たゆたうは水面の姿だけにあらず その1☆
こちらは『冬野つぐみのオモイカタ』第五章までのネタバレを含んでおります。
ネタバレは嫌! 読んでから来たいわ! という方は、本編を楽しんでいただいてから来て下さると嬉しいです。
ネタバレは構わん! 読みやすいように説明して! という方へざっくり説明を。
この話の主人公は一条の長の息子である蛯名里希です。
彼には松永京・浜尾考生という二人の秘書がおります。
松永、浜尾はかつて里希に命を奪われかけるも、今は名と顔を変え、里希の部下として忠誠を誓う存在となりました。
こちらは、そんな彼らの出会いからちょうど五年後の日の話となっております。
ちなみに当時のお話はこちらですね~↓
『或る男の昔話 その1』
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では、彼らのある一日の出来事をご覧くださいませ!
湖の水面に映るのは自分の姿。
だがそれは、ありのままを見せるものではない。
穏やかながらも流れてくる初秋の風で、水はゆらゆらと動き、絶え間なく蛯名里希の姿を変えては映し出していく。
定まらぬ、留まらぬ姿はまさに、自分のようだと里希は思う。
一条という組織の中心にいながら、同じ所属の人間と係わることも、与することもない。
水の揺れにより歪んだ顔で映る姿は、まるでそんな自分を表しているかのようだ。
「ふん、……醜い顔」
自らの言葉に、ある童話を思い出す。
生まれた時に、他の兄弟たちと違う姿のために、醜いと虐げられたアヒルの話だ。
周りから愛されず、笑われ、孤独にさまよい続ける。
あの鳥も、水面に映る姿をみては、さぞ自身の境遇を呪い続けたに違いない。
――今の、自分のように。
胸の奥から、こみ上げてくるのは負の感情。
途端に蘇るのは、五年前に大切な人に起こった、不条理な事件。
そして、その二日後に自分が起こした、人を「消した」出来事。
混ざりあったそれらが、じわりと心を蝕んでいく。
「嫌なもんだね。……この感情は」
手のひらに風の発動をのせ、しならせた手首を水へ向けて振るう。
激しい水音と共に、自分の分身が姿を消していく。
なぜ己を消すのだ。
そう言わんばかりに、水は跳ね返り、里希の足元を濡らしていく。
じわりと這いあがるように来る水の感覚が、まるで自分を侵食していくようだ。
不快感に顔をゆがめ、里希はぐっと目を閉じる。
そんな自分の耳に、砂を踏みしめ近づく音が聞こえてきた。
「やっだー、こんなところに水も滴るいい男がいるじゃないですかー!」
一条の長の息子である自分に、このような言葉遣いをしてくるのは一人しかいない。
振り返ることもなく、里希は相手へと口を開いた。
「何か用? というか、なぜあなたがここにいるの、松永さん」
「俺ですか? いや何だか、きれいな自然の空気を吸いたくなっちゃって」
ふざけた口調で、秘書の松永京は里希の隣へとやってくる。
「今日は休みを取るから仕事は入れないで。そう言ってあったはずだけど?」
「ですね、もちろん覚えていますよ」
スーツ姿の男に、自然の空気を吸いたいと言われても違和感しかない。
自分を探して彼はここまで来たのだ。
言われずとも、それは十分に理解できた。
「仕事の連絡でもないのに、何もないこんな場所に何しに来たのさ?」
「え~、それ聞いちゃいます?」
言葉を途切れさせた松永へと、里希は視線を向けた。
整った顔立ちながらこの男は、普段はへらへらとした態度でいることが多い。
だが今は、軽薄な表情は姿を消し、まっすぐに自分を見つめてきている。
そんな彼へと、生まれくる感情は『負い目』と呼ぶもの。
「……五年だ」
里希の言葉に松永はうなずき、湖の傍らに立つ古い建物を見つめる。
「えぇ、ちょうど五年前の今日。あそこから『私』は始まりました」
淡々と語る松永の声からは、今の心情を図ることはできない。
五年前、ほこりとカビの匂いが満ちたあの建物で、彼は自分に殺されるはずだったのだ。
そんな忌まわしい場所を、彼は今どんな思いで見つめているのだろう。
◇◇◇◇◇
常に自分の傍らにある、この男から。
里希は、『斉藤領介』という大切な名と人生を奪った。
さらには顔を整形し、『松永京』という偽名を名乗らせ、斉藤として平穏に過ごせるはずだった未来を捨てさせたのだ。
恨まれ、憎まれてもおかしくないというのに。
それでも彼は、今も忠実なる部下として自分の隣にいる。
そう、実に『忠実』にだ。
この五年の間、彼は里希を一条の長の後継者候補から排除せんとする勢力を、ことごとく取り払ってきたのだから。
「自分は何もしていませんよ。彼らがただ勝手に消えていった。それだけです」
静かに笑いながら、彼はそう語っていた。
だが、何もない場所から人脈を築き、情報を集め、こちらへの妨害を排除する。
たった五年でそれを行うなど、常人がたやすく出来る事ではない。
ましてや彼は、発動能力を全く持ち合わせていない人間だ。
語られることはないが、相当な苦労と努力をしてきたのは間違いない。
その彼は水面を見つめながら、里希へと問いかけてくる。
「水遊びにしては、楽しくなさそうですが?」
「やめてよ、子供じゃないんだから。……水に映った自分の顔が、醜かったのが気に入らなかっただけ」
「醜い、ですか?」
中性的な美しさを持ち合わせた主の言葉に、松永は不思議そうに首をかしげる。
「まぁね、童話じゃないけどさ。ちょっと違うだけで、疎外されたり、後ろ指をさされる。こんな世界がとても嫌いなだけ」
松永はしばらく考え込む様子を見せていたが、やがて「あぁ、あのアヒルか」と呟く。
「なるほど、理解いたしました。では里希様」
松永は自分のスマホや財布を取り出すと、里希へと差し出してくる。
「何? 別にこんなのいらないけど?」
「こんなのってひどいなぁ。まぁ、ちょっと預かっていてくださいよ」
言われるままに受け取れば、松永は里希から二メートルほど離れ、湖のふちに立つ。
湖に背を向け両手を上げると、里希へにこりと笑いかけて来た。
「松永さん、いったい何をし……」
「では。松永、入りまーす」
そのまま松永の体は、後ろへと倒れこんでいく。
驚く里希の目の前で、大きな水音としぶきが上がった。