二 黒い忠誠心
当時十歳だったシエルリーズ・アリア・エル・アルフリームという少女は、王女としては行動的な部類に属する人間だった。行動的すぎて周囲を振り回すという悪癖を持っているが、本人はまったく気にしていなかった。
幼少時は王宮の探検をして迷子になったこともしばしばである。王宮はかつての城としての名残を留めている部分もあり、少女の好奇心を大いに刺激した。
その好奇心はやがて、王宮の外に向けられるようになった。
この当時、王族や貴族の子女の教育には家庭教師を充てることがほとんどであったが、その内の一人が、将来彼女が為政者となった場合のことを考えて、ある日、王都の視察にシエルを連れていったのだ。
国王には彼女以外に子供がいないので、シエルが王位第一継承権者であった。そのため、家庭教師たちは彼女を将来の良き為政者たらしめようと、様々な教育を施していた。
もちろん一国の王女の視察であるから、御付武官など多数の護衛を引き連れていた。しかし、シエルにはそれが不満だった。
物々しい警護をされたら市民たちが萎縮して、本来の姿が見られないじゃない。
幼い彼女はそう思ったのだ。
だから、彼女はいつかお忍びで王都を見回ろうと計画したのだ。
◇◇◇
そして決行の日。
シエルリーズは王女であることがバレないよう、王宮に勤める同年代の行儀見習いの服を着込んだ。洗濯物を干してある中から、こっそりと拝借した服である。侍女たちは、風で飛ばされたと思っているらしく、服が一着消えたことに大して気をとめていなかった。
そのまま、御用商人たちが王宮に物資を搬入する門へ行き、帰りの馬車の荷台に潜り込む。
行きは荷物を検査される御用商人たちであるが、帰りは王宮内でよほどの変事がないかぎり、検査されることはない。
こうして彼女は王宮から抜け出すことに成功した。
宰相府など政府の建物や貴族の屋敷が並ぶ王都中心部を抜け、人々が活発に行き交う王都の大広場―――市場へと足を向ける。
シエルのことを貴族の屋敷から使いに出された使用人の少女だと思っているのか、市場の人間たちは、それほど彼女のことを気に留めていなかった。
やはり、自分が多くの護衛を引き連れて視察に訪れた時とは市場の活気が違った。威勢のいい声が、市場が開かれている道を行き交う。人々も、自由に通りを行き来している。
朝一番で取れた魚を売る露店、大きな丸い乾酪など乳製品を売る露店、瑞々しい野菜や果物の並ぶ露店、異国の珍しい商品を並べた露店、どれもがシエルには新鮮に思えた。
流石に子供の足で王都全域を見て回るのは不可能なので、そろそろ王宮に帰ろうかと思ったその時だった。
「……えっ?」
シエルは見たのだ。青果店の店主と客らしき男が商談に集中している一瞬の隙、その合間で自分と同じくらいの子供が店の背後から手を伸ばし、林檎を何個か持ち去った瞬間を。
だが、周囲の大人たちは気付いていない。子供と大人で視線が違うからかは判らないが、とにかく泥棒である。
大人が気付いていないなら、自分が捕まえなくちゃ、とシエルは思ったのだ。
大声で叫ばなかったのは、あまり目立って自分が王女であることを知られたくないという心理が働いたからだろう。
人々の合間を小柄な体で器用にすり抜け、盗人の少年が消えた路地を進んでいく。路地は薄暗く、そして迷宮のように広がっていた。
一瞬、シエルの心に王宮の王城時代の遺構を探検した時の興奮が蘇る。だが、そんな場合ではないと気を引き締める。
しかし、所詮は土地勘のない少女の足である。駆けたとしても、その体力はたかが知れている。
十分と経たずにシエルの息は上がり、どことも判らない人気のない小汚い路地で立ち尽くしていた。
「へぇ、あんた、身なりがいい癖に中々根性あるんだな」
馬鹿にした口調が、頭上から投げかけられた。
シエルが見上げれば、建物の庇の上であぐらをかいて林檎を囓る少年がいた。黒い髪に、瞳の色は何ともいえない色、透明に近い不気味に澄んだ色だった。
その少年が、食べ終わった林檎の芯をシエルに投げつけた。
「何するのよ! それに、その林檎!」
シエルは相手の少年をきっと睨み付けた。
「ああ?」
新たな林檎を囓り始めた少年は、胡乱げな目で眼下の少女を見る。
「人のものを取っちゃ駄目って、お父さんかお母さんに教わらなかったの!? あなたのやったことは泥棒よ、泥棒!」
幼い王女の糾弾を聞き流して、少年は林檎を囓り続ける。
「ちょっと、聞いているの!」
いい加減、堪忍袋の緒が切れかけたシエルの前に、すとんと少年が猫のように降り立った。
「生憎と、あんたみたいに俺にものを教えてくれる親はいなくてなぁ。そいつは随分失礼した」
その言葉は相変わらず馬鹿にした調子のまま、反省も何も見えない。だが、手を伸ばせば届く場所にいる少年に、シエルは一瞬、何も言い返せなかった。
汚れた顔、細い体、粗末な衣服、どう見ても貧しそうな身なりの人間だ。
対して、自分はどうだ? 行儀見習いの服を着ているとはいえ、上等な服を着て体も清潔だ。
その対比に、シエルは酷い違和感を覚えたのだ。
「おいおい、どうした、黙り込んで? お説教の続きはまだかよ?」
挑発するように嗤う少年の口元。
「あっ……えっと……」
その少年の目に宿るものに気付いて、シエルは言葉に詰まる。
「おいおい、俺の恰好を見て驚いているのか? そりゃ、あんたみたいな人間には俺みたいな人間は珍しいだろうなぁ。でも、見世物じゃねぇぞ」
脅すような、嗤うような口調で少年は言った。
「えっと、そうじゃなくて……」
自分の中に生まれた感情を、どう表現していいのかシエルは迷う。
不思議なことに、彼女の中に生まれたのは身なりの貧しい少年に対する嫌悪感ではなかった。ただ、何故だか少し悲しい感じがした。その原因が何なのか、よく判らなかったが……
「なあ」
今までの小馬鹿にした口調とは違う、本気の声が少年の口から漏れた。
「俺はな、あんたみたいな人間が嫌いなんだ。あんたみたいな食うに困ってなさそうな裕福そうな人間がな。そんな奴に偉そうに説教されたくもねぇ。だって楽だろ? 自分は安全なところにいて正論を振りかざすのって」
「それは……」
「世の中ってのは所詮、権力者や金持ちの身勝手で動いているようなもんだ。だから俺はそいつらを憎む。俺とあんたじゃ、住む世界が違うんだよ」
シエルの言葉を遮って、少年は続けた。そしてまた、彼は嗤うのだ。嗤う以外にこの世界を生きる術はないと言わんばかりに。
「……あなたは、私が憎いの?」
今まで向けられたことのない感情を向けられたシエルは、戸惑いがちに問うた。だが、その問いに少年は不愉快そうに顔を歪めたのだ。
「ちっ」
そして、苛立たしそうに舌打ちをすると、シエルの腕を掴んで引っ張り出した。
「ちょっと!」
一瞬、どこに連れていかれるのかとシエルの心に恐怖が浮かぶ。
「ったく、あんたみたいな頭の良い奴は本当に嫌いだよ。目障りだからとっとと消えな。大通りまでは送ってやる」
「えっ?」
その意外さにシエルは目を見開く。この少年は、自分が憎いのではなかったのか。
「あんたみたいな奴をぶん殴りでもしたら、俺は俺の嫌いな連中と同じになっちまう。運が良かったな、あんた」
それは、この貧しい身なりの少年なりの矜持なのだろうか。
掴まれたままの手は、自分と違って堅かった。男の子と手を繋ぐのは、夜会で貴族の子息たちと経験ずみではある。だが、それとは違った感覚をこの時のシエルは得ていた。
自分を導こうとする、細い割に力強い手。
それが何故か、シエルには嬉しかった。
自分のことを憎いと言った少年のぶっきらぼうな優しさに触れたような気がしたのだ。
「……あんたじゃくて、シエル」
気付けば、シエルはそう名乗っていた。
「そうかい、俺はレオンだ。ただのレオンだよ」
いささか投げやりに少年―――レオンは答えた。
「俺みたいな奴に説教垂れる馬鹿娘に付き合ってやるほど、俺は優しい人間じゃない。俺はあんたらみたいな裕福な人間が嫌いだ。俺は生きるのも死ぬのもどうでもいいが、負けるのだけは大っ嫌いなんだ。特に権力者や金持ち連中にはな」
そう言ったレオンの後ろ姿しか、手を引かれているシエルには見ることが出来ない。それがひどくもどかしく、シエルは足を速めてくるりとレオンという少年の前に回り込んだ。
「おい」
突然の行動に、黒髪の少年は苛立った声を上げる。シエルがレオンの進路を塞いだため、二人は人気のない裏路地で立ち止まることになる。
シエルはレオンの瞳をじっと見つめていた。裏路地に差し込む細い陽光が照らし出すのは、深淵のような虚無だった。
シエルはようやく、何故自分が悲しく思っているのかを理解した。この少年の態度だ。
世の中をあまりに冷たく割り切り過ぎているのだ。裕福な子供がいれば、その数倍、あるいはもっと貧しい子供がいる。そして権力者や金持ちは自分のことしか考えていない。
そんなふうに、彼は世界を割り切ってしまう。そんな理不尽な世界に対して、彼は何の幻想も抱いていないのだ。
きっと、割り切ってしまえば自分が楽だから。
「貴方は、世界の辛い面だけを見て生きているのね」
同情ではなく、悲哀がシエルにそう言わせた。
「俺は見たままを話しているだけだ。世界ってのは、所詮はこの目で見られるものだけだからな」
「そこに貴方にとって価値のあるものは、何一つ存在しないの?」
「そうだな。っていうかあんたは、この世界が綺麗だとか、人間が善いもんだとか、本気で信じているのか?」
レオンは素っ気なく答えた。その素っ気なさはシエルの心に、冷たい氷のように触れた。
シエルはそっと、彼の頬に両手を伸ばした。白く長い指を、その頬に添える。そして自分の視線と彼の視線を合わせ、微笑みを浮かべた。
「ねえ、レオン。貴方が今まで見てきた世界は、そんなものなのかもしれない。でも、貴方が見てきたものだけが世界のすべてじゃないわ。だから、まだそんなふうに幻滅するのは早いわよ。貴方が負けず嫌いなように、私は諦めるのが嫌いなの。だからね、レオン。貴方が馬鹿娘と言った私に、もう少しだけ期待してなさい。約束よ。もし私が約束を違えるようだったら、その時は殺してもいいわ。でも私が約束を違えない限りは、期待していて。いつか貴方の空虚を埋めてみせるから」
それは、こんな裏路地でするにはあまりに神聖な約束だった。
でも、その約束がシエルの征く道を決めたのだ。自分は絶対に女王になる。そして、彼をこんなふうにしてしまった世界を変えてやるのだと。
いつかみんなが笑って過ごせる国を創りたい。
それが、シエルリーズ・アリア・エル・アルフリームという少女の原点となった。
その後、王宮へと帰ったシエルだったが、案の定、御付武官で教育係の一人でもあったレメルゼンという初老の軍人からこっぴどく叱られることになった。
そして、王宮を抜け出して周囲を驚愕させたこの王女は、街で知り合った浮浪児の少年を専属従者にすると言い出し、また周囲を驚愕させることになった。
反対の声はあったものの、レメルゼンの下で護衛官として鍛えるということで最終的に話はまとまった。
そして、シエルのその判断とレメルゼンの鍛錬が間違いではなかったと証明されたのは、二人の少年少女が出会ってから二年後。
シエルが十二歳の時に起こった王女暗殺未遂事件。
彼女を身を挺して庇い、その命を救ったのは他ならぬレオンだったのである。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
シエルは即位にあたり、各組織の大幅な改造を行った。その過程で生まれた組織の一つが、国王直属の国防情報部だった。
現在、国防情報部長を任されているシュテルンベルクは、元親衛隊情報部部長であった。
一方でシエルは、歴代の王の下で拡大し過ぎていた親衛隊の規模と権限を大幅に縮小していた。本来であれば厳格な選抜制であった親衛隊は、時代と共に世襲化し、一つの政治勢力と化してしまっていたのだ。
かつてシエルの御付武官であったレメルゼンがレオンを護衛官として鍛えるという条件でシエルの従者となることを認めたのも、親衛隊の専横に対抗する人材を育てたいという思惑があったからである。
そうして現在、シエルは親衛隊も含めた国軍全体の軍制改革を実施している。
こうした彼女の改革は後世、「最初の近代的軍隊の一つ」として評価されることになるが、現在は国軍も含めたアルジオス王国全体が改革の途上にあり、当事者たちはただ現れる問題の処理に追われる日々であった。
そうした中で、敵の多い女王にとって信頼出来る情報をもたらしてくれる組織は欠かせないものとなっていた。
国防情報部の部長執務室では、シュテルンベルクが副官のアラン・レントと共に情報整理に追われていた。
レントは三十代後半の男で、シュテルンベルクが警察の保安部からわざわざ引き抜いてきた人材であった。
不意に扉が叩かれ、レオンが入室してきた。
「皆さんに神の恵みがありますように」
「やあ、来たな」
シュテルンベルクが書類から顔を上げた。
「誰です? このチビ助は」
レントがレオンに剣呑な視線を向けて言った。
「失礼な奴だ」レオンが挑戦的な目でレントを見遣る。「それと、正しい返答の仕方は『あなたにも神の恵みがありますように』だ。まあ、今回は細かい事は言わないでやろう。俺はレオン、ただのレオンだよ。まあ、〈ジャッカル〉と言った方が通じやすいだろうがな」
自己紹介で、レントの視線がますます険しいものになる。
「彼は私の副官のアラン・レント」シュテルンベルクが言った。「元警察の人間で、当然、君のことなど好いてはいない」
「ほう、そうかい」
レオンが軽い口調で言った。
「見ろ、アラン」シュテルンベルクが言った。「彼がジャッカル。何よりも鋭い女王陛下の剣だ。銃を握らせても剣を握らせても、第一級の戦士だ」
「見えていますよ」レントは不快そうに言った。「私にはただの人殺しにしか見えませんがね」
「まあ、そう言うな」シュテルンベルクはなだめるように言う。「状況が険悪になってきた時でも、それに対処できるだけの頭脳と経験を持った人間が今回は必要なのだ」
「で、俺が女王陛下から命じられた任務だがな」レオンが言った。「とにかく、イルセルク領に行く。もう将軍には話が行っていると思うが」
「ああ、すでに陛下から君の任務に全面的に協力するように命ぜられている」シュテルンベルクが答えた。「すでに翼龍の手配は済んでいる。武器は自前だから、必要ないな?」
「ああ」
レオンが頷く。
「確認だが、君の今回の任務はザイデルマン公爵の暗殺。それによる貴族連合軍の瓦解を狙う」
シュテルンベルクの言葉に、レオンはにやっと嗤った。
「それはあくまで副次的なものだろう? 本当の目的は、俺が囮になってこちらの情報がどこから漏れるのかを特定することだ」
「だからこそ、君が適任なのさ」シュテルンベルクが唇の端をわずかに持ち上げた。「何か問題が起きても、君ならば独力で対処可能だろう?」
「それはやってみてからのお楽しみさ」
レオンはいつもの軽薄な笑みを浮かべて、嘯いた。
◇◇◇
「出発は、今夜の九時ね?」
王宮の執務室で、シエルが言った。
「ああ、王都郊外の飛龍場から翼龍に乗って、イルセルクまで飛ぶ」
壁に背をもたれさせながら、レオンが答えた。
翼龍は「この世界」に存在する飛行獣のことだ。世界中に多種が分布している。翼龍に騎乗する龍兵という兵科も存在しているほどだ。
今回は、龍兵の駆る翼龍にレオンが便乗し、目標地点上空で落下傘降下を行うことになっている。
「それにしても、反乱に内通者、きな臭くてかなわないわね」
シエルは唇を皮肉の形に捻じ曲げた。
「我らが女王陛下は嫌われ者のようだから、仕方ないだろう?」
レオンが肩をすくめる。
「貴方ほどじゃないわよ」即座にシエルは言い返してやった。「まあ、私としては貴方がもっともっと嫌われて欲しいけど」
いささか以上に弾んだ声音だった。
「なにそんなに楽しそうな口調で言ってんだ?」
流石に嫌そうな口調でレオンが問う。
「独占欲が強いのよ、私」シエルは悪戯っぽい笑みを浮かべる。「だから貴方を一人占めしたいの。絶対に手放してやるものですか。貴方の所為で、私、こんなところまで進む羽目になったんだから」
シエルの言葉に、レオンは奇妙な笑みを浮かべた。
懐かしむような、そんな、遠い笑み……
「まあ、何だっていいけどな」
レオンは嘯いた。
「手放すつもりがないのはこっちも同じだ。お前の頼みなら、何だってしてやるさ」
「……ありがとう」
シエルは優しく微笑みながら、静かな声で言った。
「でもどうしてかしらね? 貴方はまだ、何一つ報われていないのに」
「理由は簡単だ」レオンは平静な口調で続けた。「俺は契約を守る人間だ。だから相手にも同じことを要求する。それだけだ」
シエルは思わず頬を緩ませた。まったく、この少年は性質が悪いと思う。多分、レオンはどこまでだって自分に付き合ってくれるだろう。彼の言葉は迂遠ではあるが、自分にとってはそれだけで十分だった。
「判ってるわよ」
シエルの言葉は宣誓でもするような口調だった。
「貴方との約束だけは、果たしてみせるわ。じゃないと、五年前とこの前の内乱の時、貴方が私を助けてくれた意味がなくなってしまうもの」
シエルの言葉に、レオンは暗い表情を返した。
彼は時々、彼女が自分に向ける健気さを悲しく思うことがある。果たして俺は、こいつの健気に応えるだけの「何か」を持っているのだろうか?
「女王陛下万歳」レオンは暗い表情のまま言った。「万々歳だ。忠誠心の表明はこれくらいでいいか?」