見られている。ただ腕の良いプロというのは元から国にマークされているので指名手配は簡単との事。
すぐに解決する、と昨夜マリンに言い聞かせておいてシオンは、自分は二階の廊下で寝ずの番をした。心配してくれるのは有難いが彼に負担をかけたくないマリンは複雑だった。
ショックはある。紳士的な美青年だと思っていた人にいきなり襲われた。
もしも今、コイツぶん殴って良いよと言われたら迷わず殴る。王子を許す日は永遠に来ない。
――だけど彼が代わりに怒ってくれたから。
シオンの怒りに満ちた表情を目にした途端、マリンの胸中に渦巻いていた負の感情はほとんど払拭された。
安心した。嬉しかった。王子の存在なんて一瞬でどうでも良くなった。
想念して口元を緩めたマリンに、ドロシーの横目がちらりと向けられた。
「何かぬるいものが顔面から滲み出ていますわよ」
「うそ、よだれ?」
「もう消えました」
「消えるよだれ?」
口元をナプキンで拭っているマリンからドロシーはそっと目を逸らした。
独り言つ。
「……別に、構わない筈ですわ。相手が誰であっても。心さえあれば」
「ポエム?」
マリンの声は無視された。
静かな朝食を終えると、三人はそれぞれの仕事に取り掛かった。
午前中の内に聖女の家に不法侵入した空き巣コンビが呆気なく御用となった。
アレックスは謹慎処分の上、王太子の座を剥奪される事がほとんど確定した。
ランチタイムの際に報を受け取ってマリンは嘆息し、ドロシーは白け、シオンは無言だった。ずっと顔が恐い。室内では兜が無いので仏頂面が丸見えだ。
ティータイムの少し前に城からの使者が家を訪ねて来た。
官僚風の男性は勿体をつけてマリンに語った。
「我が王より聖女マリン様へ、この度の一件を王子に代わって深く謝罪したいとのことで――」
ああ、はいはい、どうも、をマリンはローテーションした。昨夜から色々あって疲れていた。詫びる気持ちがあるならちょっと放っておいて欲しい。
段々と応答がぞんざいになっているマリンに構わず、使者が告げた。
「つきましては聖女マリン様に対し、郊外の狩猟館をお詫びの品としてお贈りたいとの事です」
「マノがやらかした村?」
「は?」
「すみません、何でもありません」
館を貰う。通常のマリンであれば断固拒否するところだが今は状況が状況である。
貰えるものは貰っておこう。
茶番のキャラクターで話を進めた。
「そうですね。恐い思いをしたこちらのお家に今後も住み続けるのは、ちょっと抵抗がありますの私」
「は。ごもっともなご意見かと」
自分の失態でもないのに使者は蒼褪めて、滲み出る脂汗をハンカチで頻りに拭っていた。
マリンは内心使者に対し「巻き込んじゃってごめんなさいね」と詫びた。
ソファーの傍らに立つドロシーは笑いをかみ殺している。
シオンは「当然だろ」と顔に大書して硬く唇を結び、マリンの背後で壁のように仁王立ちをしていた。
使者がとんぼ返りした後、マリンは拳を握った。
「ねえ、良いもの貰っちゃったんじゃないコレ」
「まあまあの物件ですわ。村は郊外ですけど寂れてる訳ではありませんもの」
「でも王都から離れちゃうと納品が大変になる?」
「村から王都の西城門までは直線道路が多いです。交通量も減りますから馬車は速度が出せます。しかも手芸店は王都の西の端。村寄りの位置ですのよ。移動距離が倍以上になるからって所要時間も倍かかるとは限りません」
マリンは感心し、公爵令嬢の脳内マップに感謝した。
「じゃあ三人でお引越しだね――ね、シオンさん」
マリンが呼びかけると、シオンは微笑み頷いた。
二人の間でドロシーが苦笑した。
「わたくしお邪魔虫なのではないでしょうか」
「ごめん、すっかり連れていく事前提で話してた。ドロシー、村は嫌?」
「気にされるところが違いますけど村暮らしは別に平気です。こう見えて子供の頃は領地の野山で結構遊んでいました」
「良かった。じゃあお父さんにお話ししてね」
「一応致しておきます。どうせ反対などされません。聖女の侍女役なんて願ったり叶ったりですからね。必要経費としてがっぽり財産搾り取ってきますわ」
公爵の事情も都合も正直どうでもいい。
この三人が一緒にいられるならマリンには文句など無かった。
二日後の朝。
狩猟館に向けて出発。
聖女が王都を出ると聞きつけて、近所やなんやの見送り達が家の前の通りにわらわらと集まっていた。
引っ越し荷物を載せた馬車二台が先に出て、続いてやって来た送迎馬車が門前で停止する。
玄関からマリンが姿を現すと、人だかりから一斉に注目が集まった。
マリンの前には聖騎士のシオンが、後ろには侍女然とドロシーがいる。
平民ルックのドロシーを目撃して噴き出す者たちがいた。どこぞの貴族令嬢たちだ。以前はドロシーの取り巻きみたいな事をしていた。
「見て、安っぽい生地のワンピースを着ていらっしゃるわ。本当に小間使いになってしまわれたのねえ、お気の毒に」
「あら、コルセットが無くってよ。まるで聖女様、みたいな……」
「みすぼらし――いのかしら……」
聖女もドロシーも服地の柄に頼らない装いをしている。珍しいアクセサリーで胸元を飾り、興味深い装飾で帽子やバッグに個性を持たせる。
手軽ながらラグジュアリーである。
貴族令嬢たちは周囲を見回した。集まった平民の群れの中に聖女と似た小物使いをしている女性がいる。
聖女というアイコンを上手く、賢く自分たちの服に取り入れアレンジしている。
気付――かされた気がして令嬢たちは妙な羞恥心を覚えた。
――流行遅れになった気分……。
この靴の先しか出ないロング丈がやけに野暮ったい。
大袈裟なドレスを着て床や道の掃き掃除をしている、ような。
貴族令嬢たちもその使用人たちも平民御用達の手芸店になんて行かない。
高級服を取り扱う仕立屋たちも当然平民女性の流行なんて知らない。
「制作キット」の発案者がどこの誰であるかなど王都の誰も知らない。誰に訊いても分からない。勘の良いほんの一握りの女性だけが薄々察している。
素知らぬふりを続けて聖女は王都を後にした。