四 狂獣の牙
マイジンガーらがノールシュタット城に到着した時には、すでに日は傾き、空が夕焼け色に染まっていた。空の彼方がすでに黒ずんでいる。
彼らは追跡を難しくするために馬車や翼龍を乗り継ぎ、さらには多少の迂回経路を通って城へと辿り着いた。
シエルは途中で意識を取り戻したが、どうにもならなかった。
「陛下、お会い出来てこれほど嬉しいことはありません」
ノールシュタット城では、ザイデルマンがシエルを慇懃に出迎えた。
「あなたにとってはそうかもしれないけど、私はちっとも嬉しくないわね」
シエルは不機嫌極まる声で言った。
「その豪胆さは認めるが」マイジンガーがにやりと嗤った。「あんたは負けて、我々が勝ったのだ。『詰み』だ」
「そうかしらね?」シエルは冷めた目つきでマイジンガーを見遣る。「大佐、少しばかり自分たちが有利になったからって、あまり浮かれない方が身のためよ」
「まあ、落ちつてい下さい、陛下」ザイデルマンが言った。「あなたは自分がどうされるのか不安でしょうが、我々も文明人です。只今、晩餐の支度をさせております。そこで我々の話をゆっくりと聞いていただくつもりです」
◇◇◇
いくら季節が初夏とはいえ、上空は寒い。きつく吹き付ける風が、頬の感覚を麻痺させていく。
翼龍を操る龍兵は、出撃前にノールシュタットまでの航路を完全に頭に叩き込んでいた。龍兵は天測航法の熟練であり、日没で地上が見えにくくなっても問題がなかった。
空は天頂から地平線まで綺麗に晴れ渡っている。星帯を構成する星だけでなく、それ以外の星々も賑やかに空を踊っていた。
やがて前方に、ノールシュタット市街の明かりがぼんやりと見えてきた。
「もうすぐだ」龍兵は言った。「怪しまれるといけないから、旋回は一度しかしない。声をかけたらすぐに飛び降りてくれ。幸運を祈る」
レオンは落下防止用の革紐を外した。鞍に取り付けてある手すりだけを掴む。下を見下ろすと、右手前方にノールシュタット城が見えた。
「今だ!」
レオンは鞍から飛び降りた。即座に曳索を引く。見上げると、急上昇して離脱を図る翼龍が見えた。翼龍の鳴き声が急速に遠ざかっていく。
◇◇◇
レオンが降下する前から、すでにノールシュタット城の食堂では晩餐が始まっていた。室内には、シエル、ザイデルマン、ライヒライトナー、それに給仕役を務める従兵の曹長がいた。
城内の食堂の机には、各種の料理が並んでいた。ザイデルマンはそれらに手を付けていたが、シエルはまったく手を付けていなかった。
「我々としても、国土を荒廃させようとは思っていないのです。ですからこそ、こうした手段を取ったという訳で」
シエルはザイデルマンの言葉をつまらなそうに聞いていた。弁明じみた言葉を、適当に聞き流す。やがて口を開いた。
「要は、私を押さえたかっただけでしょうに」シエルはザイデルマンを睨みつけた。「王を押さえておけば、あとはどうとでも出来るしね。武力蜂起するにも王を押さえている側が有利でしょうし、王を傀儡にして自分たちで国政の実権を握ることも出来るでしょうしね。違う?」
「否定も肯定もいたしません」
「二つ、質問に答えてもらうわ」シエルが言った。「お前たちに情報を提供していたのは誰だ? それと、私を誘拐した本当の目的は?」
この質問に、ザイデルマンは興をそそられたような表情をした。種明かしをすることは、ある意味自分たちが優位だから出来ることだ。
「いいでしょう。御質問にお答えしましょう」ザイデルマンは言った。「一つ目の質問の答えですが、情報の提供者は内務大臣のユルゲン・パルマー卿ですよ」
「閣僚の一員でありながら、恥ずべきことね」
シエルの声は平静そのものだった。パルマーは先王時代から留任している大臣なので、裏切られてもあまり衝撃を受けない。
「我々の目的ですが、目的というよりは陛下に請願したい件があるだけです」
「そう」
シエルは皮肉そうに唇を歪めた。だいたい答えが予測出来たためだ。
「今まで貴族になされてきた政策のすべてを、撤回していただきたい」
シエルは、くだらない、という風に首を振り、息をついた。
「お断りするわ」
「この場で優位にあるのが誰なのか、陛下にはご理解いただけないようですな」
ザイデルマンは唇の端を歪めながら、そう言った。声は自分がこの場の上位者であることをあからさまに誇示していた。
シエルは相変わらず不機嫌そうな態度を崩さない。
「その気になれば我々は陛下を弑することも出来るのですよ。いや、いっそどこかの娼窟にでも売り払いますかな? さぞいい値が付くことでしょうな。我々の軍資金の足しになります」
「つまり、人間としての価値は考えていない訳ね」シエルは嘲るように唇を歪めた。「まあ、そういう精神の持ち主だってことはよく判ったわ」
「何とでも言えばよろしい」
不意に、遠くから翼龍の甲高い鳴き声が聞こえてきた。
「何事だ?」
ザイデルマンはそう言って席を立ち、露台へと繋がる窓を開けると外に出た。ライヒライトナーとマイジンガーがすぐ後に続く。
近づいてきた翼龍は、やがて南の方へと消えていった。
「かなりの低空飛行のようだったが?」
ザイデルマンが二人に向かって言う。
「ええ、着陸するつもりかと思いましたが、どうやら偵察が目的のようでしたね」
マイジンガーが答えた。三人は食堂に戻る。
「飛び過ぎていきましたよ」ザイデルマンがシエルに言った。「どうやら騎兵隊は来なかったようですな」
「そう、それは残念」
シエルは平静な口調でそう言った。
「まったくですな」ザイデルマンが言った。「少し、私は席を外させていただきます」
彼はライヒライトナーとマイジンガーに目配せした。三人は食堂を出る。
「やはり、先ほどの翼龍は気になります」
ライヒライトナーが言った。
「うむ」ザイデルマンが頷いた。「気の回し過ぎかもしれんが、警戒することに越したことはないだろう。城の警備を強化しろ。マイジンガー大佐、君は外の様子を見てきてくれ」
◇◇◇
レオンは直接城に降下せず、付近の辻公園に降下した。
彼は深い沈黙に包まれていた。高揚した気分は特にない。死に対する恐怖もなかった。ただ、その時が来たらどんなだろう、という好奇心だけがあった。
彼は落下傘を外し、飛行服を脱ぐと武装を点検し出した。二刀の短剣、八丁の短銃(内二丁は連装銃)、それと体のあちこちに隠してある小型の短刀。
上空の寒さで体が強張っているので、適度に体を動かしてほぐす。
次いで短銃すべてに装填を終えると、彼は影を選びつつ城に向かった。
レオンは建物の影から城の正門を見た。門衛が六名いる。門の上には鐘が吊ってあり、何か異常があれば即座に知らせる仕組みになっているようだ。
彼は急ぎ足で城の裏手に向かった。適当な位置で、前回と同じように塀をよじ登る。塀の上から向こう側を確認して、飛び降りた。
レオンは腰の後ろに差してある二刀の短剣を抜き放つと、茂みや木立の影を選びつつ、城館へ向かって走り出した。
進路上には歩哨が一人、立っていた。レオンは背後から近づくと、片方の短刀を心臓目がけて突き刺した。歩哨が反射的に悲鳴を上げかけたが、喉に短刀を一閃して声帯をそっくり切り裂く。頸動脈が断ち切られ、辺りに鮮血が舞った。
悠長に構えている暇はなかった。レオンは死体を茂みに隠すと、急いで城館へと向かった。
城館の壁に張り付いて歩哨を二名ほどやり過ごすと、彼は開いている窓を探し、そこから建物内に侵入する。侵入した場所は回廊だった。
向こう側から人がやってくる気配がしたので、レオンは回廊の曲がり角に身を潜めた。がらがらと音がするところを見ると、台車でも押しているらしい。
自分の目の前を通り過ぎようとした人間は、執事のようだった。台車には料理が乗せられている。レオンは背後から彼を襲い、首筋に短剣を突き付けた。
「大声を上げるな。殺すぞ」
レオンの位置からは見えなかったが、その男は顔面いっぱいに恐怖を張りつかせていた。
「た、頼む。私はそうした物が嫌いだ」
執事は哀願するように言った。
「斬り殺されたらもっと嫌いになる。質問に答えろ。お前たちの主人はどこだ?」
「しょ、食堂だ。重要な客人を歓迎するとかで……」
「その客人は誰だ?」
「知らない。本当だ、信じてくれ」
もうほとんど泣き声に近かった。レオンは男の首筋に手刀を落として失神させる。
不意に、鐘が鳴った。どうやら、歩哨の死体が発見されたらしい。レオンは舌打ちをした。
食堂にいる一同は色めきたった。
「警報用の鐘です」ライヒライトナーが言った。
「へえ、意外なことね」
シエルは嘲弄するように言った。
「口の減らん小娘だ」
ザイデルマンが忌々しげにシエルを睨みつける。
ライヒライトナーが腰の鋭剣の柄に手をあてた。ザイデルマンも護身用の短銃を抜く。その時、部屋の外で銃声と悲鳴が響き始めた。
レオンは全速力で回廊を駆けた。遭遇する敵を片っ端から殺していく。
二刀の短剣を閃かせ、首を切り、腹を刺し、そうでなければ勢いに任せて相手の頭を柄で叩き割った。
鍛えられた脚力で突っ走り、すれ違いざまに短剣を振るう。敵が鋭剣や銃を構えるよりも、レオンの速度の方が早い。
〈ジャッカル〉は次々と敵を食い散らかしていく。口元は即物的な満足感で歪んでいた。まさしく今のレオンは最悪の狂獣そのもの。心の中には容赦もなければ慈悲もない。
途中で、回廊を駆けるよりも外から回った方が食堂への近道だと気付いたレオンは、窓を破って外に出た。
偶然にも外にはマイジンガー大佐がいた。レオンが着地するかしないかという瞬間、マイジンガーは彼に飛びかかった。飛びかかられた衝撃で、レオンは短剣の片方を手放してしまう。そのまま二人は腕や足をもつれさせながら芝生の上を転がった。
マイジンガーはレオンに馬乗りになると、その喉を締め上げにかかる。レオンは力を振り絞って短剣の柄でマイジンガーの頭の側面を殴りつけた。
激痛に呻くマイジンガーから解放されたレオンは、即座に立ち上がった。
「あばよ、相棒」
レオンは短銃でマイジンガーの心臓を撃ち抜いた。大佐の体が後ろへ吹き飛んだ。レオンは素早く短剣を拾う。そして食堂へと再び駆け出した。
途中で、またしても敵兵に出くわす。
彼は出会い頭に短剣を腹に突き刺し、それをねじった。手に伝わる柔らかな感触と抵抗感。短剣を引き抜く。相手は絶叫を上げ、無残に広げられた傷口から臓物が溢れ出した。
次に〈ジャッカル〉が喰い殺したのは、まだあどけなさの残る少年兵であった。恐怖で顔面蒼白になった少年の首筋に刃を走らせる。切り裂く時のわずかな抵抗感と共に、血が溢れ出す。気色悪さは感じなかった。
レオンは殺した者たちを一顧だにしなかった。食堂の前まで来るまでにどれほど殺してきたのかを、彼は知らなかった。
彼は荒い息を吐いた。呼吸を整える。右手の短剣を鞘に収め、代わりに装填済みの短銃を抜く。
そして勢いよく露台に上がり、窓を蹴破って食堂に侵入した。
◇◇◇
室内の誰もがレオンに注目していた。一瞬、時が止まったようだった。
四人、とレオンは室内を見回して数えた。
反射的にザイデルマンが短銃を構えようとしたが、逆にレオンはその手を撃ち抜いた。公爵は呻き、血の出ている手をもう片方の手で押さえた。
レオンが公爵を撃ったのとほとんど同時にライヒライトナーがシエルの襟首を掴んで立ち上がらせ、その背中に鋭剣を突き付けた。
レオンは即座に新たな短銃を抜き、構える。
「武器を捨てろ、〈ジャッカル〉。でなければこの小娘が死ぬことになる」ライヒライトナーが言った。
曹長の方は短銃をレオンに向けていた。
「大したものだ、〈ジャッカル〉」顔に安堵の色を浮かべながら、ザイデルマンが言った。「大佐の言う通りにしたまえ。でなければ君が撃った瞬間に全員が死ぬことになる、陛下も含めて」
「この国にとって大きな損失だろうな」
レオンが頷いた。なおも短銃を構えている。
「レオン、ここにいる人間を全員殺しても構わないわよ」
シエルの言葉に、レオンは微笑んだ。ひどく魅力的な笑みだった。
「残念だがな、俺はシエル、お前を連れ戻しに来たんだ。それも、棺桶に入れて、じゃなくてな」
シエルは聞き分けのない子供を見るような視線をレオンに向け、そしてかすかに笑みを浮かべた。
「マイジンガー大佐はどうした?」ザイデルマンが問うた。
「ああ、大佐なら、帰らぬ旅の人になったぜ」レオンは酷薄な笑みを浮かべた。「城の衛兵もな。何人殺したか、数えていなかったな。後悔しているよ。あんたに教えてやることが出来なくて」
「余計なお喋りはもういい」ライヒライトナーが威圧的に言った。「武器を捨てろ」
レオンは食卓に歩み寄り、短剣と短銃を置いた。シエルがじっとレオンを見つめ、他の三人があからさまに安堵の表情を浮かべる。
「両手を上げろ」ライヒライトナーが命じた。
レオンは両手を上げる動作をしながら、袖の内側に隠していた小型の短刀をライヒライトナーに投げつける。鋭剣を構えていた手に命中し、思わず大佐は鋭剣を落としてしまう。
曹長が発砲したが、レオンは床を転がって照準を逃れた。膝立ちになり、曹長の眉間を撃ち抜く。
ザイデルマンが食卓の短銃に手を伸ばした。レオンは新たな短銃を抜き、彼の心臓を撃った。公爵は衝撃で後ろにひっくり返る。
立ち上がりながら連装銃を抜き、腕を伸ばしてライヒライトナーに突き付ける。彼は両手を上げた。
「待て、〈ジャッカル〉。私は役に立つ男だ」
「なるほど、そうかもしれない」
レオンは大佐に銃を突き付けたまま食卓の短剣を回収し、シエルの傍に寄った。歩けない彼女の片腕を自分の肩に回し、歩行の助けにしてやる。
「大佐」シエルが言った。「あなたは自分を役に立つ男と言ったわね? それなら、公爵が他の貴族たちと結んだ密約書の有無を知っているわよね?」
「ああ、密約書は存在している」ライヒライトナーが躊躇しなかった。「書斎にある。案内しよう」
「そうしてもらうわ」
シエルが言い、レオンが大佐を扉の方へ押しやった。
◇◇◇
書斎は古い趣のある部屋だった。壁には歴代ザイデルマン公爵家当主の肖像画が飾られている。
ライヒライトナーはレオンに銃を突き付けられながら、空の暖炉に向かっていた。
壁の煉瓦を幾つか抜くと、中には秘密の扉があった。大佐は汗をかいていた。
「よし、中身を出してもらおうか」レオンが命じる。
ライヒライトナーは扉を開けて中に手を入れ、短銃を手に振り返った。レオンは肩を撃ち、相手が衝撃でくるりと後ろを向くと、さらに背骨を撃った。
大佐は壁にぶつかり、床に倒れる。
「馬鹿な男だ」
レオンは吐き捨てるように言った。そして扉の中を覗き込んだ。そこには一冊の冊子があった。彼はそれを取り出し、椅子に腰かけているシエルに振り返った。
シエルは呆れたように息をつき、首を振った。
「貴方は敵を生け捕りにするということをまったくしないようね。城の中はまるで肉屋じゃない」
彼女は椅子の背もたれに体重を預けた。
「まったく、まだ火薬と血の臭いが鼻に残っているわよ」シエルはレオンを睨みつける。「貴方、何人殺したのよ? 何とも思わないの?」
「俺に反省しろとでも言うのか?」
レオンは肩をすくめた。シエルは息をつく。
「もういいわ。私、自分でも何を言っているのか判らなくなってきたの」
「そいつはどうにも素敵だな」
レオンが唇を捻じ曲げた。
「さっ、私を背負いなさい。帰りましょう」
「御意のままに、陛下」
レオンはシエルを軽々と背負い、城館裏手の厩へと歩き出した。翼龍を手に入れるためだ。
レオンに背負われながら、シエルははにかむように微笑んだ。もちろん、レオンからは見えない。シエルはそっと、彼の耳元で囁いた。
「ありがとう」
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