冬野つぐみは泣き笑う☆
こちらは『冬野つぐみのオコシカタ』第三章までのネタバレを軽く含んでおります。
ネタバレは嫌! 読んでから来たい! という方は本編をお読みいただいた後に、こちらにお寄りいただけたらと思います。
今回のお話はつぐみ視点。
彼女の気持ちに寄り添っていただければ、嬉しく思います。
笑っている。
私の目の前で、沙十美がとても幸せそうに笑っていた。
沙十美の笑顔が好きだ。
緩やかなウエーブを描く美しい黒髪に、指を絡ませながら私を見つめてくる姿。
こちらの視線に気づくと、首を傾げ「どうしたの?」と優しく尋ねてくるその声。
そう。
全てが愛おしく、私には大切な存在。
「あ、来たわよつぐみ。じゃあ約束通り、イチジクとマンゴーを一口ずつ分けてくれるわよね?」
「え、約束? えっと?」
状況が理解できず、私は周りを見渡す。
いつも通っていた喫茶店の席に、私は座っていた。
店長さんが、トレーに載せたタルトを三つ、笑顔とともにテーブルへと置いていく。
「もう、ここに来るときに約束したでしょ? 私はチョコタルトを頼む。あなたは新作を二つ頼むだろうから、それぞれ一口頂戴ねって話をしてきたじゃない」
確かにその会話は、私の記憶に残っている。
けれども、この約束は叶わなかったはずのもの。
なぜならこの店に来る前に、私たちは……。
◇◇◇◇◇◇
目に映るのは、沙十美の姿ではなく、見慣れた木津家の天井。
認めたくないという思いからだろうか。
夢であったと理解するのに、少し時間がかかってしまう。
あの日の私たちは、店に着く前に喧嘩をしてしまった。
『一緒にタルトを食べる』という約束は守られることなく、その直後に沙十美は……。
「……あぁ」
こぼれたのは言葉。
そして、目からあふれていくのは涙だ。
涙を拭いながら、私は顔を横へと傾けていく。
隣の布団では、親友の分身である少女がすやすやと眠っていた。
分かってはいる。
今の自分は、沙十美と二度と会えないわけではない。
この少女に願えば、彼女を通じこの世の場所ではない『朧』で、会うことが出来るということも。
けれども沙十美は、この世界で一度『死んで』しまっているのだ。
肉体はすでに失われ、実体として存在できるのは室さんがそばにいるときのみ。
行方不明という扱いになっていることもあり、自身を知る人達と二度と会うことが出来ないのだ。
それはどれだけ苦しく、悔しいことだろう。
沙十美がこの状況を、どう受け止めているのかはわからない。
けれどもその事実に、彼女の力になれない自分に無力さを感じてしまうのだ。
声をこらえ、私はただ涙を流し続ける。
いつまでも泣いてたら、この子に気付かれてしまう。
私は、静かに布団を抜け出していく。
まずは、この泣き顔を何とかすべきだろう。
洗面台へと向かいながら、通りすがりにリビングの時計をちらりと眺める。
五時半というデジタルの文字が、まだ皆が眠っている時間であることを教えてくれた。
洗面台まで、誰にも会うことなくたどり着く。
蛇口を開き、私は顔を洗い始めた。
ひんやりとした水の心地よさで、次第に心は落ち着いていく。
タオルで顔を拭き、正面の鏡に映る自分の姿を見つめる。
そういえば、よくここで泣いているような気がする。
いや、洗面台に限ったことではない。
この家に来てから、私はどれだけ涙を流してきたことだろう。
沙十美が自分の手の届かない場所にいると知った時。
あるいは、ヒイラギ君の目を覚まそうとして、自分の不注意で襲われてしまった時。
その都度、起こってしまった出来事に対応できず、泣いていたように思う。
――でも、それだけではない。
先生を助けたいと、会ったばかりの靭さんと話をした時。
私の過去を知り、それでもこの家にいてもいいと、皆に認めてもらえた時。
自分が出来ることを少しずつ知りながら、私は喜びの涙もたくさん流してきた。
今まで起こった出来事は、決して悪いことばかりではない。
それを私は、知っているのだから。
そう思える冷静さは、取り戻せているようだ。
安堵の息をつくと、今朝のことを思い返していく。
夢の中とはいえ、思いがけず沙十美に会えた。
――でも、私たちは二度と昔のようには戻れない。
「だめ、そんなふうに考えたら……」
このままでは、また悪い方へと思いが傾いてしまう。
心が締め付けられるような感覚にとらわれ、思わず胸に手を当てる。
「おい、まだ使うのか?」
突然、後ろから掛けられた低い声に、「ひゃあ!」と間抜けな悲鳴が出てしまう。
近くに来ていたことに、全く気付けなかった。
いつから見られていたのだろう。
その恥ずかしさもあり、背を向けたままで相手へと返事をしていく。
「おはよう、ヒイラギ君。ごめんね、すぐに交代するから」
今しがた、顔を洗い終えたかのようにふるまわなければ。
顔を拭くふりをしながら、目の隅に留まっていた涙をぬぐい、私は振り返る。
妙な悲鳴のおかげで、悲しみの感情は隅に追いやられたようだ。
震えた声などではなく、いつも通りの口調で私は彼と会話を続けていく。
「今日は早起きだね」
「ん、まぁな。俺、今日から夏期講習なんだよ」
「そうなんだ、がんばってね! じゃあ、今日の朝ごはんは気合い入れて作るからね。あ、洗面台どうぞ!」
私は斜め前へと足を踏み出し、ヒイラギ君に場所を譲ろうとした。
ところが彼は私の手を掴むと、真剣な表情で見つめてくる。
「あのさ。……お前、何か困ってんのか? 今のお前、いつもと違うんだよ」
言い当てられてしまったことで、すぐに声を出すことが出来ない。
私からの答えがないことに、戸惑いを見せながらも彼は言葉を続けていく。
「冬野はさ、すごい観察力を持っているよな。今までその力で、俺たちは何度も助けられたよ。……でもな」
ほんの少し、彼の指先に力が入る。
けれども、痛みを感じるほどではないもの。
そんな些細な行動にも、彼の温かな気持ちが伝わってくる。
「お前自身には、それが全く使われないんだよ。本当はもっと、自分を大事にしてほしいんだ。そっ、それが難しいっていうのであれば」
言葉を探すようにうつむき、ヒイラギ君は話を続ける。
「なんかあれば言え! お前に元気がないと、俺は、……じゃなくって! みっ、皆が心配するんだよ」
怒ったように語るその言葉は、勢いとは正反対の、優しさに満ちているものだ。
私はそんな彼の手に、そっと自分の手を重ねていく。
「ありがとう。……ありがとね、ヒイラギ君」
突然の行動で、かなり驚かせたようだ。
がばりと顔を上げた彼の顔は、赤く染まっている。
「ま、ま、まぁあれだ! 相手のことを見ているのは、お前だけじゃないんだ。だからな、えっとそのなんだ……」
私を慰める言葉を、探してくれているのだろう。
空いた方の手を、ヒイラギ君は先程からずっと上げ下げしている。
普段の彼からは見ることのない行動に、私はくすくすと笑いながら気づくのだ。
あぁ、私を見守ってくれている人がここにいるんだ。
なんて、幸せなことだろう。
嬉しくて見上げれば、私の顔に浮かんだ笑みを見て、ほっとした表情になっていくヒイラギ君と目が合った。
「いいか、心が疲れてしまう前にだぞ。俺でなくてもいいから、もう少し周りに頼れ。それをみんなは望んでいるんだからな」
恥ずかしそうにしながらも、教えてくれた気持ち。
それが自分には本当に嬉しくて、愛おしくて。
だから私は、彼に一番伝わる方法で答えてみようと思う。
それは笑うこと。
たくさんたくさん、笑うんだ。
私の前にいてくれる、この人たちと共に。
今の自分には、こんなに心を温かくしてくれる人がいる。
そうして同時に知るのだ。
――わたしは、もう一人じゃないと。
笑っているはずなのに、どうしてだろう。
まるで今までの悲しみが溶けたかのように、涙が次々とこぼれていく。
「ふ、冬野? どうした! どっか痛いのか?」
「ううん、違うの。たぶん、これでいいんだと思う」
そう、これでいいのだ。
こんな自分を、ここにいる皆は認めてくれる。
この幸せをしっかりと感じ、これからも皆と一緒に笑って、そして泣いて。
もっと皆に、私を知ってもらおう。
そして、もっともっと。
皆を大好きになっていこう。
あぁ、そうか。
今度、沙十美に会ったらそうすればいいんだ。
いっぱいいっぱい抱きしめて、きっとそれで「しつこい!」って怒られて。
それでもいいから、聞いてもらおう。
『あなたは、一人じゃない』ということを。
沙十美のことが、大好きだということも。
涙を拭うと、私は笑い、そして願うのだ。
この大切な時間を、瞬間を、皆と一緒に重ね合わせながら。
――これからもここで、幸せや喜びを見つけていけますようにと。




