蝶は誰のために舞うのか☆
三月十三日。
これって『沙十美』って読めなくもないな。
というわけで今回は、千堂沙十美が主役のお話をお届けいたします。
お楽しみいただけますように。
――あの子が呼んでいる。
幼い自分の姿をした少女の気持ちに答えようと、私はもたれていたソファーの背面から立ち上がる。
「室、ちょっと出かけてくるわ。……ってあら、めずらしい」
私の宿主であるその男。
室映士は、ソファーで眠ってしまっている。
彼は少し前に『対象者』という大きな仕事を終えたばかりだ。
『対象者』
彼の所属する組織である『落月』による忌まわしき行為。
表向きの目的は、組織の発動者達の能力の底上げとその実力を試すため。
だが実際は一人の人間の命を、複数の参加者によって奪おうとする残忍なものだった。
一週間、昼夜を問わず室はたった一人で、組織の人間達から命を狙われ続けた。
一日の間に、安全でいられる時間は三十分のみ。
そんな厳しい条件でありながら、彼は見事にこの仕事をやり遂げてみせたのだ。
成功報酬として、室はしばらくの間、仕事を免除されることになっている。
だが、いくら仕事を行わなくていいとはいえ、声掛けにすら目を覚まさないでいるとは。
パートナーとしては心配すべき場面だろうか、あいにく私はそこまで素直な性格ではない。
「もう! もし命を狙う奴が近くにいたらどうするつもりよ。あっという間に殺されちゃうじゃない」
それでも彼が起きないようにと、小声になってしまう自分がいる。
……やはり私は、素直ではない。
そんな天邪鬼な自分にため息をつき、クローゼットへと足を進めていく。
扉を開けるときも、音が鳴らないようにと慎重に。
そっと覗き込み、中にあったブランケットへと手を伸ばした。
足音を立てぬよう、ゆっくりと室の元へと向かう。
それにしても、ここまで眠りが深いとは。
普段にない姿ということもあり、つい顔を覗き込んでしまう。
男性に対して、美しいという言葉を掛けるのはおかしい。
だが、伏せられた長いまつげや鼻筋の通った顔立ち。
そこから感じるのは、色香と呼んでいいものだ。
ならば彼に、そんな感情を抱くのも仕方がないのではなかろうか。
見惚れる、まではいかない。
だが短い時間とはいえ、視線を奪われたのは事実だ。
その彼は仕事でないこともあり、今は下ろした艶やかな黒髪が、さらりと肩先にかかっている。
一筋の髪がまぶたにかかっているのに気づき、誘われるかのように指先を伸ばす。
触れる直前で我に返り、自分の行おうとしていたことに激しく動揺する。
私は今、何をしようとした……?
とてつもない羞恥心が、芽生えてくる。
彼から数歩さがり、ブランケットを強く握りしめていく。
本当は、肩からそっと掛けてあげるつもりだったのだ。
それなのにこみ上げてくる恥ずかしいという気持ちが、素直にその行動を出来なくしてしまっている。
気が付けば私は、思い切りブランケットを室の頭上へと投げ付けてしまっていた。
だが彼は、それが来るのがわかっていたようだ。
目を閉じているにもかかわらず、片手で難なくそれをつかみ取ってみせる。
けだるそうに目を開き、ゆるりと立ち上がると、ブランケットを私へとつき出してきた。
「優しく起こしてくれというつもりはない。だが、もう少し他にも方法はあるはずなんだがな」
淡々と語るその声に、怒りは含まれていない。
そのことに安堵をしながら、私の口から出てくるのは素直ではない言葉だ。
「何よ、私の声にちっとも反応しなかったくせに。いくら休養中だからといって、あんた気を抜きすぎなんじゃないの? 私が刺客だったら、今ごろ死んでいたわよ」
先程の反応や普段の行動からみても、そうやすやすと不覚を取る男ではない。
十分にそれは分かっているのだ。
けれども、自分が起こした行動をごまかすかのように、つい厳しい口調になってしまう。
意地悪な言い方をする私に、彼が動ずる様子はない。
こちらに背を向けると、ブランケットをソファーの背もたれへと掛けていく。
「お前は俺のパートナーなんだろう。ならば、お前がそばにいる限りは気を張る必要はあるまい」
全く予想をしていなかった室からの言葉は、私の心を揺さぶるには十分なものだ。
その言葉を。
その意味を理解した途端、私の顔が信じられない位に熱を放ち始める。
彼がこちらを見ていなくてよかった。
心からそう思いながら、自分もつい背中を向けてしまう。
「なっ、何を都合のいいこと言っているのよ!」
「今のはお前が、さんざん俺に言ってきた言葉なんだが」
確かにその通りだ。
けれども、自分が言うのと相手に言われるのとでは、受け止める気持ちが全く違う。
「ば、ばっ、バカじゃないの! 私は今から小さな私の所に行くから! ちょっとの間、いなくなるんだから、その間は、……気をつけなさいよ」
これ以上、声が上ずらないように。
必死で感情を堪えながら、私は目を閉じ朧へ向かう準備をする。
万が一にも、この男が気を抜くことはない。
分かってはいるのだが、私は手のひらから自身の分身である蝶を呼び出していく。
「い、一応この子達を置いていくわ。だからちょっと! ちょっとの間だけならば、ゆっくり休んでもいいかもしれないわ! じゃあね!」
背中を向けているので、顔を見られることはない。
勝手に口元に浮かんでしまう笑みを抑えずに、私は彼の言葉をもう一度かみしめていく。
もしも、帰った時に彼がまた眠っていたら。
私は、優しく起こしてあげることが出来るだろうか。
……いや、私の性格ではそれは難しい。
それならば、せめて。
今度はそっと優しく、ブランケットを掛けてあげよう。
踊るように飛ぶ蝶たちへ、そして私自身へとささやかな約束をする。
まだ頬に熱が残る体に、満ちていくのは温かな気持ち。
それを感じながら、私は静かに微笑み、朧へと向かうのだった。




